わーい2年ぶりのブログ記事だ(爆笑)最近はツイッターでも呟いてませんが、エグゼイドが終わったので感想総括をば。もちろんブログ記事になったのは長文だからですよ…ふせったーの長文機能もオーバーですよちくせう。
しかしなかなか楽しい1作でしたエグゼイド。まとめのポイントは、やはりゲームと医療と生命倫理。特に、ゲームキャラクターの扱いがコアになるポイントだと思っています。なお、後夜祭のスタッフサイドからの情報は入れずに書いてます、念のため(あと雑誌記事とかもマジメに読んでません><)。

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エグゼイドの企画成立の経緯については十分な知識が無いけど、ゲーム主体のライダーデザインを見ると、ゲーム要素を基幹にして医療要素を後付けで組み込んでいったことが察せられます。すると、「コンティニューとか残機とか、ゲームには生命倫理上アレな要素もあるけど、医療要素とコンフリクトしない?噛み合わなくならない?」というツッコミは当然出る訳ですよね。つまり、元々のコンセプトだったゲームという、キャラクターを何度でも再生可能なものとして扱う、歪な生命倫理をもったものと見なされるものが、「たった一つの命」という通常の生命倫理の下そうした命を救い守ろうとする医療要素に、押し流されて空中分解してしまう可能性は十分あったと思うのです(だってどっちの要素がPTA的に子どもたちに勧めやすいかなんて一目瞭然じゃないですか)。

そこを、当初のエグゼイドは「敵はあくまでウイルスであり、ライダーたちはウイルスを患者から切除して倒すことで救命するドクターである」というスタイルで、主人公たちの目線を医療に置き/ゲームはあくまでモチーフに留めることで、作品を成り立たせていました。…というより、当初のエグゼイドが何をしてたかというと、エグゼイド2Pカラーのゲンムは誰だ?というミステリーを縦軸に張りつつ、俺に切れないものはない飛彩先生やらガシャットをよこせ大我先生やらくじょうきりやくん6さいやらの濃い味のライダーを矢継ぎ早に出してガシャット取り合いライダーバトルさせ、そのライダーたちもポンポンとレベルアップさせて、12月クリスマス商戦までのライダー&ガシャット&ゲーマ大売り出しをこなそうとしていた訳です。言うなればここまでの展開は、鎧武で言うところのインベスゲーム編なのであって、実際にゲンムの正体が檀黎斗とわかり九条貴利矢が退場することで、ドクターたちは永夢の変身できる理由と檀黎斗の目的という深度の深いミステリーに挑む(シフトする)ことになった。そこで現れたのが、ゲンムX・デンジャラスゾンビです。

九条貴利矢が「たった一つの命」を散らして退場した一方で、檀黎斗が死のデータを採取するという触れ込みで致命傷を負いつつ完成させたのがデンジャラスゾンビガシャットとゲンムXでした。「ゾンビのように不死身なためダメージが通らない」というと、この段階で怪人側に立ったライダーとしてもゲームモチーフとしても違和感は無いのですが、そもそも人間のはずの檀黎斗がガシャットの力を借りてとはいえ不死身同然になるというのは、そのこと自体が「たった一つの命」という生命倫理へのおびやかしであったと、今なら言えるでしょう。ゲームエリア生成など、ガシャットはゲームモチーフの象徴でありながら、その実、現実をも侵食する強力な代物でもあった訳ですが、デンジャラスゾンビは人間存在の在り方にすら侵食しようとしていた訳です。そしてその延長線上にあったのが、黎斗の最終目的であった、ゲーム・仮面ライダークロニクルでした。

スマホRPGとなんたらGOとARを掛け合わせたようなゲーム・仮面ライダークロニクルは、プレイヤーの一度のゲームオーバーが即ゲーム病発病の結果としての消滅に至るという、ゲーム側に「たった一つの命」という生命倫理を持ち込んだものでした。そして同時に、消滅した人間をデータとして保存し再生可能なものとするという点で、人間世界側に「再生可能な命」というゲーム的な生命倫理を持ち込み、生物の生と死の境界線を、生命の定義そのものを、曖昧なものとする代物でした。事実、パラドに消滅させられた黎斗も復活、ゲームオーバーとなった貴利矢も再生され、ゲーム病によって消滅した恋人・小姫の再生の可能性を見た飛彩は、その為に一度はドクターとしての立場を放棄することになります。無論ドクター/医療は「たった一つの命」という生命倫理の下に動いていますから、畢竟ライダーたちはプレイヤーを消滅させるライダークロニクルの阻止に向けて動かざるを得ない。しかし同時に、クロニクルを阻止することで、ゲーム病により消滅した人々の救命可能性が失われてしまう、というジレンマを抱えることとなります。
ここで既に、当初のエグゼイドが持っていた「敵はあくまでウイルスであり、ライダーたちはウイルスを患者から切除して倒すことで救命するドクターである」というスタイルが崩れかけていると言えるでしょう。そしてそれは、ゲーム・仮面ライダークロニクルの運営を至上とし、ポーズ・リセットなどゲーム的な手段を用いてドクターたちを無力化させようとする、人間・檀正宗/仮面ライダークロノスが、ドクターとバグスターらの共通の敵となることで、完全に崩壊することとなります。

