坂本龍馬は、誰もが知る維新の功労者である。 しかし、彼が並み居る志士や要人たちと対等に渡り合えたことについて、疑問を呈する人はあまりいない。

亀山社中での活躍や薩長同盟締結の仲介など、一介の下級藩士、しかも脱藩者に出来ることではない。龍馬の行動を検証すると、その境遇では不可能と思われる行動が多すぎる。

同じく下級藩士であった西郷隆盛や大久保利通も同じようなものだと誤解する人は多い。しかし彼らは、島津斉彬や久光に取り立てられるという幸運に恵まれ、 同士に薩摩藩家老の小松帯刀がいたことなど、藩の強大なバックアップがあり、さらに出世によって相応の地位をもって行動していた。 しかし、勝海舟や松平 春嶽との人脈はあったものの、龍馬には地位も藩のバックアップもなかったのであり、薩長同盟のころには勝の庇護も失っていた。つまり、同じ下級藩士出身と 言っても境遇は全く違うのである。 

龍馬は薩長同盟において、桂小五郎に求められて盟約書の裏書を行っているが、天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えるというのは、「信頼されて いた」という理由では説明がつかない。 現在で言えば、海外との条約締結の保証人に派遣切りにあった元派遣社員がなるようなものである。それほど分不相応 なことであった。

1865年、龍馬が30歳のときに日本初の商社である、亀山社中を設立した。

設立後、わずか3ヶ月で銃7,800丁、さらに二ヵ月後には軍艦を輸入している。 膨大な輸入業務を考えると、たった数ヶ月でこのような実績を残すのは、 事実上不可能といえる。 これを可能にするには、設立前に海外に大量の武器を準備し、万事整えていた黒幕がいたことになる。 もちろん、日本人ではそれは 不可能であり、もちろん外国人だ。

その黒幕とは、トーマス・ブレイク・グラバー(1838~1911)というスコットランド人の武器商人である。 
龍馬が脱藩下級藩士の身で、日本各地の志士と渡り合えた背景には、このグラバーの存在が大きい。いろは丸沈没事件で、御三家の紀州藩を脅迫して損害賠償させることができたのも、そして何より膨大な資金力があったのも、背後にグラバーが存在したからである。

グラバーが調達した武器は主に長州藩に売るためのもので、亀山社中を通じて、薩摩経由で運ばれた。 グラバーは武器売買により富豪となったのである。

グラバーは、亀山社中が設立される1年ほど前、勝海舟と共に長崎を訪れていた坂本龍馬と出会う。 当時のグラバーは、自宅に桂小五郎や高杉晋作、中岡慎太郎などの倒幕派の志士たちを匿っていた。さらに、伊藤博文や井上馨らの攘夷派をイギリスに密航させ ていたのである。この留学によって、攘夷派であった彼らは開国派となり、明治維新後は新政府の要人となったことを考えると、これだけでもグラバーは歴史の 黒幕と言える。 さらに、坂本龍馬の行動について全く資料に残っていない空白の期間(1864年10月 - 1865年4月)に、龍馬もグラバーの援助で海外に密航していたという説も有る。

幕末、グラバーは討幕派を支援していたため幕府には警戒され、さらに、危険な外国人であるとして攘夷派にも狙われていた。 つまり、武器を公に売ることが出来ない状況にいたのである。 そんなグラバーは、自分の身代わりとして坂本龍馬に目を付け、武器商人として幕末日本に暗躍することになった。

しかし、グラバーの行動の背景にあるのはビジネスではなかった。グラバーは、志士たちを倒幕に駆り立てた一方で、反幕府の諸藩に資金の信用貸しで武器を 売っている。幕府が倒れれば資金が回収できなくなる危険が高い。つまり、ビジネス上では矛盾した行動をとっているのである。 実際、明治になってからはそ れが焦げ付き、グラバー商会は倒産している。彼は、ビジネスのためではなく、自らの意思で維新に尽力したのだろうと言われている。

彼の思想や力は幕末の日本においては大きな影響力を持っていた。その彼の力の源は二つあり、ひとつが東洋最大手のイギリス武器商会「マセソン商会長崎代理 人」の肩書き、そしてもうひとつがフリーメイソンである。フリーメイソンとの関係は、史実上は根拠が無いとされているが、彼がフリーメイソンの人脈を使っ ているのは明らかである。グラバーが20代にしてこのような強大な力を得ることが出来たのも、フリーメイソンの力が大きいだろう。ちなみに、坂本龍馬もメ ンバーであったと言われているが、これについても資料があるわけではない。

フリーメイソンは、ヨーロッパの建築技術者集団のギルド的なものとして設立された。ロッジと呼ばれる石工の技術者集団の組織であり、その技術を門外不出と して伝承していく役割を果たしていた。 それが次第に、石工以外の人間もメンバーとなるようになり、さまざまな人たちの友愛団体へと変わっていった。モー ツァルトやゲーテ、米国初代大統領ワシントンなど、多くの著名人がメンバーである。 フリーメイソンのメンバーは、現在世界で約400万人いると言われ る。 フリーメイソンの象徴である「全能の目」が米一ドル札に描かれていることは、フリーメイソンの強大な力を証明している。

