

つい先日、日曜日に幹線道路を通って帰宅する途中、5頭もの鹿の死体を見ました。
最近車にひかれたような死体もありましたが、少なくとも2頭は皮だけになっていました。
死んだ後、道路沿いで少しずつ腐っていったということです。
こんなひどい有り様なのに、世間からほとんど注目されていないのが気になりました。
なぜこんなことになるのでしょう?
どうして、交通事故で、こんなに多くの犠牲が出てしまうのでしょう。
私たちは、ついさっきまで元気に飛び跳ねていた鹿を車でひかぬよう、
十分に気を付けたでしょうか?
今にも息絶えそうな鹿の様子を見るために車を止めると、
道路から6メートルほどの所に子鹿がたたずんでいるのが目に入り、胸が痛みました。
この子鹿は傷だらけの死にそうな鹿の子供なのでしょう。
子鹿は、母親を助けたくて、自分の命を危険にさらして道路際に立っているのでしょうか。
私は、死にかけている鹿をどこかに運んでしまえば、
子鹿もこの痛ましい事故現場を去るのではと考えました。
この鹿も、バックス郡の森の中なら、
どうにか生き延びることができるかもしれないと思ったのです。
そこで、車のトランクを開けてみましたが、そこに入っているものを全部どけなければ、
鹿は入りそうにありませんでした。
そこで、誰か車を止めて手伝ってくれないかと15分ほど合図を送りましたが、
誰も止まってくれません。
200台かそれ以上の車が通り過ぎました。
州警察の車も通りましたが、止まってはくれませんでした。
私はがっかりして、子鹿を森へ追いやることにしました。
そして、ついに息を引き取った鹿の死体は、横にして、
道路脇のガードレールの向こうへ寄せておきました。
恐らく、今ごろ子鹿は、より安全な場所を見つけたことでしょう。
でも、もう母親に食べさせてもらうことは出来ず、うっそうとした森の中を導いてもらうことも出来ません。
私はがっかりして途方に暮れ、車の信号灯を消して、車を発進させました。
心が痛み、考えがうまくまとまりませんでしたが、私は答えと解決法を探り続けました。
なぜ、誰も車を止めて私の無謀な挑戦を助けてくれなかったのでしょう?
幹線道路は私たちの生活を支える大動脈として急造されたのは知っています。
危険が多いのも承知しています。
でも、私たち人間は、目的地へ急いでいても、
シートベルトをすれば、高速道路上でも安全を確保できます。
猛スピードで車が行き交っていても、あまり心配は必要ありません。
ただ、ドライバーが電子機器に夢中になってしまう場合もあります。
“うっかり”ドライバーの20%以上が、携帯電話に気を取られています。
実際のところ、なぜ私は、猛スピードで飛ばしている車のすぐそばで突っ立っていたのでしょう?
幅3メートルの路肩に車を止め、ガードレールのそばに立っていましたが、
走る車とあまりに近く、顔に排気ガスがかかったほどでした。
正気の人間なら、そんな所で人の手伝いをしようとは思わないはずです。
見たところ鹿はもう死んでいましたし、いずれ幹線道路の管理係が現れて片付けるでしょう。
鹿についても考えてみました。
鹿は自分で身を守らなければならないのでしょうか?
それにしても、なぜこの辺りには鹿が多いのでしょう?幹線道路は人間のために建設されたもので、生活を支える道路なので、車が矢のように猛スピードで行き交います。
でも、鹿たちがそう気づくのはいつのことでしょうか。
私はさらに考えました。
鹿の数がこんなに増えていることについては、どうすればいいのでしょうか?
間引きや鹿狩りをすれば、それでいいのでしょうか?
増え過ぎたり住む場所を失ったりした鹿を、専門家が選別して間引けば、
森の住人と幹線道路の利用者との衝突は、多少、減るかもしれません。
でも、そんな方法で、責任をもって自然環境を保ち、
身近な資源を生かしていると言えるのでしょうか。
幹線道路のことで気をもんでいても、何にもなりません。
有料道路のように、道路沿いにもっと高い柵を立てればいいのでしょうか。
あるいは、もっと広い、鹿の保護区などを設ければいいのでしょうか。
自問自答を続けましたが、納得のいく答えは得られず、誰も車を止めて手を貸してくれなかったことにただ落ち込みました。
私たちは、急いでいるからといって、道路に鹿の死体があっても見て見ぬふりをし、
フロントガラスに鹿が飛び込んで来でもしない限り、何も気にしない人間なのでしょうか?
これは思いやりの問題です。鹿の死体を見ても、何も気になりませんか?
とても信じがたいかもしれませんが、私たちは、苦しんで死にかけている生き物を見ると、愛しているかどうかに関係なく、哀れみの気持ちを持つものです。
私たちは、何か様子が変だと感じると、慎重に対応したくなるものです。
でも、本当はそんな思いやりはなく、無関心で急いでいるだけだとしたら、私たちの未来はあまり明るくないかもしれません。
身近な生き物の命も大事にしないのに、
私たちは互いの命の大切さを理解することができるでしょうか?
対立や問題もありますが、どんな場所であれ、自然に命をたっとぶ気持ちが湧いてこなければなりません。
世界中の人間、生き物すべてが幸せで居続けるために大切なことです。
もし思いやりがなければ、どうやって誰かの死に心を痛め、早過ぎる不幸な死を悼むことができるのでしょう。
この世界に存在する命には、私たちが気を配り、守る価値があります。
そんなことは、教えられなくても知っているはずです。
私たちの未来は、弱いものに対して今後どう関わっていくか、ひいては命という宝をどう守るかにかかっていると言えます。
私はずいぶん気落ちしていましたが、2日前に娘の卒業式に出席したことで、少し気が晴れました。
卒業式では短いスピーチがあり、そこで、卒業する若者たちに、
正しい心を持って大人の世界に足を踏み入れるよう激励するのを聞き、
私はとてもうれしくなりました。
すべての若者たちの心の中に“思いやり”が見て取れたのです。
思いやりは人の心をとかします。
だから、私たちは人を思いやる習慣を身に付けてきたのです。
スピードを落とすのも解決策のひとつでしょう。
そうすると、私たちは慈しみの心を持って世界を観察し、
早過ぎる死を遂げた生き物を哀れむようになります。
偶然とはいえ、避けられたはずの事故ですから。
私達は、思いやりを持って世界に救いの手を差し伸べられることでしょう。
動物の犠牲を、自然界と文明の対立が招いた不幸な結果として片付けては駄目です。
当然ながら、私たちの身近な場所に住むようになった“野生動物”には、
寿命など関係ないと言っているわけではありません。
幹線道路上の迷惑な鹿のために、
毎年、多くの人命が失われ、車の修理に何百万ドルもかかっているのだから、
おあいこだと考えるのは、妥当ではありません。
自然界と文明が対立しているのは確かですが、
思いやりの気持ちを持ち、知恵を絞って何らかの解決法を探すべきです。
自然界と文明の対立を取り上げましたが、自然界には他にも多くの難題が残されています。
この記事が、枯渇する森林資源、海洋温暖化、
大きな被害をもたらす暴風雨、絶滅寸前のミツバチなどの問題に取り組むきっかけになればと思います。
私たちの中の優しさを呼び覚ます時が来たのではないでしょうか。
身近な命を思いやることで、私たち自身が力をもらっていると気づくべき時です。
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