- 歎異抄をひらく/高森 顕徹
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11 葬式・年忌法要は死者のためにならないって?
それホント?
原文 - 親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず
(『歎異抄』第五章)
意訳 - 親鸞は、亡き父母の追善供養のために、
念仏一遍、いまだかつて称えたことがない。
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葬式や年忌法要などの儀式が、
死人を幸せにするという考えは、
世の常識になっているようだ。
印度でも、釈迦の弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文の唱えると、
善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」
と尋ねている。
黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦は、
沈んでいった石を指さし、
「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、
と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」
と反問されている。
石は自身の重さで沈んでいったのである。
そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。
人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、
他人がどんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれている。
読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。
釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、
常に苦悩の心田を耕す教法だった。
死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれる。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、
真の転迷開語を教示されたのが仏教であった。
今日それが、仏教徒を自認している人でも、
葬式や法事・読経などの儀式が、死人を幸せにすることだと当然視している。
その迷信は金剛のごとしと言えよう。
(中略)
仏教界はその意味で、いまや病膏肓に入ると言えよう。
いまにして聖人の御金言を噛み締めなければ、
残るは死骸の仏教のみとなるであろう。
では、葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、
仏法聞いた人には仏恩報謝・法味愛楽、
仏法知らぬ人には仏縁ともなろう。
毎年、多くの交通事故死が報じられる。
「昨年は何千人」と聞いても少しも驚かない。
ただ漫然と数字を見るだけで、
「死」については、まったくマヒしていないだろうか。
忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。
そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、
人生を見つめる得難い機会になることがある。
「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」
否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられる。
願わくは、単なるしきたりに終わらせず、
自己の後生の一大事を感得し、解脱を求める機縁としたいものである。
*病膏肓に入る 治る見込みのない重病。
*法味愛楽 弥陀に救われたことを喜ぶこと。
*酔生夢死 無駄な一生を過ごすこと。
*後生の一大事 永遠の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
*解脱 後生の一大事の解決。信心決定のこと。
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お釈迦さまって、たとえ方がお上手というか、
「石よ、浮かびあがれ」って言うことで石を浮かばそうとするのはおかしいな、
と、思わず納得してしまいます。
よく分からない儀式みたいなものだから、ということで、
あまり深く考えたことはありませんでしたが、
亡くなった人のためにお経をあげるとかっていうのは、
そもそも本来の仏教じゃなかったんですねぇ。
でも、うちの寺でもあげてたような・・・・。
せめて意味を説明してほしいです。
常識とされてることでも、よくよく考えて見るとおかしいな、というのは、
こういうところにもあるんですね。
「死」に関することでは、ほかにも、
おかしな常識がまかり通っていることは多そうです。
死生観を学ぶ上では、その辺を見極めることも大事そうです。