それでは、幕末当時の日本における、フリーメイソンの影響力は如何ほどだったのだろうか。 第15代将軍徳川慶喜の側近であった、西周助がフリーメイソンリーであり、その背後にはグラバーの影がちらついている。 幕府の要人であった西は1864 年、蘭学者としてオランダに留学し、その際に日本人初のフリーメイソンのメンバーとなった。 彼は、グラバーの手引きで密航していた薩摩藩士、五代友厚と フランスで会見している。 当時敵同士であった幕府の要人と薩摩藩士の会談は、深い意味があってのものであろう。 そして帰国後、西は徳川慶喜に側近とし て抜擢され、大政奉還に決定的な役割を果たすことになる。

龍馬が薩長同盟に向けて奔走していたとき、グラバーはイギリスのパークスに働きかけ、幕府を支援していたイギリスを、薩長側へと寝返らせた。このことが薩 長同盟成立に大きく影響を与えた。 イギリスの幕府からの離反、そして坂本龍馬の背後にいたグラバーによる薩長への武器輸入が、当時一般には非現実的で あった倒幕を実現可能なものとしたのである。 つまり、薩長同盟、延いては倒幕-明治維新の表向きの立役者は坂本龍馬ではあったが、黒幕はグラバーだった のである。グラバーは大政奉還後、徳川慶喜助命の嘆願書を出しているが、天璋院や和宮の嘆願書以上に新政府に対する影響力があったかもしれない。

坂本龍馬は無名の素浪人のまま生涯を閉じた。彼が有名になったのは、死後大分経ってからであり、全国に名が知れ渡ったのは日露戦争時である。このことから も、幕末当時の人々は龍馬を認めていたというより、グラバーを強く意識して龍馬と付き合っていた可能性が高い。もしそうでないのなら、薩長の志士が龍馬の 名を意図的に消し去ったということになり、龍馬暗殺の犯人もわかってきてしまう。そのくらい、薩長同盟の証人が無名のままであったというのは不可解なこと なのである。 

龍馬の名が知られるようになった切欠は、明治政府の薩長閥への対抗を目的とした土佐藩出身者による宣伝行為であり、今日知られる龍馬のイメージは大分脚色 されたものである。薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではない可能性が指摘されているが、それどころか、その大半がグラバーのアイ デアであった可能性もあるのである。

大政奉還から一ヵ月後、坂本龍馬は京都で暗殺される。 丁度そのころ、グラバーは偶然にも、スコットランドに初めての里帰りをしている。 坂本龍馬の暗殺 には、グラバーの不在が何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。 龍馬を暗殺した犯人にはいろいろな説があるが、龍馬の死で一番メリットがあったのは 新政府に君臨した薩長閥であることは確かである。龍馬が生きていれば、薩長独裁の政府にすることは出来なかったはずだからだ。 

龍馬とグラバー、そしてフリーメイソンの関係は深かったはずだが、その資料の少なさから龍馬の実像は未だ闇の中である。明治維新後、グラバーは教え子であ る岩崎弥太郎と組んで三菱財閥の一員となり、さらにはキリンビールの前身である、ジャパンブルワリーの設立にも尽力していく。

1911年12月16日に死去。享年73。
 みのもんたに代わって、いまや"テレビ界の新帝王"と呼ばれている島田紳助。司会だけではなく、自らの番組を通じて"おバカタレント"を輩出した り、一発屋芸人を再生したりと、プロデューサーとしての手腕も評価されている。最近では、"悪妻"を持つタレントをブレイクさせるなど、その企画力には脱帽する。

 これだけテレビ界、芸能界への貢献度が大きければ、「天狗になるな」というほうが難しいかもしれない。だが、やはり、紳助のプライベートにおける傲慢さは感心しない。


 筆者が20年来、家族ぐるみで付き合っている銀座のクラブママがいる。つい先日、彼女が女性友達と、紳助が経営する西麻布の寿司屋「寿司はせがわ」に行ったそうだ。彼女が高いシャンパンを頼んで飲みながら談笑していたところ、オーナーの紳助は、関係者数人とカウンターの端で飲んでいたという。


 そのとき、紳助は何が気に食わなかったのか、いきなり2人にガンを飛ばしてきたという。ママは気分が悪いんで、カウンターの向こうにい る従業員に「何よ、あの態度」と注意を促すと、従業員は謝るばかり。それでも、ガンを飛ばし続ける紳助に切れて、「不愉快だわ」と勘定を払って店を出たと いう。その際、従業員は平謝りで「お勘定は入りません」と言ったという。従業員も、悪いとわかっていながら、紳助に対しては何もできないのだろう。それに しても、店の経営者が、お客が気に食わないと不良まがいにガンと飛ばすとは。それも、女性相手に。とんでもない話だ。


 一昨年10月、紳助が司会を務めるTBS恒例の『オールスター感謝祭』で、若手お笑いトリオの「東京03」が本番前に挨拶に来なかったことや番組中 のやる気なさげな態度に紳助が腹を立てて、収録中に東京03のメンバーの胸ぐらを掴んで「お前らなめてんのか。潰してやる!」と、暴行寸前の事件を起こし たことが問題になった。


 吉本は、芸人の上下関係が厳しい事務所。東京03は、別の事務所ということもあり、そのあたりのシビアさを甘く見ていたのかもしれない。紳助の 取った態度は誉められるものではないが、初共演の上に事前の挨拶なしでは、番組内でもうまく絡めず、お互いにとってマイナスである。紳助の怒りにはそれな りの根拠があり、東京03も非を認め、謝罪していたこともあって、当時は筆者なりに納得していた。

 

