黒い霧事件
1969年10月8日の読売・報知両新聞紙上で、『西鉄ライオンズの永易将司投手が暴力団にそそのかされて
八百長をやっていたと判明したため球団は解雇』とのスクープが報道された。当初、読売・報知新聞のみのスクープであったため、
他の新聞社もこれに追従しなければならなくなった。当時の八百長は野球担当記者を5年もやればわかるようなものであり、
また確証を掴む事も出来ないため、記事にはしないという『暗黙の了解』のようなものが存在していた。
シーズン中、故障もない永易投手が何故かファームに落ちた為、疑問を感じた報知の記者が
当時のライオンズ球団社長の国広直俊氏に取材、その際八百長の事実をうっかり喋ってしまったため、騒動は大きくなって行く。
では何故『暗黙の了解』を破り、報知・読売はこのことを抜いたのか・・・・?
当時も一部のマスコミで、『陰謀説』が囁かれていた。たとえば、作家の佐野洋氏は
『読売が北九州で部数を伸ばすため、地元紙西日本新聞系の西鉄を叩こうとしたものだ、
またジャイアンツはかねて九州地方を準フランチャイズにしたいとの希望をもっていたため、
八百長事件で西鉄球団を揺さぶり、場合によっては合併しようとしたのではないか。
そして、これはセ・リーグの商売仇であるパ・リーグのマイナー・リーグ化にも役立つ。』
と推理している。(『現代』 1970年6月号)
10月22日、セ・パ両リーグの合同会議が開かれ、永易投手の問題が始めて取り上げられた。
その会議の席上でも、国広氏は新聞報道が事実であることを認め、プロ野球首脳たちは大きな危機感を擁かざるえない状況となる。
これにより永易投手は11月28日、コミッショナー委員会(宮沢俊義、金子鋭、中松潤之助)から
日本プロ野球初の『永久追放』の処分を受ける。永易投手は問題の表面化以来姿をくらまし、
球団及びコミッショナーの呼び出しにも応じなかった。
西鉄球団の八百長疑惑に最初に気づいたのは、球団一軍投手コーチであった。
永易投手の八百長が発覚する2年も前のことであるが、大阪のゲームに限り、おかしな投球を続ける投手たちに
不審を擁き、迷った末に八百長の疑いを擁いた数人の投手たちを内偵し、その結果八百長の疑いが確信となり、
直ちに監督・コーチに報告した。しかし、返ってきた答は選手を疑ったことへの叱責だけであり、
失意のうちにそのコーチは2軍へ降格となっていた・・・・。球団は八百長の解明に努力することもなく、
臭いものには蓋の論理で事実を握りつぶしてしまったのだ。
1969年9月27日、西鉄ライオンズのエース池永正明は、西鉄時代のチームメイトの田中 勉に
福岡市内の某旅館に呼ばれる。暴力団の元締から預かったという百万円をテーブルに置いて、田中は池永に
八百長の依頼をする。その時、田中から他の数人の選手も八百長に加担していることを初めて知らされ、
池永は驚愕した、と回想する。
『日頃から気の強い田中さんが、何度も何度も頭を下げる。ライオンズ時代からオレは田中さんが好きだったし、
お世話になった。でもオレはハッキリと八百長は出来ないと断った。』(スポーツニッポン 1970.5.26.)
