人として人生を送られた方を、死後「神」として祭るのは、日本ならではの風習。

その方は天から来られると、お社には美しく飾られた「門」がある。

聖域に入る前に鳥居(アラム語で門という意味)があるのは

出エジプト記の神の怒りを逃れた選民の戸口に由来しているのだろうか?

聖域では穢れを入れず、参拝する人々には守るべき礼儀作法がある。

けれど、神の霊を祭るのは地に留め置いているようです。

 

キリスト教で気になるのは、

処刑されたままのキリストの「偶像」

もうすでにキリストは、肉体という檻から解放されたのです。

憎しみに満ちた、死に際の究極の苦しみを現す偶像に

キリストの霊を閉じ込めているようで

むごいばかり。

そして[聖餐式]のキリストが文字通り食物であると言う告知。

蛮族がキリストを揶揄した儀式のようで

「血」「肉」と言われると、鳥肌が立ちます。

罪人が食することで、神に永遠の死を告げているかのようです。

 

キリストを信じてはいるのだけど、

礼拝形式があまりにもひどくて、驚くばかりです。

さて、キリスト教で礼拝されている者は一体誰でしょう?と言う疑問が生じます。

キリストの忍耐がすごい。