 ところが、一昨年末、ビートたけしとこの事件の件を話すことがあった。たけしが、事件現場にいた関係者から聞いた話によると、「紳助は胸ぐらを掴ん だだけではなく、実は殴っていた」というのだ。これには、たけしも「紳助は、何を思い上がってんだ」と呆れ、「周りには、紳助の先輩のタレントや役者が何人もいたのに。なんで止めなかったんだ」と激怒していた。現場にいた関係者の中には「殴っていなかった」と証言していた者もいたが、それは紳助を気遣って のことなのか、見ようによっては殴っていたとのそしりを逃れないほどの際どい暴力行為だったのか、真相は分からない。いずれにせよ、紳助に、社会人として の最低限の自制心が働かなかったのは間違いないだろう。

 

 それでも、東京03は紳助に何度も詫びて、許しを乞うしかなかった。周囲は、紳助の行動を指をくわえて見ているしかなかった。今回の寿司屋の件で は、店のオーナーである紳助の非礼を、従業員は詫びるしかなかった。もはや紳助は、テレビ界、芸能界において一大権力であり、タブーとなってしまったのか。


 最近になって、アンタッチャブルの柴田英嗣が無期限休業を発表。理由が不明瞭なことから、2ちゃんねるでは、東京03事件が関係しているという無責任な情報が飛び交っている。東京03と同じ事務所の柴田が、紳助に食ってかかり、トラブルに発展したというのだ。にわかには信じられないが、これも、紳助やその周囲が、東京03事件の真相を明らかにしなかったために巻き起こった騒動と言えるかもしれない。


 今の紳助に、日常の姿勢や態度について注意や進言できる関係者は、吉本のスタッフを含めていないと思う。それだけに、自ら律して、プライベートで も、タレントやスタッフに接するときの思いやりを忘れてはならない。紳助は04年に、当時吉本に所属していた女性マネジャーに暴行、大事件に発展した。そ のときに涙を流して、反省した気持ちを忘れないでほしい。周りからヨイショされて、"裸の王様"になっていることに早く気づくべきだ。権力者がつくり出す 笑いを見ても、みんなは苦笑いしかできないことに。
NIGOの経緯

文化服装学院卒業。

93年 当時アンダーカバーをデザインしていたジョニオ高橋盾とともに、東京・原宿にアパレルショップ『nowhere』(No whereとNow hereを掛けている)をオープンし、若者の一部に爆発的な人気を得る。
カモ柄などのグラフィックをスケートシングやマンキーがデザインをして世界的なアイコンとなった。商品は世界各地に張り巡らされた「BAPE(旧BWS)」とよばれるショップで独占的に販売されている。

05年に「裏原宿」にThe Neptunesのファレル・ウィリアムスとの共同立ち上げによるICE CREAMとBillionaire Boys Club (clothing)というアパレルブランドの店もオープンした。

特徴的な自身のウェブサイトでは、専用の実行ファイルをダウンロードしてFlashが起動することによって閲覧可能になるという斬新な作りになっている。その後2008年にフルリニューアルしwebブラウザ対応になった。

04年、雑誌「TIME」の特集で「アジアの英雄20人」の1人に選ばれた。

06年 同じくウェブサイト上で「BAPE® CARD」と呼ばれるポイントカードを導入し、ポイントを貯めることでレアなアイテムと交換できるシステムが公開された。

07年 24時間テレビ(第30回)のTシャツをデザインした。

08年 雑誌GQ JAPAN主催の『MEN OF THE YEAR』受賞。

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裏原の経緯

92年 小倉でピンサロやってたY氏とともにGEを立ち上げ。当初はNYからの輸入ブランドとしてダマシ的な展開。

93年 自分の連載宝島ラストオージーでステューシーなどに混ぜてウマ~く宣伝。

94年 完ちゃんとの中が冷えきり、その連載をジョニとニゴに譲るかわりに、子分にする。
   
95年 Y氏が小倉より、マガちんらをつれて上京。某指定暴力団より物件を借り受け、ヒロピとともに共同出資でnowhereをジョニゴにひらかせる。 このときジョニゴと独占販売契約を法外なマージンで締結。ジョニゴはまだガキなので喜んでサイン。
   
96年 ヒロピが三重の同級生エディターM氏に資金を与え媒体工作を本格化。その結果UCとBAPEがバカウレ。

97年 裏原宿なるコトバが登場。明治、参道、キラーに囲まれた一角はもともとS会のシマだったが、Y氏の工作によりG組の介入によって、その一角に限り不動産イジりが許されることになる。以降、関連店の開店はすべてそのワク内で。

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NIGOは数年前に同ブランドを運営する株式会社ノーウェアの代表取締役社長を2009年3月末をもって辞任し、4月1日付けで新会社、株式会社NIGOLD(ニゴールド)を設立した。

 NIGO®氏は「A BATHING APE®」の創立16年目を迎えた2009年4月1日にノーウェアから独立。ノーウェアの新社長には、元 株式会社ワールドの常務執行役員で2008年にノーウェアの副社長となった日比野正雄氏が就任した。なお、「A BATHING APE®」のブランドディレクションはNIGO®氏が継続していた。


日本ではあまり売れていなかったであろう「A BATHING APE®」海外のセレブに人気があると言われ、世界各地に店舗を構えていった背景には一体なにがあったのだろう?


上記の通り、広告媒体を上手くつかいここまで大きくしていった。始めは上手く行っていたが途中から実際は売れなくなり、それを隠すためをあり、全国、世界各地に展開していった。


NIGO自身が広告塔になり、ゴージャスな家、車、アクセサリー、六本木ヒルズの一室を倉庫に使うほどのセレブぶりを見せていた。


だが実際はどうだったのか?