八百長の元締の手は、他の西鉄球団の選手達に伸びていった。
投手だけではダメだということで野手にも金を渡し、ついには外国人選手のボレスまで抱き込もうとする。
しかし、アメリカ人のボレスにこの手は通用しない。ボレスが球団に通報し、一気に八百長が発覚することになる。
同時期球団に大阪府警からの通報で西鉄球団の複数の選手に八百長の疑いがあるとの通報を受け、ここにきて
事件の重大さと、発覚を恐れた西鉄球団は『内部調査』の結論を『永易投手だけが八百長を行なっていて、他の選手はシロ』との
見解を機構側・マスコミに公表した。しかも西鉄球団は問題発覚以来、永易投手と八百長の仕掛人藤縄洋孝なる人物に、
西鉄・楠根宗生オーナー自身が口止め料として500万円を支払い組織ぐるみで事実隠蔽を計っていた。
しかしこの時点で、この事実はまだ表面化されていない。。
永易投手の永久追放と西鉄球団の国広球団社長と中西太監督の辞任で
八百長問題の解決を図ろうとした西鉄球団とプロ野球機構は、しかしマスコミと世論の集中放火を浴びる。
読売は途中からトーンダウンし、後半からは朝日新聞が激しい糾弾キャンペーンを展開する。
前出の佐野氏はこれについて、『朝日がこのように懸命に取り組んでいるのは、九州で部数を伸ばすに当たって
障害になっている西日本新聞を叩くため、さらに、この八百長事件で、プロ野球全体の人気が
落ちれば、読売新聞の部数にも影響が生じるためである。』と、分析している。
連日の朝日新聞の大キャンペーンは、ついに国会議員で作る『スポーツ懇親会』をも煽ることになる。
衆議院文教委員会は、『プロ野球の健全化』を求める決議を、自民党から共産党まで与野党一致で
採決されるという事態となり、ついに宮沢俊義コミッショナー委員長が国会に呼び出され、野球協約片手の
国会議員に詰問されることになった。
『賭博常習者との交際を禁ずる』という協約の条文について質問を受け、
『賭博常習者という肩書き名刺を出して、選手に近づくものはないのでむつかしい。』と 答えた宮沢氏が
『満場の失笑を買った』という新聞記事が残っている。
そもそも、国会議員やマスコミが、正義のタテとして持ち出した『野球協約』とは、一体何なのか?
当時の日本の『野球協約』は、戦後に選手の引き抜きや契約問題のこじれなどから『プロ野球にも明文化されたルールを』と
日本のプロ野球機構がアメリカのものをほとんど直訳しただけの安直なものに過ぎなかった。
例えば、当時の協約の中には次のような条文があった。
第34条『(国家活動)本契約は国家活動の重大な要請があるときには・・・。』
これがアメリカ版では、
『陸・海・空軍その他の国家義務が有る時は・・・。』と、なっている。
さすがに直訳は出来なかったようだが、徴兵制のない日本で『国家活動の重大な要請』とはいったいなんだ?と、
話題になった。このような『協約』の内容について、この事件が起こる前には気づく者もいないありさまであった、
要するに『誰も読んだこともない』ような『協約』でしかなかった
。
池永正明氏の回想でも、『キャンプでは、ルールなどの講習はあったが、『協約』について教えられたことはない』と語っている。
ちなみに一連の黒い霧事件の際に問題となり、当該選手の処分の根拠となった
当時の『協約』の条文をここで書いておくことにする。
<野球協約第355条(敗退行為)>
クラブの役職員または選手及びコーチを含む監督が試合で敗れ、または敗れることを試み、
あるいは勝つための最善の努力を怠り、またかかることを通牒するものは所属する連盟会長の
要求に基づきコミッショナーにより永久にその職務を停止される。またかかる勧誘を受けた者で
これに関する情報を連盟会長に対し報告を怠るものは制裁を受ける。
この条文の適用方法をめぐって、意見が百出することになるのだ。
同じ頃、警察庁では永易投手の捜査を大阪府警・静岡県警に指示、ついにこの問題はプロ野球界の手を離れて、
社会問題化しつつあった。永易投手をマスコミは追い続け、ついに1970年4月5日、執拗なマスコミの追跡に姿を表した
永易投手の口から、『八百長選手は他にもいる』と、西鉄選手6人の実名が公表され、永易投手に口止め料を
西鉄球団が支払っていたとの疑惑も同時に浮上し、開幕前のプロ野球界は騒然となる。
西鉄球団の調査をもとに、コミッショナー委員会の喚問が行なわれ、5月5日八百長を自供したと
される選手2名は出場停止、残りの4選手も球団が自主的に出場を辞退する措置がとられ、
5月25日にコミッショナー裁定が下されることになった。
マスコミの裁定予想や処分に対する憶測記事が飛び交う中、5月25日16時30分、ついにコミッショナー裁定がくだされた。
八百長を自供した2選手の永久追放は予想された通りだが、永久追放の中に池永の名前も入っており、
他の2選手は1970シーズンの出場停止、1選手は厳重戒告処分の決定が下される。
池永の処分内容が委員会でも1番問題とされたが、コミッショナー委員長・宮沢俊義は
『八百長を自供した2選手は池永より情状は重いが、永久追放より重い処分がないので同じ処分となった。』と語った。
『田中から預かった百万円は、八百長を納得した上で金品を授受した場合は
例え八百長をやってなくても協約に抵触するとの判断』(スポーツニッポン 1970.5.26.)
