たとえば、神社のお札のように「イエスキリスト」のお名前を書いてそれ神棚でお祭りをする、

「イエスキリスト御智慧(or御神力) 御守護」と書いたものを袋に包み、お守りにする。

 

御言葉の黙想も、いや増しにいいです。

 

処刑された偶像は、絶対お守りにはならないし

キリストのように受難を受け死ぬことを、

願ったのは集団ヒステリーではないだろうか?と思うのです。

 

イエスキリストは賢かったので、文明が向上することを願われたとしか

思えない言動がそこかしこにあります。

 

行き場のない人々に対して語った、「キリストの法」は最高に素敵でした。

隣人に涙し、人々を守る国家へと発展していったからです。

ただ、宗教テキストによる間違い、(勘違いも含めて)

人の思考(邪推)による神学の欠点

また主導権を握る支配者たちの干渉も含めて

人々はあらぬ方向に進んでいきましたが

信仰者は、確かな熱意を持って正義を貫いて生きました。

彼らの確実な勝利は、二千年後に生きる私たちですら見聞きし実感できます。

 

ただ、「拝む、お礼参り」だけではなくて、

罪を悔い改めて「(神のしもべとして)できることをしなさい」が、キリスト教でした。

 

罪を悔い改める段階で、キリストに保護されるわけですよね。

だから、「謝る」ことも「償う」こともできるのです。

この謝る、そして償うことが多くの人々の胸を震わせ涙を誘うのです。

 

一つ心配なのは、ペテロに

「私の子羊を飼いなさい。」

「私の羊の世話をしなさい。」

「私の羊を飼いなさい。」と言及していますが

最後に「私に従いなさい」と言われています。

 

キリストが「人々を羊」というたとえを使用したのは、

モーセが神に「主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」と言ったことによるのでしょう。

しかしモーセは「共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者」を主に願われました。

おそらく羊の群れを軍隊のようにとらえたのでしょう。

 

しかしキリストは、ペテロに何を願われたでしょう?

 

神学によりキリストが、神の子羊(生贄)と言われたのが、

聖書の文面から見てびっくりします。

アベルの子羊とイエスキリストが比較されたのは驚きです。

 

キリストは子羊(信仰者)や羊たち(指揮する者、あるいは群集)の主人であり

ペテロは、羊をゆだねられたもの(初代法王)なのです。

 

いくつかの曲解を正さねばならないでしょう。

 

磔刑にされたのは、正統な血族で人気のある彼に対する

当時の王や支配者たちの妬みだったのでしょう。

それを、スケープゴートや生贄と言いちがえたのは、

腐敗したバビロンやペリシテ人(ギリシャ?)モロクなどの異教の教えです。

よく考えてください。

罪は擦り付けると、災いでしか返ってきません。

神は偶像でも、龍やモロクのような生贄を要求する者でもないのです。

「天の御父」なのです。

 

三位一体なら、キリストは一人で父と子と聖霊をしていると理解します。

これらはすべて、救済のための構想(法)なのです。

 

生贄を撤廃するための者が、自らが生贄にされ

共食いを廃止させるためのものが、

共食いの要因をつくる(生贄の)神学に代わっていったのは

非常に残念です。

(神学をつくった人々の抑圧された背景による、精神的重圧による結果でしょうか)

それも赦しのうちだったのでしょう。

 

信仰者たちは、数千年の間、

龍(支配者)や獣(異常人格者)たちが干渉した腐敗した宗教テキスト、

また神学と闘ってきて勝利したのです。

 

日本では、人でも神になります。

まして数千年の間、信仰者の光であるキリストが、

神でなくてなんなのでしょう?

 

人々は、恐怖の暴虐的支配者でも裁判官でもないので

キリストを何度も処刑(磔刑)すべきではないです。

ユダヤの法ですら、磔刑はその日の夕方には降ろさなくてはいけない

決まりがあるほどです。

 

とりとめもないことを書いてしまいましたが、

そういうことです。

神社が日本の国家祭祀であることを知っていますが

あえて。キリストならと思ってしまいました。

 

キリストなるイエスを磔刑から外さず、動物のようにみなし、

罪を擦り付け生贄にし食することで、

神を凌駕し神になろうとする(無知)から

すべての人々は解放されなばなりません。