太田裕美の『赤いハイヒール』は『木綿のハンカチーフ』とは、反対に田舎から東京に出てきた少女が主人公になっている。
夢を抱いて、赤いハイヒールを買った少女は、男に出会う。
しかし、都会の暮らしは理想とは異なり、彼女は「タイプライター」を「ひとつ打つたび」に「夢なくした」とつぶやく。
そして、いつしか赤いハイヒールもかかとが取れてしまう。

ここで、また東京で出会った男が出てくるのだが、彼は、
「そばかすお嬢さんぼくの愛した
澄んだ瞳は何処に消えたの?
明日はきっと君をさらって
ふるさと行きの切符を買うよ」
と彼女を故郷へと誘う。

しかし、この物語はハッピーエンドにはならない。いや、歌詞の上では希望を残して終わるのだが、どうも私にはそれが、不気味なものに思われて仕方がないのだ。

「おとぎ話の人魚姫はね
死ぬまで踊る ああ赤い靴
いちどはいたらもう止まらない
誰か救けて赤いハイヒール

そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう
緑の草原裸足になろう
曲りくねった二人の愛も
倖せそれでつかめるだろう」

このあと、二人は幸せを手に入れることが出来るのだろうか。
私には、この3番の「そばかすお嬢さん」以下のサビは、主人公の妄想なのではないかと思えてならない。
松本隆は、赤いハイヒールからの連想でアンデルセンの童話「赤い靴」を持ち出す。ハンチントン舞踏病がモデルといわれるこの童話は、まさに不穏な結末を暗示しているといえる。
つまり彼女は、つらい仕事のために精神を病み、妄想の中で故郷へと自分をいざなってくれる男性を夢見ているのだ。実際には、そんな恋人は存在しないのにもかかわらず。

なぜこのような読み解きが成り立つかといえば、この詞が悲しい結末になっていないからだ。
本論でも述べたとおり、松本隆の世界では悲恋の中にしか美しい恋は存在しない。
悲しい結末でなければ、物語は終われないのだ。
だから、ハッピーエンドで終わるこの詞は、その結末を妄想のものであると解釈せざるを得ない。
もしそれが無理だとしても、恋人と故郷に帰った主人公は幸せにはなれないだろう。