奥田英朗『コメンテーター』を読んだ。大人気“精神科医伊良部一郎”シリーズの第4弾だ。このシリーズは、私が中学生の頃『空中ブランコ』が直木賞を受賞したときに、『イン・ザ・プール』と合わせて読んだのだが、とにかく面白かった。
阿部寛が演じたテレビドラマ(面白くなかった)も観たし、もちろん松尾スズキが演じた映画版(監督は三木聡!)も観た。徳重聡版とテレビアニメ版は、さっきウィキペディアを見て存在を知った。
3作目の『町長選挙』も単行本が出たタイミングで読んだが、これはあまり面白くなかった。ちなみに自分の中での伊良部一郎のイメージは伊集院光だ。
今回、たまたま文庫版を本屋で見かけて買ったのだが、まだ表題作しか読み終えていない。しかし、本題はそこではない。
『コメンテーター』ではコロナ禍のワイドショーが舞台。コメンテーターとなった伊良部は一躍お茶の間の人気者となる(といっても人気の正体は、後ろに映る看護師でバンドマンのマユミなのだが)。
ここで私が気になったのは、フィクションとリアリティの狭間についてである。
例えば、伊良部先生のようにフィクションの世界の中で、作品の登場人物が有名になったりする。すると私は、いつも違和感を覚えるのだ。物語の中で描かれるのは、読者である私の住む現代日本と同じ世界である。その世界で、登場人物は有名人となる。だとするとなぜ私は現実の世界で、彼/彼女がテレビに出たり、ニュースになっているところを見たことがないのだろう?
これは至極当然のことである。なぜなら物語はフィクションだからである。だが、さっきまで、いかにも「現実の世界です」というふうにリアリティをもって描かれていた作品の登場人物が、有名になってテレビに出たり、ニュースになってしまうと、急に矛盾を感じてしまうのだ。これが丸っきり異世界であったり、外国であったり、未来であったりしたら、読者である自分が知らないだけで、世界のどこかでは本当に有名なのかもしれないと納得できるのだが。
これは私の理想の文学観が、そうさせているに違いない。私にとって、理想のフィクションとは、今、私が存在するこの世界のどこかで、きっと私が知らないだけで、本当に起きている、あるは起こった出来事だと思わせてくれるリアリティこそが、もっとも最上で、代えがたいものなのだ。
だから、「そんなことが現実世界で起こったら、とっくに大ニュースになっているよ!」というような出来事は、今まで積み上げてきたリアリティの砦を一気に崩壊させてしまうのだ。
これは、演劇でいうところの“イリュージョン”の崩壊と同じなのである。