NIGO自身がお金を持ってることには間違いない。事実である。背伸びをしてこの暮らしをしているわけではない。


今回買収されたが、前々からあった話し、APEは継続され、ディレクターには引き続きにNIGO。ログの特許はNIGO自身で持っている。使われれば、使われるだけお金は入ってくる。


NIGOは経営者としてとても優れている。


私自身の見解としては、とてもプラスの買収であると思った。親会社が変わるだけで、APE自体は何も変わらない。黒い繋がりが一切なくなるのか、香港にいってそれがより濃くなるのか?



黒い霧事件

1969年10月8日の読売・報知両新聞紙上で、『西鉄ライオンズの永易将司投手が暴力団にそそのかされて
八百長をやっていたと判明したため球団は解雇』とのスクープが報道された。当初、読売・報知新聞のみのスクープであったため、
他の新聞社もこれに追従しなければならなくなった。当時の八百長は野球担当記者を5年もやればわかるようなものであり、
また確証を掴む事も出来ないため、記事にはしないという『暗黙の了解』のようなものが存在していた。

 シーズン中、故障もない永易投手が何故かファームに落ちた為、疑問を感じた報知の記者が
当時のライオンズ球団社長の国広直俊氏に取材、その際八百長の事実をうっかり喋ってしまったため、騒動は大きくなって行く。

 では何故『暗黙の了解』を破り、報知・読売はこのことを抜いたのか・・・・?

 当時も一部のマスコミで、『陰謀説』が囁かれていた。たとえば、作家の佐野洋氏は

『読売が北九州で部数を伸ばすため、地元紙西日本新聞系の西鉄を叩こうとしたものだ、
またジャイアンツはかねて九州地方を準フランチャイズにしたいとの希望をもっていたため、
八百長事件で西鉄球団を揺さぶり、場合によっては合併しようとしたのではないか。
そして、これはセ・リーグの商売仇であるパ・リーグのマイナー・リーグ化にも役立つ。』


と推理している。(『現代』 1970年6月号)

 

 10月22日、セ・パ両リーグの合同会議が開かれ、永易投手の問題が始めて取り上げられた。
その会議の席上でも、国広氏は新聞報道が事実であることを認め、プロ野球首脳たちは大きな危機感を擁かざるえない状況となる。
これにより永易投手は11月28日、コミッショナー委員会(宮沢俊義、金子鋭、中松潤之助)から
日本プロ野球初の『永久追放』の処分を受ける。永易投手は問題の表面化以来姿をくらまし、
球団及びコミッショナーの呼び出しにも応じなかった。

 西鉄球団の八百長疑惑に最初に気づいたのは、球団一軍投手コーチであった。
永易投手の八百長が発覚する2年も前のことであるが、大阪のゲームに限り、おかしな投球を続ける投手たちに
不審を擁き、迷った末に八百長の疑いを擁いた数人の投手たちを内偵し、その結果八百長の疑いが確信となり、
直ちに監督・コーチに報告した。しかし、返ってきた答は選手を疑ったことへの叱責だけであり、
失意のうちにそのコーチは2軍へ降格となっていた・・・・。球団は八百長の解明に努力することもなく、
臭いものには蓋の論理で事実を握りつぶしてしまったのだ。


 1969年9月27日、西鉄ライオンズのエース池永正明は、西鉄時代のチームメイトの田中 勉に
福岡市内の某旅館に呼ばれる。暴力団の元締から預かったという百万円をテーブルに置いて、田中は池永に
八百長の依頼をする。その時、田中から他の数人の選手も八百長に加担していることを初めて知らされ、
池永は驚愕した、と回想する。 

『日頃から気の強い田中さんが、何度も何度も頭を下げる。ライオンズ時代からオレは田中さんが好きだったし、
お世話になった。でもオレはハッキリと八百長は出来ないと断った。』
(スポーツニッポン 1970.5.26.)


 八百長の元締の手は、他の西鉄球団の選手達に伸びていった。

投手だけではダメだということで野手にも金を渡し、ついには外国人選手のボレスまで抱き込もうとする。
しかし、アメリカ人のボレスにこの手は通用しない。ボレスが球団に通報し、一気に八百長が発覚することになる。
同時期球団に大阪府警からの通報で西鉄球団の複数の選手に八百長の疑いがあるとの通報を受け、ここにきて
事件の重大さと、発覚を恐れた西鉄球団は『内部調査』の結論を『永易投手だけが八百長を行なっていて、他の選手はシロ』との
見解を機構側・マスコミに公表した。しかも西鉄球団は問題発覚以来、永易投手と八百長の仕掛人藤縄洋孝なる人物に、
西鉄・楠根宗生オーナー自身が口止め料として500万円を支払い組織ぐるみで事実隠蔽を計っていた。

しかしこの時点で、この事実はまだ表面化されていない。。

 永易投手の永久追放と西鉄球団の国広球団社長と中西太監督の辞任で
八百長問題の解決を図ろうとした西鉄球団とプロ野球機構は、しかしマスコミと世論の集中放火を浴びる。

読売は途中からトーンダウンし、後半からは朝日新聞が激しい糾弾キャンペーンを展開する。
前出の佐野氏はこれについて、『朝日がこのように懸命に取り組んでいるのは、九州で部数を伸ばすに当たって
障害になっている西日本新聞を叩くため、さらに、この八百長事件で、プロ野球全体の人気が
落ちれば、読売新聞の部数にも影響が生じるためである。』
と、分析している。

