キルスタンは大きなあくびをした。
 その巨大な顎からは、最大で長さ三十センチにも及ぶ牙が並んでいるのが覗いている。
 彼女が正にティラノサウルス・レックスである証である。
 ばくん、と大きな口が閉じられると、今度は犬がするように首を振る勢いを利用して全身を振るった。
 我ながらに、狩りの最中だというのに、のん気すぎる気がしないでもなかったが、キルスタンはいつもこうして、狩りで高揚する気分を鎮めているのだった。
 それに二十三歳を過ぎた彼女は身体が大きくなり過ぎて、身を潜めて獲物に忍び寄ることも出来ないし、何よりも獲物を追って走るには身体が重たくなりすぎていた。今では弟達が追い詰めた獲物に止めを差したり、まだ顎の力の弱い子供達に肉を取り分けるのが彼女の仕事だった。
 そして弟達は、今まさに獲物に忍び寄る算段の最中だった。
 三方を丘に囲まれた草原では、エドモントサウルスの群れが食事の真っ最中だった。
 この草原には柔らかくて甘いシシゴヤシの草が群生しており、多くの草食恐竜の食事場として賑わっている。彼らが落としていく排泄物を肥やしにして草もよく育つので、さながら草食恐竜の農場のようであった。
 そしてここは、キルスタンの群れの狩場でもあるのだった。
 ブライアンとクレイグ、アルフォンスの三兄弟は風下にある灌木の影に身を潜めてエドモントサウルスの群れを伺っていた。
「一番でかいやつをやろうぜ。姉さん達が出る幕もないくらい鮮やかにさ」
 体が大きく、好戦的なブライアンが鼻を鳴らしながら息巻いた。
「待ってよ、一番でかいやつなんて無理だよ」
 それを諌めるのはクレイグだ。
 末っ子のアルフォンスは目を細めて遠くを観察している。
「あそこに怪我をしている奴がいるよ。ほら、右足を少し引きずってる」
 二頭の兄は鼻で小突き合うのを止めて、アルフォンスの指すほうを睨んだ。
「そうかあ? 引きずってるようには見えないぞ」
 そう言ってまた鼻で小突き合い始める。しかしアルフォンスは絶対間違いないと言って譲らなかった。
「どうする?」
 ブライアンは少し考えてから鼻を鳴らしながら答えた。
「あいつも四番目くらいにでかいからな。よし、あいつにしようぜ」
 獲物が決まると三頭は丘に隠れながら、それぞれの持場へと走った。
 ティラノサウルスは決して俊足ではないが、一番大きなブライアンでも体長七メートルに満たない若い三頭は、生涯で最も俊敏に動ける時期にあった。
 三頭はそれぞれ灌木の影に潜んで、獲物との距離を少しづつ詰めていった。
 風向きは問題ない。若いとはいえ決して小さくはない体を器用に灌木に隠しながら進んでいった。
 距離が詰まってくると、腹を地面に擦りつけながらソリのように進んだ。
 それでも近づくにつれ、やすやすとは動けなくなってくる。獲物は常に周囲を警戒しているからだ。獲物の近くに潜んだまま何十分も過ぎるということはしょっちゅうだった。
 三頭はすでに獲物の群れを取り囲むように潜んでいたが、身を隠すところが少なく、これ以上は近付けないでいた。
 群れの中央付近では子供のエドモントサウルス達が食事に飽きてじゃれあっているのが見える。その周囲を高齢の大人達が囲み、群れの外周は若い大人達が交代で見張りながら食事を続けている。
 やがて外周の若いオスが立ち上がり、鼻を高く上げて風の中の匂いを覗い始めた。
 群れに迫る危険な気配を察知したらしい。
 こうなると潜み続ける意味はもう無い。
 まずは身軽なアルフォンスが飛び出した。
 突然現れたティラノサウルスの姿に、エドモントサウルス達は慌てて走り出す。
 アルフォンスは群れの周囲をジグザグに走って、クレイグの潜む方向へ誘導する。
