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適塾・緒方洪庵
大坂を好み、町民相手の医者だった緒方洪庵。
蘭学者、教育者としても名高く、彼が開いた「適塾」には、
全国から若き秀才が集まった。
幕末、維新の日本のリードする人材を多く育てた洪庵とは、
どんな人物だったのだろうか。
洪庵は、備中国(岡山県)足守の武士の家に生まれた。
十三歳の時に、日本初のコレラの大流行に遭遇する。
文政五年(1822)のことであった。
この恐ろしい伝染病は、朝鮮から対馬をへて九州、中国地方へ広がり、
瞬く間に大坂から東海道を襲った。
大坂では、患者は三日の間にコロリと死ぬところから「三日コロリ」と呼ばれたが、
「半時コロリ」もある始末。
全国で十数万人が犠牲になったといわれている。
洪庵は、毎日、手当てもされないまま死んでいく人を見送っていた。
一人が死ぬと、あっという間に周囲に感染し、三人、五人と死骸が築かれていく……。
当時の漢方医術では手の施しようがなかったのだ。
洪庵は、日本の医者のふがいなさに憤りを感じざるをえなかった。
そして、
「尊い命を守るために、医学を究めたい」
と決意した。
洪庵は武士の子である。
「医者になりたい」と言っても父が許さなかった。
だが十七歳になったある日、置き手紙をして家出を決行。
備中をたって大坂へ向かったのである。
その時、両親にあてた手紙が残っているので要約してみよう。
「父上から深い恩を受けながら、
今日まで少しも報いることができず、不孝の限りを尽くしております。
申し訳ありませんが、私は武士には向きません。
医学を学びたいのです。
そのために三年間、自由にさせていただけないでしょうか。
聖人であれ、賢人であれ、病気の前では無力です。
多くの人々を助けるためには、医学を研究しなければならないのです。
自ら信じる道へ突き進むと、
大恩ある父上、母上に孝行を尽くせなくなるのではないかと恐れ、
今日まで、実行できませんでした。
長い間、迷いました。
しかし、平々凡々と生きることが孝行になるとは思えません。
私は決意しました。
医師を目指し、一生懸命勉強します。
私の志をご理解ください。
どうか、伏してお願い申し上げます」
(中略)
洪庵は、十二カ条の訓戒を作っている。
医学を志す者の心構えを謳ったものであるが、
その精神は、最初の三か条に凝縮されている。
分かりやすい表現に改めてみよう。
一、医者がこの世に存在しているのは、ひとえに人のためであり、
自分自身のためではない。
有名になろうと思うな。 利益を得ようとするな。
人を救うことだけを考えよ。
一、病人に向かったならば、ただ一人の患者として見よ。
貴賎貧富で患者を差別してはならない。
一、医術は、患者のために施すものであって、
決して患者を実験台にしてはならない。
江戸時代に、本格的に西洋医学を導入するにあたり、
このように明快な、医師の倫理規程が設けられていたのである。
洪庵自身が、一人の医師として、生涯にわたって貫いた精神であった。
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こういう訓戒は、繰り返し自分に言い聞かせたいと思います。
西洋で言う、「ヒポクラテスの誓い」に似てるのかもしれませんが、
日本人としては、緒方洪庵のこの訓戒を大切にしたいです。
有名になろうと思うな。利益を得ようとするな。
医者は人を救うことだけを考えよ