が最終的な処分の根拠となったようだが、出場停止の選手達も実際には金を受け取っており
(一度は返しに行ったが、貸した金の代わりと、いうことで受け取っている)
『処分の根拠が曖昧である』との批判もあったことも、付け加えておかなければならない。
1970年5月25日、八百長疑惑の西鉄6選手に対するコミッショナー裁定が下された日、
池永正明は福岡市平尾の自宅前で報道陣に囲まれていた。
『今球団から電話があったが、あまりに酷過ぎる。』
よもや永久追放とは思っていなかっただけに、池永の表情は苦痛に歪んでいた。そして大声で訴える。
『本当に八百長したのならあきらめがつく。でもオレは絶対に八百長なんかやってないんだ。』
(中略)
『八百長を依頼されたことは悪い。でもやっていないのに永久追放だなんて・・・
もう野球をやれないなんて』 野球だけしか知らない池永が、大好きな野球を奪われた
悲しさか、池永はあたりかまわず泣きじゃくる。(スポーツニッポン 1970.5.26.)
当時、朝日新聞などは『協約にはその職務の永久停止以外記されていないのだから、
全員追放せよ。八百長をもちかけられて届出なかったものも処分せよ。』と、書きたてていた。
コミッショナー委員長、宮沢俊義氏は法律学者として『野球協約』のあいまいさと現実を認識していた。
たしかに厳密に解釈すれば、協約によって追放処分ではあるが、『灰色』である池永を助けたいと考えていたらしい。
しかし、コミッショナー委員3人の中で、池永を厳しく責め立てたのは、のちの江川問題で『奇妙な裁定』を下し、
世間の顰蹙を買った、金子鋭コミッショナー委員であったという・・・・・。
あるスポーツ記者はのちに、このように語る。
『私は池永はやってないと思う。やっぱり警察とマスコミ的に、誰か大きなネームバリューのあるやつを
スケープゴートにしたてなければならなかった、と、思う。それと先輩に土下座までされて100万円
受け取ったことを認めたんだが、受け取って、一応預かったことと、やると承諾したのは別だから・・・・。
あの頃の西鉄というチームの雰囲気では、金を突っ返すことはとても難しかったはずだ。』
また、別の記者はこのように語っている。
『池永は多少態度のでかいところがあって、取り調べ側の心証も悪かったのではないか?
マスコミにも、書くんなら好き勝手に書いてくれ、という応対の仕方だったしね・・・・・。
でも、大投手といわれる選手の若いころはみんなあんなもんだろうけどね。』
池永の状況は、金額の差を除けば、実は出場停止や戒告処分となった他の3選手とほぼ同じである。
少なくとも調べた限りでは、『金は預かったが、やらなかった』わけなのだ。
しかし、コミッショナー委員会の説明では、『3選手は金を受け取ったが断わった。池永には
八百長の誘いを拒否する明確な意思表示を認めがたい。』ということであった。
池永は『先輩の面子』を潰すまいとしたことが致命傷になったのだ。
『野球協約』よりも『先輩』の方が、23歳の池永にとっては『法』だったのである。
そしてやはり『政治とマスコミと世論』からの総攻撃を受けて、『西鉄のエース』をスケープゴートにすることにより、
包囲網から脱出しようとする球界首脳部の作戦とヨミがあったのかもしれない。
確かに西鉄の6選手だけに容疑がかかっているが、セ・リーグでは何もないのか?という論調も出てきていた。
ここで、球界が持ち出すのが『オートレース八百長事件』である。オートレースで八百長を仕掛けた容疑でセ・リーグの2名の選手が
永久追放になった事件は、世間の関心を『野球の八百長』から巧みに目をそらさせるための手段ではなかったのか・・・?