 右往左往する群れはアルフォンスに誘導されて、クレイグの潜む丘へと流れ始めるが、その進行方向に現れた新たな敵の姿にパニックに陥った。
 再び散り散りになった群れの前に、今度はブライアンが現れる。
 三頭の若いティラノサウルスに追い立てられるうちに、やがて弱い者がはぐれ始める。
 それは大抵は子供達か、弱った高齢の個体なのだが、今日はその中にひときわ大きな個体が混じっていた。
 アルフォンスの言った怪我をしている奴だ。何度も方向転換をしながら走るうちに痛めた足を庇いきれなくなったのだろう。苦しそうに息を乱しながら、群れの後を追っていた。
 横から回り込んだクレイグが腰に牙を立てるが、振りほどかれて地面に投げ出される。
 アルフォンスは前へと回って、怪我をした奴と群れを分断した。そこへブライアンが飛びかかって、後頭部に噛み付いた。
 エドモントサウルスは悲鳴を上げながら身を捩って抵抗する。食い込んだ牙が皮膚を裂き、血液が溢れ出す。
 そこへ立ち上がったクレイグが怪我をしている右足に噛み付き、後ろに引っ張る。
 今度は尻尾を振って抵抗するが、クレイグは身を低くしてこれをかわす。まともに食らえば簡単に骨くらいは折れてしまう強力な尻尾だ。
 アルフォンスも加勢して引き倒してしまおうとした時に、ブライアンが悲鳴を上げて地面に投げ出された。
 仲間を助けようと、他のエドモントサウルスが体当たりをしてきたのだ。
 周りは若いエドモントサウルス達に取り囲まれていた。こうなっては多勢に無勢、たった三頭の若いティラノサウルスでは太刀打ちできない。
「兄さん! 鼻だ! 鼻を噛んで窒息させるんだ」
 そう言ってアルフォンスはブライアンと周りを囲む若いエドモントサウルスの間に割って入り、周囲を威嚇する。
「分かってる、チクショウ!」
 起き上がったブライアンは鼻に噛み付いた。
 しかし足を怪我しているとはいえ、ブライアンのゆうに二回りは大きな獲物の力は強く、無理矢理に振りほどかれてしまって、なかなか窒息させることが出来ない。
 何度も噛み付かれては力任せに振り解くものだから、獲物の鼻先はざくろのように裂け、流れだす血で真っ赤だった。もうどこが鼻の穴か見分けられないほどだ。
 アルフォンスの隙をついて、一頭のエドモントサウルスがクレイグを弾き飛ばした。
 右足の踏ん張りを取り戻した獲物は、痛みを我慢して鼻先をブライアンの顎から引き抜き、ブライアンを押し倒した。
 そのままブライアンの上に巨体を伸し掛からせようとした時、一際大きな地響きと、身の毛もよだつ絶叫が響いた。
 エドモントサウルスの首に巨大な顎が噛み付き、長大な牙が食い込んだ。
 キルスタンが突進してきたのだった。
 キルスタンは首に噛みついた勢いで、エドモントサウルスを押し倒し、胸部に鈎爪を食い込ませて踏みつけた。
 エドモントサウルスは声にならない悲鳴を上げる。
 キルスタンがさらに顎に力を込めると、マシュマロを潰すように顎は深く食い込み、首の骨が砕ける音が大きく響いた。
 最早、彼を助けようとする者はなく、エドモントサウルスの群れは、殺される仲間を遠巻きに見るだけだった。
 何が起こったか分からないブライアンはきょとんとして地面に転がっている。
 キルスタンに首を折られ、痙攣する獲物を見て、ようやく状況を理解した。
「ちぇ、姉さんなんか出てこなくても余裕だったのにさ」
 キルスタンは獲物から牙を解き、頭を上げた。
「そうかい? うちの坊や達に少しでも早く食わせてやりたくてね」
 顎にしたたる獲物の血を、ぺろりと舌舐めずりしたキルスタンの顔は、にたりと笑っているように見えた。