木曜日に水彩画教室の先生から、僕の描いた水彩画を「まるで偉い先生が描いたような感じね!あなたのようなセンスは私にはないわー。」という「まさか!」と思えるような微妙な褒められ方をしたのだが、冗談を言うタイプの先生ではないので、ことのほか嬉しく、今後は水彩画を頑張ることに決めた。

 

頑張ると言っても方向性を決めないと始まらない。鉛筆画も描こうと思っていたが、これは止すことにして、時間を水彩画に集中させたい。才能という面も否めないが、とにかく自分なりに努力して画力を向上させ、コンテストに応募したり、個展を開いたり、クラフト販売サイトのminneで水彩画を販売することにしてみたい。方針は決めたのであとは頑張るだけだ。

 

もう一つやりたいのは今書いているエッセイというかアメブロで、もちろん文章術の本も読んで勉強してみるが、いちおう読書歴は小学校時代も含めて40年は経つし、頭の中には雑学知識が相当詰まっている。それに自分なりの人生経験もアラフィフなのでそれ相応にある。

 

今まではエッセイをnoteに書いてきたのだが、おびただしい数の読書に費やしたお金と手間と時間を考えると、それを無料で人に分け与えるのも人が良すぎるように感じたのだ。この件はすでに書いたのでこれくらいで済ます。自分の文章力をアメブロのアフェリエイトでお金に変えてみたいという目論見なのだよ。

 

「おや?こいつは何でもかんでも金目当てか?」と思われても困るので白状すると、人生の師匠は有名な俳人の正岡子規なのだ。もちろん子規の俳句や短歌、随筆の文庫もせっせと集めた。そうすると自分も俳句を作ってみたくなり、俳句入門を読みながら、ラジオの俳句番組に作った俳句をぼちぼちと投稿しているところだ。俳句も水彩画やエッセイと同じで最初から多くを求めるわけには行かない。とにかく一句ずつ作って作品の質を高めて、一つ一つ入選を重ねて実績を作るしかないなという考えだ。

 

今書いているのがエッセイかと言われると自身がないが、正岡子規の提唱した写実主義としてのエッセイならこれがそうと言えるかもしれない。

 

正岡子規も脊椎カリエスという難病で苦しみ、晩年の6年間は布団の上から動けなかった。それでも生涯に2万6千句という俳句を残したから、日本文学界の革新者の一人であるのは間違いない。

 

それにしてもと思うのだ。そういう正岡子規を尊敬しながら僕は少しでもお金に繋がるように水彩画を上達させたいし、アメブロのエッセイも将来的にお金に変わればと願ったりしている。

 

まるで漫画の「カイジ」みたいな話だが、何もおかしなこともなく、世の中の労働者は自分の能力を労働という形でお金に変えて生きている。これは至極当然のことだと思う。病気療養中で水彩画とエッセイでリハビリしている僕には、自分のできる能力をお金に変えてみたいという気持ちが強い。もちろん水彩画もエッセイも大好きなので、それらを上達させたいという気持ちに嘘はない。でも、そこにインセンティブの要素としてお金が加わったのだ。

 

今後は、水彩画はひとまずは水彩画教室での先生の評価を一つの目処としながら、コンテストに応募してみたり、minneで販売を試みたい。少しずつ自分の活動範囲を広げていくのが絵画の課題。

 

アメブロの目標はひとまずコンテンツとしてのエッセイの質をできるだけ高めること。アメブロの主流の使い方とは違う気もするが、エッセイという形で自己表現をしてみたいし、それを世に問うてみたいという気持ちは、やはり強い。コンテンツあっての読者だろうから、お金を得ることと順番を間違えてはいけない。作品のクオリティがお金に変わると思うから。それは名文を書く作家が売れっ子作家と呼ばれるのと原理は同じだ。ベストセラーの論理だな。

 

残りは唯一の趣味の俳句ということになるが、これはマイペースでやろうかな?正業ではないとはいえ、創作活動を一日中がんばると流石にバテる。俳句くらいは息抜きでやってもいいだろう。

 

何もそんなに頑張らなくても良いようにも思うが、心の病とそれにまつわる環境の中で失われた時間は大きい。それを調子が回復してきた今、取り戻そうとしているのかもしれない。

 

さて、自分が本の乱読によって積み重ねた雑学知識と得意な文章力で、何とかアメブロのランキングを上げてみたい。ひとまずの目標はそれ。次が水彩画で、残りが俳句。

 

どうなるかは未知数なのではあるが、どのような進展をそれぞれの分野の努力が示し始めるかにとても興味がある。まず直接的な反応が帰って来やすいアメブロのエッセイに力を入れてみようかな。

 

今後の人生の方向性がとても楽しみになってきた。