名古屋にもついに小劇場の拠点ができた!ということで、遅ればせながらメニコンシアターAoiに行ってきた。ニュースで開場したことは知っていたが、ホームページを観てみると、なんとラインナップに“ハイバイ”、“岩井秀人”の文字が!これはなんとしてでも観に行かねばということで、個人的杮落とし(カキ落としじゃないよ)はハイバイに決定!と思っていたのだが、この企画、脚本は岩井秀人ではなく、出演者自身であることを当日知る。

 

岩井秀人とハイバイのファンとしては、ちょっとどうなんだろう…と半分不安を抱えながら観劇したのだが、これが大間違い!なんとも見事にハイバイ作品になっており(←これは作者の方にとっては、失礼ではあるが…)、岩井秀人の数々の傑作に負けず劣らずの出来であった。

 

作者の異なる4つの作品をここまでの完成度に仕上げたのは、間違いなく岩井秀人の手腕なのだろうが、さながら演出という魔法の粉(マジック・パウダー)が掛けられているようだ。

 

あまりにも期待を超える演劇体験に感銘を受けたので、久々に劇評を書くに至った(それにしては、時間が空きすぎてしまったが)。以下、上演順にあらすじを記していく。

 

①「再々々々々々」

タイトルは、6回の結婚(=再々々々々々婚)をした父の話という意味。主人公は、四日市出身のアリ。父親は典型的な駄目男で、母に暴力を振るうわ、浮気はするわで、母はアリとその姉を連れて早々に家を飛び出す。

 

しかし、押しかけてきた父に連れ去られ、アリは母と離れて暮らすことになる。その後、母はなぜか父と再婚したり、逃げだしたりを繰り返しながら、アリは大人になり、結婚する(この結婚も父から逃げ出すために踏み切ったところがある)。

 

ある日、父の何人目かの妻の子である高校生の妹から連絡があり、アリはその子を家に預かることに。そして、アリは母のように世話をする。

 

一方、父は今度はフィリピンかどこかの女と結婚すると言い残し、日本を飛び立つ。しかし、帰国した父が見せた写真には出発前に見せられた結婚相手とは別人の女が写っていた。急遽、違う人と結婚することになったと言う父は、さらに子どもがもうすぐフィリピンで生まれるとアリに告げる。アリは思わず「キモ」と言ってしまう。

 

②「晴れ舞台」

これは内容の都合上、ストーリーを書くことができない。どこまで本当の話かわからないが、全くの虚構とは思えないので、ご容赦いただきたい。

 

ラストの「これが私の2年振りの舞台復帰作です。どうもありがとうございました」というセリフ(本音?)には、客席からは拍手が起こっていた。

 

今回の作品で面白いところは、各作品の出演者が共通しており、前の作品の脇役が、次の作品で主役になったりする(基本的に作者がその作品の主人公か狂言回しを演じている)。

 

「晴れ舞台」の主人公も①で、高校生の妹を演じていた女優だ。作品が切り替わるときに、衣装を着替えながら、場をつないでいるのが面白かった(演者もここが一番緊張すると言っていた)

 

①で優しい夫を演じていた俳優が、②でチャラ男に変身したのは笑った。本当にそう見えるんだから、役者はすごい。

 

③「身体よ、動け」

開業医の娘として一宮市に生まれた“しの”は、親の意向で医学部を目指している。しかし、高校生になるとストレスとプレッシャーで、ある日突然“身体が動かなく”なってしまう。11日間学校を休んだ“しの”は、医学部への進学を断念し、演劇系の大学に進む。

 

今回の舞台のオーディションのため、実家に戻り、この“身体が動かなくなった”11日間のことを親に聞いたところ、なんとそれは11日間ではなく、1年間だったということが明らかになる(山内マリコの傑作『ここは退屈迎えに来て』にも1年間眠り続けた女子高生の話がある)。

 

そして、この舞台のオーディションを迎えた“しの”だが、そこでまだ自分は“解放”されておらず、洗脳されていることに気づき、愕然とする。

 