また巨人・阪神の一部コーチ、選手にも『暴力団との交際』を噂され、実際に謹慎処分を課せられた者もいたが、
それ以上の追及はされなかった。このように、処分の内容は非常に曖昧模糊としている。
厳密に『野球協約』につきあわせていけば、全員追放となるのではないか。(しかし、オートレース八百長はまた別の話だが。)
どのような根拠で、追放・出場停止・戒告の処分が決定されたのか?今となっては、謎のひとつになっている。
事件が一段落したあと、巨人の王選手が次のような感想を述べていたそうである。
『世間一般は疑わしきを罰せずというけれど、野球界は疑わしきを罰するところだっていうのが本当にわかった。
だから、疑われることはもう罰せられることだ、ということをみんな考えなきゃいけないな。』
やはり、あの処分はどこか不公平であった感は否めない。
事件から32年、大投手池永正明の名誉回復は現在もなされていない。
(参考文献)
『スポーツグラフィック・ナンバー』1982年2月20日号、<池永正明が貝殻追放された日>より。(文芸春秋社)
『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』 立石泰則著(文藝春秋社)
『プロ野球史・スポーツニッポン縮刷版』(スポーツニッポン社)
『記者達の平和台』(葦書房)
(02.9.26【トリゾン】さんによる『補足』)
黒い霧事件は、1970年5月25日の西鉄選手の処分とオートレースに関わる八百長追求で収束したと言われているがそれがすべてではない。
4月末に警察の調査によって、逮捕された暴力団員から近鉄の選手の八百長疑惑が表面化し、問題になっていた。
西鉄選手の事件とは別ルートであり、仲介役はなんと近鉄球団の広報課長だった。事件は3年前のことであり、疑惑の試合に関わった
監督・先発投手・捕手・外野手のコミッショナー委員会の調査があり、結局選手は八百長を明確に断っており、金銭の授与がないということで
厳重注意ですんだが、仲介役の元広報課長は、八百長依頼を認めたため、永久追放になった。
そんなおり、逮捕すみの八百長の胴元の暴力団員とこの元広報課長から近鉄のA選手に八百長依頼があり、さらに高級腕時計をもらっていた
事実が発覚した。
A選手はコミッショナーの調べに、依頼があり、時計をもらったことを認めたが、八百長試合の依頼者の元広報課長が
当時マネージャーであり、はっきり断ったことと時計をファンのプレゼントと言うことばを信じたという主張が通り、厳重注意だけですんだ。
一連のプロ野球とオートレース八百長事件の胴元である藤縄洋孝は4月26日に逮捕され、その取り調べから西鉄選手の他東映の2選手選手にも
八百長依頼があったことが発覚し、5月9日に東映球団から疑惑の2選手の事情聴取が行なわれた。
二人の供述によれば、すでに処分を受けた元西鉄の永易投手から飲みに誘われ、行った先で、見知らぬ男から八百長の依頼があり、
現金60万円を示されたがその場で断った。元同僚(永易投手は東映出身)で
親しかったことから八百長の依頼があるとは思わなかった。
しかし、報告しなかったのは悪かった。というものであった。
二人の証言から東映の大川オーナーは「選手はまだ子供。きつくしからなければならないが、
追放処分は考えていない。」と発表した。
しかし、その後の警察の取り調べからふたりのうち森安敏明がその後、永易投手から50万円を受けとっいていた事実がわかり、さらに10月の
南海戦で八百長を同僚選手に勧めていた疑惑も証言等からから明らかになった。森安は八百長の実行と同僚に八百長を勧めたことはあくまでも
否定したが、金銭授与を追求の結果認めたため、7月30日に永久追放が決まった。
もうひとりのBは供述どおり依頼を断ったので、厳重戒告処分となった。
しかし、前年に森安からの『差し入れ』紙堤の中に現金があったので、あわてて当人に返却し、肩が痛いと行って当日の登板を回避したことが判明し、