 連日の朝日新聞の大キャンペーンは、ついに国会議員で作る『スポーツ懇親会』をも煽ることになる。 
衆議院文教委員会は、『プロ野球の健全化』を求める決議を、自民党から共産党まで与野党一致で
採決されるという事態となり、ついに宮沢俊義コミッショナー委員長が国会に呼び出され、野球協約片手の
国会議員に詰問されることになった。
 

『賭博常習者との交際を禁ずる』という協約の条文について質問を受け、
『賭博常習者という肩書き名刺を出して、選手に近づくものはないのでむつかしい。』と 答えた宮沢氏が
『満場の失笑を買った』という新聞記事が残っている。


そもそも、国会議員やマスコミが、正義のタテとして持ち出した『野球協約』とは、一体何なのか?
当時の日本の『野球協約』は、戦後に選手の引き抜きや契約問題のこじれなどから『プロ野球にも明文化されたルールを』と
日本のプロ野球機構がアメリカのものをほとんど直訳しただけの安直なものに過ぎなかった。

例えば、当時の協約の中には次のような条文があった。

第34条『(国家活動)本契約は国家活動の重大な要請があるときには・・・。』
これがアメリカ版では、
『陸・海・空軍その他の国家義務が有る時は・・・。』と、なっている。

さすがに直訳は出来なかったようだが、徴兵制のない日本で『国家活動の重大な要請』とはいったいなんだ?と、
話題になった。このような『協約』の内容について、この事件が起こる前には気づく者もいないありさまであった、
要するに『誰も読んだこともない』ような『協約』でしかなかった
池永正明氏の回想でも、『キャンプでは、ルールなどの講習はあったが、『協約』について教えられたことはない』と語っている。

 
 ちなみに一連の黒い霧事件の際に問題となり、当該選手の処分の根拠となった
当時の『協約』の条文をここで書いておくことにする。

<野球協約第355条(敗退行為)>  

        クラブの役職員または選手及びコーチを含む監督が試合で敗れ、または敗れることを試み、
        あるいは勝つための最善の努力を怠り、またかかることを通牒するものは所属する連盟会長の
        要求に基づきコミッショナーにより永久にその職務を停止される。またかかる勧誘を受けた者で
        これに関する情報を連盟会長に対し報告を怠るものは制裁を受ける。


この条文の適用方法をめぐって、意見が百出することになるのだ。


 同じ頃、警察庁では永易投手の捜査を大阪府警・静岡県警に指示、ついにこの問題はプロ野球界の手を離れて、
社会問題化しつつあった。永易投手をマスコミは追い続け、ついに1970年4月5日、執拗なマスコミの追跡に姿を表した
永易投手の口から、『八百長選手は他にもいる』と、西鉄選手6人の実名が公表され、永易投手に口止め料を
西鉄球団が支払っていたとの疑惑も同時に浮上し、開幕前のプロ野球界は騒然となる。
西鉄球団の調査をもとに、コミッショナー委員会の喚問が行なわれ、5月5日八百長を自供したと
される選手2名は出場停止、残りの4選手も球団が自主的に出場を辞退する措置がとられ、
5月25日にコミッショナー裁定が下されることになった。

マスコミの裁定予想や処分に対する憶測記事が飛び交う中、5月25日16時30分、ついにコミッショナー裁定がくだされた。
八百長を自供した2選手の永久追放は予想された通りだが、永久追放の中に池永の名前も入っており、
他の2選手は1970シーズンの出場停止、1選手は厳重戒告処分の決定が下される。

 池永の処分内容が委員会でも1番問題とされたが、コミッショナー委員長・宮沢俊義は
『八百長を自供した2選手は池永より情状は重いが、永久追放より重い処分がないので同じ処分となった。』と語った。

『田中から預かった百万円は、八百長を納得した上で金品を授受した場合は
例え八百長をやってなくても協約に抵触するとの判断』
(スポーツニッポン 1970.5.26.)

が最終的な処分の根拠となったようだが、出場停止の選手達も実際には金を受け取っており
(一度は返しに行ったが、貸した金の代わりと、いうことで受け取っている) 
『処分の根拠が曖昧である』との批判もあったことも、付け加えておかなければならない。


 1970年5月25日、八百長疑惑の西鉄6選手に対するコミッショナー裁定が下された日、
池永正明は福岡市平尾の自宅前で報道陣に囲まれていた。
『今球団から電話があったが、あまりに酷過ぎる。』
よもや永久追放とは思っていなかっただけに、池永の表情は苦痛に歪んでいた。そして大声で訴える。
『本当に八百長したのならあきらめがつく。でもオレは絶対に八百長なんかやってないんだ。』
(中略)
『八百長を依頼されたことは悪い。でもやっていないのに永久追放だなんて・・・
もう野球をやれないなんて』 野球だけしか知らない池永が、大好きな野球を奪われた
悲しさか、池永はあたりかまわず泣きじゃくる。
(スポーツニッポン 1970.5.26.)