『ワレワレのモロモロ』というこの企画、「出演者が自分自身の体験を台本化して演じる「私演劇」」とチラシに書かれているとおり、作品は演者の実話がもとになっている。今回は名古屋編と銘打たれているが、すでに全国各地で上演されており、出演者が各地に滞在し、ワークショップから作品を作り上げていく一連のプロジェクトなのである。なので、作品に昇華されているとはいえ、観ていて辛くなる場面も多い。①と③は特にそうであった。

 

④「失恋から始めるわたしのはじめかた」

この作品は、私の胸に焼き付いて、離れない。検査技師として病院で働く悟子(さとこ)は、同僚の医師と交際している。ところがある日、彼の部屋に行くと、悟子の歯ブラシがなくなっており、逆に枕が二つに増えている。浮気を疑った悟子は彼氏を問い詰めるが、彼はしらばくれるばかりで、謝りもしない。

 

こうして彼氏を失った悟子は、ブックオフで心理学の本に出会う。それをきっかけに悟子は病院を辞め、大学院に入学する。そこで彼女は心理学を勉強するとともに自らもカウンセリングを受けるようになる。そして彼女は、自分自身の心の中に小部屋があり、幼いころの自分の分身である少女が存在していることに気づく。彼女はその子を“ハコ(≒箱)”と名付ける。

 

悟子は幼いころから“いい子”として育てられ、それを内面化していた。母親は厳しく、テストの点数が悪いと悟子に暴力を振るった(そういえば、②の主人公の母親も躾に厳しい人だった)。家族は、体面を取り繕うことばかり気にしている(田舎特有のこの感じは私もよくわかる。おそらく主役の方は私と同郷)。

 

家族のグループLINEからも脱退した悟子は、「話したいことがある」と実家に帰り、両親に手紙を読み上げる。それは、幼いころ自分を虐待したことに対して、謝罪を求める内容だった(この辺はご本人のnoteに詳しい)。

 

両親は意外とあっさり謝罪して、悟子は拍子抜けするのだが、手紙のシーンには私も涙が止まらなかった。こうして悟子は、“ハコ”を小部屋から連れ出すこと成功する。

 

4作品とも舞台装置は、大小いくつかの黒い箱馬と白い布、屏風のように開閉する正方形の木の枠とシンプルなもの。これらがカーテンや布団、ドアや壁とさまざまに変形し、舞台を形作る。

 

どの作品にも多かれ少なかれ登場するのは親との関係。こんなにも親との関係で悩んでいる人が多いのかと驚く。自分は全く登場人物のようなことを親からされたことはないし、自分も決してすることはないだろうと思うので、自分は恵まれていたんだなと思う。

 

昨今、“毒親”という言葉が登場し、にわかに注目されるようになったが、思った以上に大人になっても悩まされている人はたくさんいる。

 

たまたま今回はすべて女性の作品であったが、男性の作品も観てみたい。親との関係というテーマでは、意外と大人になってからも親に“無意識に”縛られている人は男性にも多いと思う(私の周囲でも、「それは親が許さないから」と平気で言う人はいる。「そんなの許すもなにも親が決めることじゃないだろ」と思うのは私が恵まれているからだ)。

 

私事だが、以前、子どもの頃に母親を亡くした女性と交際していたことがある。彼女は、母親の愛を受けられなかったこと、姉としての立場から父親に親に甘えられなかったことを大人になってからも、心に空洞として抱えていた。

 

そのため、自分が欲しかった愛を交際相手である私に求めようとしていた。しかし、未熟だった私はそれを受け止めることができず、彼女の求めに応じられなかった。外面的には非常に自立した女性であったが、なんでも自分で抱え込んでしまうところは、ある意味わがままで、ひとりよがりだった。

 

彼女が4作目の主人公と同じ医療従事者であったことや、主役の女優と雰囲気が似ていたことも、この作品が私の胸から離れない理由かもしれない。

 

閑話休題。これだけネットが発達したこの時代に、劇場に集まった一部の観客にしか共有されないというこの演劇の閉鎖性(SNSとは対極にある)が、「知り合いのいない地方だから、ここまでさらけ出せる」という今回の企画を成立させているのが、なんとも面白く、演劇の力を再確認した。(劇場もいい劇場でした)

 

 

4作目の主人公・水谷悟子さん。この作品は今回の作品の前日譚であり、今回の作品はこの作品の後日談でもある。これもまた素晴らしい作品。