ここで生命倫理上ややこしいのは、徐々に明かされていった設定として、ライダークロニクルによって再生された人間はバグスターとなってしまう、という点でした。人間が元どおりに再生される訳ではない、という点ではライダークロニクルの欠点として糾弾できるポイントではあるのですが、そのようにライダークロニクルの再生を否定すると、更に「では(バグスターのような)データ存在に生命はあるのか?生命として認めて良いのか?否定できるのか?」という問いが、新たに起き上がってしまいます。エグゼイドは定義を失いかけている人間の生命倫理の在り方だけでなく、バグスターを含むデータ存在の生命倫理をも取り扱う必要が出てきてしまっていたのです。
エグゼイドは解答されてしかるべきその問いを、クロニクルが動き出した後半戦の中で正面から触れることは避けていました(小姫を再生するかどうかはそのダイレクトな解答になり得ましたが、飛彩は小姫の再生よりドクターとしての使命を優先し大我を救命するという形で、間接的に小姫の再生を放棄した形になっていました)。一方でエグゼイドのややこしくも恐ろしい点は、この問いに対応する要素を当初から組み込んでいた点です。それこそが、バグスター側のライダーであるパラドクスとポッピーです。

ゲーム筐体に出入りできるポッピーは、貴利矢退場直前にバグスターであることが明かされましたが、彼女は良性のバグスターとされ、後に出現したイレギュラーバグスターであるバガモンと合わせて、バグスターと人間との共存の可能性を表すキャラクターでした。しかし一方で、ライダークロニクル始動と前後し、データ存在であるバグスターがゲームキャラクター同様に再生可能であること、同じくバグスターであるポッピーの自我も上書き可能であることが明かされます。ライダークロニクルのナビゲーターと化したポッピーはライダーたちに襲いかかりますが、永夢の努力で自我を、心を取り戻すことに成功し、以降は自らの意思で、ドクターたちと共に人々を救命すべく奔走します。バグスターは、再生可能な生命を持つデータ存在ではあるが、ただのデータではなく、人間同様心を持つ存在であることの、ポジティブな象徴がポッピーでした。
他方、ネガティヴな象徴としての心持つバグスターがパラドでした。幼い頃ゲーム相手を欲した永夢の、イマジナリーフレンドがバグスターとなったかのようなパラドは、ライダーや宿主である永夢とのゲームのような戦いに心躍らせる一方、バグスターをゲームの駒のように扱う黎斗には牙を剥き、ライダークロニクルもバグスターが人間を攻略するゲームとして扱うなど、プレイヤーやゲームシステム・運営側の意図に操られるゲームキャラクターとしてのバグスターの扱いに反抗する意思を持っていました。また、ライダークロニクルで消滅させられる人々の命を軽視する点などは、自身らバグスターの再生可能な命を以って人間に優位性を示しているようにも見え、心・意思を持つが故に、ゲーム的な生命・存在である自身らの存在に歪んだ優越感とコンプレックスを持つキャラクターとして、パラドは描かれていたように思います。

エグゼイド終盤の軸の一つは、そんなバグスターたちが自らの身の振り方・命の使い方をどうするか、という点でもありました。永夢に「たった一つの命」の重さを叩き込まれたパラドは、自らの犯した重い罪の贖罪を考えるようになります。そして、人の消滅と引き換えに生まれた自身の在り方を考えていたポッピーとともに、ゲムデウスウイルスからの人々の救命のために、その存在を消滅させました。また、唯一ライダー形態を持たないレギュラー怪人として、一度の消滅から再生しつつ終盤まで生き残ったグラファイトは、戦いに殉じるゲームキャラクターとしての自身の在り方を貫き通し、因縁の飛彩・大我との戦いに果てました。人間からバグスターとなった貴利矢と黎斗もまた、自らの消滅を賭けて体内での抗体作成に挑み、ゲムデウスウイルスを治療するためのドクターガシャットを完成させました。
彼らは再生可能な命を持ちながら、たった一つの命を持つ人間同様に、その命の重さを描かれようとしていました。その時、彼らのようなバグスターは、当初のエグゼイドが描いていたような駆除対象のウイルスでも、何度も再生され撃破対象とされるゲームキャラクターでもなく、一顧の命の重みを持つ存在として扱われていたように思います。
だからこそ、最終話、ようやく真っ正面から「データ存在を生命として認めるのか」と問われた時に、何の躊躇もなく「そうです」と言えたのだと思うのです。人間存在や生命倫理の再定義をし何かを否定するのではなく、再生可能な存在であるデータ存在も、たった一つの命を持つ人間と同じように肯定しようとした、それ故の結論であるように思うのです。

