井上ひさし作、初演はこまつ座で1987年。『きらめく星座』、『闇に咲く花』に続く、“昭和庶民伝三部作”の3作目。遠山事務所では2005年以来、2度目の上演だそう(井上作品は他にも『雨』が2度上演されている)。
この“昭和庶民伝三部作”には、すべて「○○物語」という副題がついており、『きらめく星座』は「昭和オデオン堂物語」、『闇に咲く花』は「愛宕稲荷神社物語」、今作は「湯の花劇場物語」となっている(ちなみに『花よりタンゴ』にも「銀座ラッキーダンスホール物語」という副題がついているが、“昭和庶民伝三部作”ではない)。
井上作品は、同じ愛知県芸術劇場の小ホールで、劇団演集による『太鼓たたいて笛ふいて』以来の観劇。
井上ひさしは卒論で取り上げたほどであるが、あまりに作品数が多いため、全作観劇どころか読破もできていない(恥ずかしながら)。よって、本作も初観劇となる。
舞台は、北関東の雪深い温泉地にある芝居小屋の楽屋。かつては関東一と謳われた「中村梅子一座」だが、その人気も今は昔、給金の支払いも滞るようになり、18名の座員もたどり着いたのはわずか6名。
これ以上の座員の離脱を防ぐため、座長と座頭は、芝居小屋の主である温泉宿の女将で、旅一座の人気子役だった過去を持つ佐藤和子と、新国劇出身で、座頭と旧知の仲である楽屋番の立花庫之介と共謀し、一芝居打つことに。
女将が実は、座長の生き別れの娘だという嘘を女将と座長の即興芝居で見せるのだ。 この作戦はまんまと成功(私も観客として騙された)。心を打たれた座員たちは、一座に残ることになる。
作品は二幕構成となっており、後半は逆に一座が女将に芝居を打つ。
夫に暴力を振るわれている女将を旅一座の世界に引き戻すために、稽古中に座長が怪我をしたと嘘をついて、代役として女将に舞台に上がるように仕向けるのである。
しかし、女将の方が一枚上手。一座の嘘を見抜いていた女将は、それを断り、逆に一座の存続のために、娘役のひろみにストリップ剣劇をやるように迫るのである…。
だが、一座のためなら裸になることも厭わないひろみの想いにほだされた女将は、舞台に上がることを承諾し、物語は幕を閉じる。最後は舞台の正面を楽屋の鏡に見立て、座員一同が一列に座り、化粧を始めるところで幕が下りる。実に演劇的なラストだ。
随所に、国定忠治や清水の次郎長など大衆演劇の台詞や場面が引用されるが、不勉強な私にはほとんどわからなかった(「赤城の山も今宵限りか~」のところくらい)。初演当時の観客には、これらの引用も面白味のひとつになっていたのだろう。
作劇に関しては、さすが井上ひさしだけあって、実に意識的に練られている。「前半では女将が座員を騙し、後半では座員が女将を騙す芝居を打つ」という劇構造。そして、「大衆演劇の一座の中で、いかにも大衆演劇的な劇中劇が行われる」というテーマが、作劇におけるアイデアの核となっている。
しかし、この作品には大きな矛盾がある(と思う)。それは第二幕で、第一幕の芝居(女将が座長の娘だという嘘)が作り話だということが、他の座員にもわかってしまっていることだ。しかも、他の座員もそれを驚くことなく受け入れてしまっている。普通であれば、嘘だとわかった瞬間に怒り出すはずである(ここはよくわからなかったため、戯曲を買って確認してみようと思う)。
そして、またこれは舞台版の『キネマの天地』(山田洋次監督の映画とは似て非なるもの)を観たときにも思ったが、今回もどこか、どんでん返しのための芝居という感じがする。つまり、劇中の物語にそのどんでん返し(=劇中劇)が必要なのか、いまいち必然性が感じられないのだ。
評伝劇ならモデルの人物がいるので、わざわざどんでん返しを用意する必要はないのだが、どうにも評伝劇以外の井上作品にはこのようなきらいがある。観客を驚かせるというサービス精神は決して悪いことではないのだが。
あとは、“庶民伝”と銘打った作品のひとつに作者が大衆演劇をテーマに選んだというのも興味深い点である。
国鉄の労組崩れの女形が登場するあたりも、いかにも井上作品らしい。