彼に対する疑惑は晴れなかった。信じていた選手に裏切られた大川オーナーは経営意欲を失い2年後、東映は西鉄同様身売りすることになる。
オートレース関連では、すでに逮捕済みの藤縄の自供から中日の小川健太郎、阪神のC、さらに、8月になってヤクルトのDが関連で取り調べを受け、
その後処分がくだり、小川は永久追放になった。
そして、オートレース関連での警察での取り調べから小川健太郎に元同僚の田中勉を通じて
八百長を依頼した疑惑が浮上した。
それによると前年の7月の中日対大洋戦の前に大洋のE投手に先発を自分と同じ日にしてしてくれと依頼したとのこと。実際7月26日の対戦では
両投手の投げ合いになっている。6月22日E投手は、球団部長を伴ってコミッショナー事務局に出向き、身の潔白を主張。
結局、この件は、シロと言うことになった。
その後、小川は5試合の疑惑試合の八百長関連を問われたが結局、関連ありとはならず、追放理由は
オートレース関連によるものであった。
その後も、年が明けた1971年の1月に南海のF投手が当時の同僚G投手から八百長の依頼を受け、球団に報告しなかったとして戒告処分、
暴力団との交際疑惑で、大洋のHコーチとI投手が無期限出場停止、同じ理由でロッテのN投手が開幕から一月の出場停止、また、中日のJ投手は
競馬のノミ行為と暴力団の交際疑惑が生じていたが、リーグからの事情聴取の後、体力の限界を理由に引退した。
その後も数々の噂はあったが、71年のシーズンが始まる頃面的にはようやく黒い霧は収束した。
永久失格者7人、処分者11人、を出すという史上最悪の事件で、西鉄と東映は1年半後に身売りをすることになる。
調査対象者、処分者は圧倒的にパリーグに多かったが、これは、セリーグが基本的に警察の取り調べから判明した選手だけを対象にした結果であり、
そのため、処分が迅速に行われた。しかし、リーグ独自の調査をしなかったことからリーグの事務局は怠慢ではないかと世間から非難された。
一方のパ・リーグは、リーグ独自の調査を行ない、当初は永易投手の処分だけで終わらせようとしたが、藤縄が警察に逮捕されその自供から
八百長試合との関わりが世間に明るみに出て、やらざる得なかったので最小限の調査であった。
また、黒い霧はオートレースの疑惑が出てから急に収束したと言われているが、実は、西鉄選手が主力のプロ野球賭博に関わる八百長とオートレースの
八百長の胴元が同じであり、近鉄球団の八百長を仕掛けた暴力団を除き、彼以外の賭博グループは、前年の事件発覚以来、証拠を隠滅して姿をくらました
ため、警察ではそれ以上進展がなく、この胴元と関わり合った選手の取り調べが終わり処分がされると表向きは収束したようになった。というもので
連盟が収束を図ったと言う面は否定できないが、オートレースの不正を世間の目に向けたという説には疑問が残る。
一連の仕掛け人である胴元の藤縄は、実は、暴力団との仲介約でしかなく、八百長の実体を世間に話したため、同業者や元締の暴力団から恨みを買い、
命を狙われたという。そのため、最小限の選手の関わりしか明かされなかったことも疑惑を深めた一因だった。。
そして、今回の事件でもっとも処分が不公平だったのは、元西鉄の田中勉と上記のAであることは明らかだろう。
田中については、これまでも語られているので省略するが、Aの場合、仲介者の元広報課長から食事に誘われその場で八百長の依頼を受け、
断ったとはいえ、実際後で高価な物品を受け取っている。当人の証言の信憑性を考えると八百長の依頼を受けて金を受け取った池永と同じと
いえないこともない。
しかし、Aの場合、依頼者が入団以来面倒を見てもらっていた当時のマネージャーであり、食事に誘われるのは自然で八百長の依頼があるとは
思わなかった。その場ではっきり断っており、時計は、あとでファンからのプレゼントと言ってこのマネージャーがもってきたので、信用して使っていた。
