最期の笑い | 看取り看護師めぐ〜死ぬとは最期まで生きること

看取り看護師めぐ〜死ぬとは最期まで生きること

どうか大切な人の最期を穏やかに看取れますように
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患者さんは末期の大腸癌でした。

終末期を病院で過ごすために入院していました。

奥さんが毎日来ては洗濯物を持っていったり、ひげを剃ったりしていました。

体力が弱っていて、患者さんはほとんど声を出すことはなく時折質問にうなずくか細い声で返答するぐらいでしたので、奥さんと楽しく会話をするという場面はみたことがありませんでした。

それでも奥さんが帰ると、「かあさんはどこに行った?」と聞くことがあり、奥さんの訪室を楽しみにしているのだと感じられました。



私が夜勤の時です。
変化は突然起こりました。

酸素飽和度と脈拍の測れるモニターをつけていたのですが、アラームが鳴り訪室すると、顔面蒼白でとても苦しそうに呼吸をしていました。

意識はあったので、奥さんを呼びますか?と問いかけるとうなずかれたので私は奥さんを電話で呼び出しました。

30分後に奥さんと息子さんが来院しました。

大腸癌の末期だったので、いつ急変が起きてもおかしくない、すでに心臓マッサージなどの延命措置はしないという確認は家族にとっていました。

しかし、突然の状態悪化に死への受容がまだできず、家族は「お父さん、しっかりして」と患者さんの身体をゆすり叫びました。

私は、「○○さんは意識があります。もし意識がなくなっても、耳は聴こえていると言われています。」と伝えました。

家族は何を話したらよいかわからない様子で、少し沈黙が続きました。

私が患者さんのベッドから柵をはずし、ベッドの横に家族が座れるように椅子を置くと、患者さんの右側に奥さんが座り右手を握り、左側に息子さんがすわり左手を握り、家族で手をつなぎました。

奥さんと息子さんはベッドの上に肘をつき、自然と患者さんのそばに寄りながら、よく旅行に出かけたなどの昔話をし始めました。

ベッドの柵が身体的な垣根だけでなく、精神的な垣根にもなっていたようです。

私も時々訪室してお話を聞いていました。

患者さんが9人兄弟の末っ子で甘えん坊だったこと、昔はよく手をつないで奥さんと出かけていたこと等を話す様子や、手をつないだのは何年ぶりかしらと頬を赤らめる奥さんの顔は本当に穏やかで、さきほどパニックを起こしていたときとは別人でした。

患者さんも意識は薄れていましたが、なんとなく笑っているように私は感じました。


呼吸がだんだん浅く少なくなってきていよいよ最期を迎えるというときに、患者さんは口をもぐもぐと動かして何かを言おうとしました。

そして涙を一筋ながして大きくうなずいたのです。

もしかしたらただの反射だったのかもしれませんが、私には家族に「ありがとう」と言ったように感じました。

それを家族に伝えると家族も涙を流して「ありがとう」と患者さんに伝えました。

そして静かに息を引き取りました。




死後の処置をするために、部屋の退室をお願いしたところ、奥さんから「お気に入りだったパンツです。履かせてください」と青いトランクスを渡されました。

周りにいた親族や病院のスタッフにどっと笑いがおき、奥さんも恥ずかしそうにしていましたが笑顔でした。

身体がかなり浮腫んでいて、元気だったころのサイズのパンツをはかせるのは苦労しましたし、パンパンになってしまったのですが、一所懸命履かせていただきました。

患者さんの顔が微笑むようにマッサージやメイクをさせていただき、家族に対面していただくと、「父さん、笑っているね」と息子さんがぽつりとつぶやいてまた家族は涙をながしました。




患者さんにとっては人生の最期を、そして家族にとっては患者さんを失いまた新たなスタートをする場面を笑顔で迎えられたのはとても素敵なことだったと思います。

来院したときのパニック状態が続き、患者さんの死を受容できない形で最期を迎えてしまっては、立ち直るのに相当の時間がかかったと思いますが、この家族は笑顔で最期を看取れたので、しっかりと新たなスタートを切れると私は思いました。

私は患者さんや家族が穏やかに過ごせる環境を整えただけで、特別なことは何もしていません。

しかし、看護師は自分が患者さんの笑いを引き出すだけでなく、患者さんと家族の双方が笑える環境を整える間接的な援助も必要なのだと感じました。