当時、朝日新聞などは『協約にはその職務の永久停止以外記されていないのだから、
全員追放せよ。八百長をもちかけられて届出なかったものも処分せよ。』と、書きたてていた。
 
 コミッショナー委員長、宮沢俊義氏は法律学者として『野球協約』のあいまいさと現実を認識していた。
たしかに厳密に解釈すれば、協約によって追放処分ではあるが、『灰色』である池永を助けたいと考えていたらしい。
しかし、コミッショナー委員3人の中で、池永を厳しく責め立てたのは、のちの江川問題で『奇妙な裁定』を下し、
世間の顰蹙を買った、金子鋭コミッショナー委員であったという・・・・・。


 あるスポーツ記者はのちに、このように語る。 
『私は池永はやってないと思う。やっぱり警察とマスコミ的に、誰か大きなネームバリューのあるやつを
スケープゴートにしたてなければならなかった、と、思う。それと先輩に土下座までされて100万円
受け取ったことを認めたんだが、受け取って、一応預かったことと、やると承諾したのは別だから・・・・。
あの頃の西鉄というチームの雰囲気では、金を突っ返すことはとても難しかったはずだ。』

 
 また、別の記者はこのように語っている。
『池永は多少態度のでかいところがあって、取り調べ側の心証も悪かったのではないか?
マスコミにも、書くんなら好き勝手に書いてくれ、という応対の仕方だったしね・・・・・。
でも、大投手といわれる選手の若いころはみんなあんなもんだろうけどね。』


 池永の状況は、金額の差を除けば、実は出場停止や戒告処分となった他の3選手とほぼ同じである。
少なくとも調べた限りでは、『金は預かったが、やらなかった』わけなのだ。
しかし、コミッショナー委員会の説明では、『3選手は金を受け取ったが断わった。池永には
八百長の誘いを拒否する明確な意思表示を認めがたい。』ということであった。
池永は『先輩の面子』を潰すまいとしたことが致命傷になったのだ。
『野球協約』よりも『先輩』の方が、23歳の池永にとっては『法』だったのである。

 そしてやはり『政治とマスコミと世論』からの総攻撃を受けて、『西鉄のエース』をスケープゴートにすることにより、
包囲網から脱出しようとする球界首脳部の作戦とヨミがあったのかもしれない。
 
 確かに西鉄の6選手だけに容疑がかかっているが、セ・リーグでは何もないのか?という論調も出てきていた。
ここで、球界が持ち出すのが『オートレース八百長事件』である。オートレースで八百長を仕掛けた容疑でセ・リーグの2名の選手が
永久追放になった事件は、世間の関心を『野球の八百長』から巧みに目をそらさせるための手段ではなかったのか・・・?

また巨人・阪神の一部コーチ、選手にも『暴力団との交際』を噂され、実際に謹慎処分を課せられた者もいたが、
それ以上の追及はされなかった。このように、処分の内容は非常に曖昧模糊としている。
厳密に『野球協約』につきあわせていけば、全員追放となるのではないか。(しかし、オートレース八百長はまた別の話だが。)
どのような根拠で、追放・出場停止・戒告の処分が決定されたのか?今となっては、謎のひとつになっている。


 事件が一段落したあと、巨人の王選手が次のような感想を述べていたそうである。

『世間一般は疑わしきを罰せずというけれど、野球界は疑わしきを罰するところだっていうのが本当にわかった。
だから、疑われることはもう罰せられることだ、ということをみんな考えなきゃいけないな。』


やはり、あの処分はどこか不公平であった感は否めない。
事件から32年、大投手池永正明の名誉回復は現在もなされていない。
 

(参考文献)

『スポーツグラフィック・ナンバー』1982年2月20日号、<池永正明が貝殻追放された日>より。(文芸春秋社)
『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』  立石泰則著(文藝春秋社) 
『プロ野球史・スポーツニッポン縮刷版』(スポーツニッポン社)
『記者達の平和台』(葦書房)


 


(02.9.26【トリゾン】さんによる『補足』)

 黒い霧事件は、1970年5月25日の西鉄選手の処分とオートレースに関わる八百長追求で収束したと言われているがそれがすべてではない。

 4月末に警察の調査によって、逮捕された暴力団員から近鉄の選手の八百長疑惑が表面化し、問題になっていた。
西鉄選手の事件とは別ルートであり、仲介役はなんと近鉄球団の広報課長だった。事件は3年前のことであり、疑惑の試合に関わった
監督・先発投手・捕手・外野手のコミッショナー委員会の調査があり、結局選手は八百長を明確に断っており、金銭の授与がないということで
厳重注意ですんだが、仲介役の元広報課長は、八百長依頼を認めたため、永久追放になった。

 
 そんなおり、逮捕すみの八百長の胴元の暴力団員とこの元広報課長から近鉄のA選手に八百長依頼があり、さらに高級腕時計をもらっていた
事実が発覚した。

 A選手はコミッショナーの調べに、依頼があり、時計をもらったことを認めたが、八百長試合の依頼者の元広報課長が
当時マネージャーであり、はっきり断ったことと時計をファンのプレゼントと言うことばを信じたという主張が通り、厳重注意だけですんだ。

 一連のプロ野球とオートレース八百長事件の胴元である藤縄洋孝は4月26日に逮捕され、その取り調べから西鉄選手の他東映の2選手選手にも
八百長依頼があったことが発覚し、
5月9日に東映球団から疑惑の2選手の事情聴取が行なわれた。
 二人の供述によれば、すでに処分を受けた元西鉄の永易投手から飲みに誘われ、行った先で、見知らぬ男から八百長の依頼があり、
現金60万円を示されたがその場で断った。元同僚(永易投手は東映出身)で

