これまで松ちゃん筆頭に構築されてきたセンスor技術至上主義なお笑いムードを、問答無用で勢いそのままに破壊しに行ってんだわな。

 笑いを獲るに特化した能力は、松ちゃんや宮迫やその界隈の面々の方が粗品よりもその場の話題との整合性も高く職人的である。
 だがそれに対して更なる緻密さで挑むよりも、そこに岩石を放るかのような大胆さ無頼さに依って芸人らに固まった価値観・概念を方々に散らばらせ其々を個にして、笑い技術に限らずタレント・公人としての資質や素養をも引き合いに出してぶちのめす。さんま師匠も思わず首を傾げるほど何とも策を選ばぬ暴君である。

 これが可能になったのも、YouTubeや配信などの媒体が確立し、メディアとの連携が迅速化した表れであろう。
 テレビのやうにそれぞれのタレントに尺が設けられて、表面しか映らないものに対して側面や背面が伝わるSNSの特性が粗品を覆い分厚くして、テレビでも変わらず暴走する事でファンに説得力を与えているのだ。
 番組の進行を乱す故、職人タレント、職人スタッフ達からは毛嫌いされるだろうが、そこが正に粗品の対戦相手という構図にもなる。

 俺個人的には、タレントの裏側なんてどんな人間だろうと関係なくて、如何に上手く回してくれるか笑わせてくれるか締めてくれるか良いコメントしてくれるかの打率が高ければ、それが実力だし人間力(タレント力)だし納得するのだが、やっぱり時代がそれだけでは納得しなくなった。もっとその人間の内側を追求しないと面白くないっ。ってなってってるんだろう。

 テレビは面白くなくなった。って言いながら、結局は映像にそこまで求めていて、そのアイドリングをSNSでさせて、テレビという全国ネットな大規模な媒体で見せてほしいのだろう。
 聞こえはいいが、要はタレントにもっと大恥をかいて欲しいと、そのリスクを背負って欲しいと思っているだけであろう。成功すりゃ持て囃すが、次の綱渡りをまた見る為の担ぎ上げだ。識者が言っていたが、要は生贄に近い。そんな見方は冷めすぎかもしれないが。

 粗品はそういった凝り固まったものを正しいか否かではなく、破壊しにいっている。それが許されている。好きか嫌いか上質か低俗か快か不快かではなく、それはつまり、時代の寵児所以なのだ。