世話をしてもらっているマネージャーなので、球団に報告しなかった。
という言い分で、証言について元広報課長が認めたため、八百長との関連はシロということになり厳重注意ですんだ。
池永が「暴力団に脅されているから金だけでも受け取ってほしい。」と田中に言われて受け取ったという主張は、藤縄が「八百長をしないなら金を返せと
言ったところ開幕してからなんとかするから待ってくれと言われていると田中から言われた。」という警察での自供と当の田中が池永の主張を正式に
認めなかったことが明暗を分けたと言える。
そして、もうひとつはAが酒、たばこ、ギャンブルを全くやらず、普段の生活がまじめそのもので、暴力団との接点が見つからなかったため、それ以上の
追求がなされなかったのに対し、池永は暴力団員としばしば飲食を共にしていたという話が伝わっており、西鉄選手が暴力団関係者との関係を
後援会会長がにがにがしく思っていたとの証言もあり、コミッショナー委員会の心証を悪くしたと思われる。
こうした普段の素行が両者の明暗を分けたのだろうか。
黒い霧は、コミッショナー委員会が処分を広げないように警察の取り調べによる自供を元に調査したのと依頼と金銭の授与をもって
八百長の実行と見なす党方針が処分に差が出たということであろう(実際、それは問題であったが)。
問題になった西鉄選手の処分についても
コミッショナー委員会の当初の処分案は、池永は1シーズンの出場停止、他は3ヶ月の出場停止だったが、当時の世間は、全員永久追放せよ。と言う声と
実行していない選手は寛大な処置を。と言う声がまっぷたつに別れており、どちらをとっても非難は免れず、苦悩の選択をしたといえるだろう。
ただ、処分を重くした効果がほとんどみられず、単なるコミッショナーのポーズとしかならなかったため、後にその処分の差を攻められることになる。
この処分の中で、実は、益田は、最後まで、八百長の実行は否定していたが、金銭授与の証拠と私生活の乱れがあったことが決定的になり
処分がくだった。森安も金銭授与を認めたことが決定的だったが、八百長の実行、依頼は最後まで否定していた池永とほとんど変わらないと言える。
また、小川は、「オートレースの疑惑は自分にも非があるので、ある程度仕方がないが、プロ野球の試合では、断じて八百長はしていない。
これは讀賣グループの陰謀で、他に疑惑の選手がいたが、若かったので、先のない私を連盟は生け贄にした。」と語っている。
真相は藪の中であるが、処分の内容が選手によってあいまいであったことは確かであり、こうした疑惑が出るのはコミッショナーが調査内容を
公開せずに処分を密室で決めたこと、資料も公開していないこと、そして、選手側からの控訴を認めなかったことで、これでは生け贄を出して
収束したと言われても仕方がないだろう。
さらに、野球賭博が関西を中心に行われていると言われている中で関西球団でなぜ、阪急だけ処分者が出なかったのかと言う疑惑もある。
確かに処分者は出なかったが、後に八百長依頼をしたことを告発された選手は実は阪急出身で、当時別球団に所属していたが、黒い霧の疑惑の最中に
引退している。実際、黒い霧の数年前に昭和30年代の主力が戦力になると言われていたにも関わらず引退したり、トレードに出されており、この選手も
その中に入っている
。阪急は、疑惑を知っていてトレードに出したのではないか?また他球団も同様だったのではないか。?
・・・・・・・・・・今となっては知るすべもない。
処分者のうち、森安と小川は既に亡くなっている。他の者も池永以外世間に生死を知られていない者が大半である。
池永の復権問題が出るたびに心の傷が痛む者もいるという。
決して、ひとりの将来性のある選手が球界を救うために犠牲になったと言うだけの
事件ではない。
そのことに対して私達はは目を背けず後世に伝えて行き、事件の再発だけは防がねばならない。
それが追放ということでプロ野球を守った元選手たちへの礼儀というものであろう。