エグゼイドが描きたかったのは、「たった一つの命」を守ろうとする医療/ドクターの在り方の大切さを描きながら、同時に、再生可能なデータ上の存在であるゲームキャラクターたちを否定せず、彼らもまた大切な存在なのだと描き切ることだったのではないか、と思います。最初の企画意図の話に戻れば、医療的な生命倫理の目線から、当初のコンセプトであったゲームの要素を否定するような形には、したくなかったのではないでしょうか。
そのコアとなるポジションが、ドクターでありかつゲーマーでもある主人公・永夢の目線だったのだと思います。ドクターとして「たった一つの命」の重さを理解する永夢は、一方でゲームを楽しみその楽しさに支えられてきたが故に、バグスター/ゲームキャラクターであるポッピーやパラドを軽んじることはしませんでした。むしろ、彼らがデータ存在であること・再生可能な存在であることを理解した上で、その存在を尊重するからこそ、彼らとは違う人間の命の在り方を、パラドに伝えられたのではないかと思っています。

無論、矛盾じみたところもあります。バグスターと化した新檀黎斗は99の残りライフを糧にコンティニューを繰り返しました(言うまでもなく、残機とコンティニューというゲーム要素を織り込んだ描写)が、あまつさえ永夢はその新檀黎斗のコンティニューを前提とした戦術さえ組んでいました。ゲーマー目線の、バグスターとしての新檀黎斗の在り方を理解したが故の戦法と捉えることはできると思いますが、同時に、新檀黎斗の命が軽んじられていた、と見られても、仕方がないようにも思います。
ただ、一つ提起しておきたいのは、そのように見ている時、我々の目線は、当然のように医療的な、「たった一つの命」を根幹とした目線で作品を見ているのではないか、という点です。そのように、我々が当然としている目線も一つの色眼鏡がかかっている状態だと考えた時、少なくともエグゼイドの世界では、こぼれ落ちてしまうものがあることを、例えば小姫の再生の是非が示していたと思うのです。
永夢は最終話、小姫はもちろん、ライダークロニクル開始以前まで含めたゲーム病による消滅者、更には再生した黎斗と貴利矢まで、ゲーム病により一度消滅した全ての人間を救命対象とし、彼らを(肉体の)消滅状態という病状にある、未だ生きている存在として、救命の努力を続けていくことを表明しました。プロトガシャットに保存されたデータのみの存在となった人々の生命も、ポッピーやパラドらバグスターの生命も尊重しつつ、その上で人間の「たった一つの命」という在り方を取り戻そうとするあの表明は、詭弁じみたロジックであることは確かです。ですが、それでも、余さず全ての存在を肯定し救おうとするその在り方は、一つの目線・価値観に依らず、多様な存在の在り方を肯定しようとしている点で、今日の子どもたちにも必要な目線を、エグゼイドは示していたとも思うのです。

さて最後に、映画トゥルーエンディングに触れておきます。TV本編のエグゼイドでは、ライダークロニクルによって曖昧にされた生命倫理について、バグスターやデータ存在の命を肯定することで、新たな生命倫理の構築の兆しを見せて終わった形になります。しかし、それはともすれば、医療が守るべき「たった一つの命」の大切さを、否定していると受け取られかねません。それに対するカウンターとして、ゲーム要素寄りのエンディングであったTV本編に対して、「たった一つの命」という医療要素に寄せた映画をトゥルーのエンディングと呼ぶことで、「(バグスターやデータ存在の命や在り方も肯定はするけど)やっぱり一つの今生きている命を大切にしなくちゃね」という、(視聴者側の色眼鏡にも配慮した)わかりやすい形でエグゼイドを締める形にした、のではないでしょうか。

映画初見後のまとめ(https://mobile.twitter.com/the_final_R_CR3/status/894160483506282496)では、ゲーム要素と医療要素の命の取り扱いの融合は難しいと考えていましたが、TV本編は見事な着地を見せてくれました(今となっては恥ずかしさもあるまとめでしたね汗)。この後、エグゼイドはファイナルステージや冬映画に加えてOVトリロジーまで展開してくれるとのこと、檀父子の結末など気になるフラグも残っていますので、今後の展開を楽しみに待ちたいと思います(小説もあるよね、きっと…!)。