親しかったことから八百長の依頼があるとは思わなかった。
しかし、報告しなかったのは悪かった。というものであった。

 二人の証言から東映の大川オーナーは「選手はまだ子供。きつくしからなければならないが、
追放処分は考えていない。」と発表した。

 しかし、その後の警察の取り調べからふたりのうち森安敏明がその後、永易投手から50万円を受けとっいていた事実がわかり、さらに10月の
南海戦で八百長を同僚選手に勧めていた疑惑も証言等からから明らかになった。森安は八百長の実行と同僚に八百長を勧めたことはあくまでも
否定したが、金銭授与を追求の結果認めたため、7月30日に永久追放が決まった。

もうひとりのBは供述どおり依頼を断ったので、厳重戒告処分となった。
しかし、前年に森安からの『差し入れ』紙堤の中に現金があったので、あわてて当人に返却し、肩が痛いと行って当日の登板を回避したことが判明し、
彼に対する疑惑は晴れなかった。
信じていた選手に裏切られた大川オーナーは経営意欲を失い2年後、東映は西鉄同様身売りすることになる。

  オートレース関連では、すでに逮捕済みの藤縄の自供から中日の小川健太郎、阪神のC、さらに、8月になってヤクルトのDが関連で取り調べを受け、
その後処分がくだり、小川は永久追放になった。

 そして、オートレース関連での警察での取り調べから小川健太郎に元同僚の田中勉を通じて
八百長を依頼した疑惑が浮上した。



 それによると前年の7月の中日対大洋戦の前に大洋のE投手に先発を自分と同じ日にしてしてくれと依頼したとのこと。実際7月26日の対戦では
両投手の投げ合いになっている。6月22日E投手は、球団部長を伴ってコミッショナー事務局に出向き、身の潔白を主張。
結局、この件は、シロと言うことになった。

その後、小川は5試合の疑惑試合の八百長関連を問われたが結局、関連ありとはならず、追放理由は
オートレース関連によるものであった。

 その後も、年が明けた1971年の1月に南海のF投手が当時の同僚G投手から八百長の依頼を受け、球団に報告しなかったとして戒告処分、
暴力団との交際疑惑で、大洋のHコーチとI投手が無期限出場停止、同じ理由でロッテのN投手が開幕から一月の出場停止、また、中日のJ投手は
競馬のノミ行為と暴力団の交際疑惑が生じていたが、リーグからの事情聴取の後、体力の限界を理由に引退した。

 その後も数々の噂はあったが、71年のシーズンが始まる頃面的にはようやく黒い霧は収束した。


永久失格者7人、処分者11人、を出すという史上最悪の事件で、西鉄と東映は1年半後に身売りをすることになる。


 調査対象者、処分者は圧倒的にパリーグに多かったが、これは、セリーグが基本的に警察の取り調べから判明した選手だけを対象にした結果であり、
そのため、処分が迅速に行われた。しかし、リーグ独自の調査をしなかったことからリーグの事務局は怠慢ではないかと世間から非難された。


一方のパ・リーグは、リーグ独自の調査を行ない、当初は永易投手の処分だけで終わらせようとしたが、藤縄が警察に逮捕されその自供から
八百長試合との関わりが世間に明るみに出て、やらざる得なかったので最小限の調査であった。

 
 また、黒い霧はオートレースの疑惑が出てから急に収束したと言われているが、実は、西鉄選手が主力のプロ野球賭博に関わる八百長とオートレースの
八百長の胴元が同じであり、近鉄球団の八百長を仕掛けた暴力団を除き、彼以外の賭博グループは、前年の事件発覚以来、証拠を隠滅して姿をくらました
ため、警察ではそれ以上進展がなく、この胴元と関わり合った選手の取り調べが終わり処分がされると表向きは収束したようになった。というもので
連盟が収束を図ったと言う面は否定できないが、オートレースの不正を世間の目に向けたという説には疑問が残る。


一連の仕掛け人である胴元の藤縄は、実は、暴力団との仲介約でしかなく、八百長の実体を世間に話したため、同業者や元締の暴力団から恨みを買い、
命を狙われたという。そのため、最小限の選手の関わりしか明かされなかったことも疑惑を深めた一因だった。。

 そして、今回の事件でもっとも処分が不公平だったのは、元西鉄の田中勉と上記のAであることは明らかだろう。

田中については、これまでも語られているので省略するが、Aの場合、仲介者の元広報課長から食事に誘われその場で八百長の依頼を受け、
断ったとはいえ、実際後で高価な物品を受け取っている
当人の証言の信憑性を考えると八百長の依頼を受けて金を受け取った池永と同じと
いえないこともない。



 しかし、Aの場合、依頼者が入団以来面倒を見てもらっていた当時のマネージャーであり、食事に誘われるのは自然で八百長の依頼があるとは
思わなかった。その場ではっきり断っており、時計は、あとでファンからのプレゼントと言ってこのマネージャーがもってきたので、信用して使っていた。
世話をしてもらっているマネージャーなので、球団に報告しなかった。
という言い分で、証言について元広報課長が認めたため、八百長との関連はシロということになり厳重注意ですんだ。

 池永が「暴力団に脅されているから金だけでも受け取ってほしい。」と田中に言われて受け取ったという主張は、藤縄が「八百長をしないなら金を返せと
言ったところ開幕してからなんとかするから待ってくれと言われていると田中から言われた。」という警察での自供と当の田中が池永の主張を正式に
認めなかったことが明暗を分けたと言える。



 そして、もうひとつはAが酒、たばこ、ギャンブルを全くやらず、普段の生活がまじめそのもので、暴力団との接点が見つからなかったため、それ以上の
追求がなされなかったのに対し、池永は暴力団員としばしば飲食を共にしていたという話が伝わっており、西鉄選手が暴力団関係者との関係を
後援会会長がにがにがしく思っていたとの証言もあり、コミッショナー委員会の心証を悪くしたと思われる。

こうした普段の素行が両者の明暗を分けたのだろうか。

  黒い霧は、コミッショナー委員会が処分を広げないように警察の取り調べによる自供を元に調査したのと依頼と金銭の授与をもって
八百長の実行と見なす党方針が処分に差が出たということであろう(実際、それは問題であったが)。

 問題になった西鉄選手の処分についても
コミッショナー委員会の当初の処分案は、池永は1シーズンの出場停止、他は3ヶ月の出場停止だったが、当時の世間は、全員永久追放せよ。と言う声と
実行していない選手は寛大な処置を。と言う声がまっぷたつに別れており、どちらをとっても非難は免れず、苦悩の選択をしたといえるだろう。
ただ、処分を重くした効果がほとんどみられず、単なるコミッショナーのポーズとしかならなかったため、後にその処分の差を攻められることになる。

 この処分の中で、実は、益田は、最後まで、八百長の実行は否定していたが、金銭授与の証拠と私生活の乱れがあったことが決定的になり
処分がくだった。森安も金銭授与を認めたことが決定的だったが、八百長の実行、依頼は最後まで否定していた池永とほとんど変わらないと言える。

 また、小川は、「オートレースの疑惑は自分にも非があるので、ある程度仕方がないが、プロ野球の試合では、断じて八百長はしていない。
これは讀賣グループの陰謀で、他に疑惑の選手がいたが、若かったので、先のない私を連盟は生け贄にした。」と語っている。

 
 真相は藪の中であるが、処分の内容が選手によってあいまいであったことは確かであり、こうした疑惑が出るのはコミッショナーが調査内容を
公開せずに処分を密室で決めたこと、資料も公開していないこと、そして、選手側からの控訴を認めなかったことで、これでは生け贄を出して
収束したと言われても仕方がないだろう。



 さらに、野球賭博が関西を中心に行われていると言われている中で関西球団でなぜ、阪急だけ処分者が出なかったのかと言う疑惑もある。
確かに処分者は出なかったが、後に八百長依頼をしたことを告発された選手は実は阪急出身で、当時別球団に所属していたが、黒い霧の疑惑の最中に
引退している。
実際、黒い霧の数年前に昭和30年代の主力が戦力になると言われていたにも関わらず引退したり、トレードに出されており、この選手も
その中に入っている

阪急は、疑惑を知っていてトレードに出したのではないか?また他球団も同様だったのではないか。
・・・・・・・・・・今となっては知るすべもない。

 処分者のうち、森安と小川は既に亡くなっている。他の者も池永以外世間に生死を知られていない者が大半である。
池永の復権問題が出るたびに心の傷が痛む者もいるという。

決して、ひとりの将来性のある選手が球界を救うために犠牲になったと言うだけの
事件ではない。

そのことに対して私達はは目を背けず後世に伝えて行き、事件の再発だけは防がねばならない。
それが追放ということでプロ野球を守った元選手たちへの礼儀というものであろう。

相撲の「猫騙し」って、立ち合い時、いきなり相手の目の前で、パチンと手を叩くワザです。もちろん、ワザと云うほどのもんじゃないので、決まり手にはならない。ビックリさせて注意を逸らし、優位な体勢に持ち込もうと云う、ま、「目くらまし」ですね。

で、突如、浮かび上がった相撲の八百長問題。何かヘンでしょ。なぜ今と思う。警察もそこまで暇じゃないだろうし。これね、苦戦明らかな国会審議から注意を逸らそうとする、民主党 の「猫騙し」ですよ、きっと。

民主党 が防戦一方で無能力さを曝け出す国会中継など見ないで欲しい、ええい「目くらまし」でもぶちかますかってのが、菅さんの腹です。相撲協会が文科省 所管で、民主党 応援団の偏向マスコミが味方にいるから出来るワザですね。

でもさ、競馬競輪みたいなギャンブルじゃないので、例え八百長でも誰も経済的損失は被らない。アマチュア大会じゃないので、神聖なるフェアプレイが どうこうでもない。世間が非難する筋合いじゃないのです。格闘技の興行団体相手に「つまらねえ!金返せ!」って声はあるかも知れないけど、テレビ桟敷の人 は嫌なら見なきゃいい。

昔から相撲には阿吽の呼吸があります。全取組みがガチンコ勝負とは限らない。相撲ファンてのは、そんな部分も含めて試合を楽しみ、伝統の様式美に酔うのです。八百長 の噂に目くじら を立て、「失望した」なんて批判している人は子供だな。はっきり云って馬鹿です。

いっそ、相撲協会の親方衆、頭なんぞ下げず、「何が八百長 だ、この野郎!絞め殺すぞ!」と凄むのも手ですよ。体デカいし、怖そう。マスコミもその手の強面には弱いので、シュンとするかも。

もっとも凄んだりすると、わが国の伝統文化が嫌いな反日民主党 が相撲協会を潰そうとするでしょうね。菅さん、9月場所の優勝杯授与で観客から「売国奴!」と野次飛ばされたとか。きっと相撲は大嫌いだと思うな。