久々の更新…って毎度のことですみません><
前回のヱヴァ妄想考察も大概イタイタしかったですが、今回もイタイタしいかもしれません…思い入れってコワイ(ォィ
小説版平成仮面ライダーシリーズ、諸事情にてアギト・ディケイド・響鬼は未読ですが、クウガがついに発刊ということで、買って読んでしまいました^^; 
読み終えて、普段の私は「マイベストライダーは555・カブト・キバ(別格でRX)」とか言ってしまうような人なのですが、やはりクウガに関しても、平成ライダーの祖として、人並み以上の思い入れがあるのだなぁ…と再認識した次第です。
そんな私の、小説仮面ライダークウガの感想文になります。
気がつくと平成ライダー全体の話になってしまっているのは、平常運転ですのでご容赦ください(ェ



前置き(として、TV版クウガの私的評価について)

・まず、立場を明確にしておきたい。
私はクウガで特撮に出戻った人間である。
高校時代のことであるが、クウガの作風に心奪われ、中学時代に離れてしまった平成ウルトラを数年越しで見直したような人間である。
そしてアギトを楽しみ、555にどハマりした人間である(龍騎は諸事情にて後追い、555初期も同様)。
私の今に至る特撮観の中核をなす作品の一つがクウガと言っていい。

・そんな私の観点からは、クウガという作品は、90年代の平成ウルトラおよび平成ガメラの作風が2000年に行き着いた到達点であり、その後のアギト・龍騎・555以降へ連なる、2000年代を駆けた平成ライダーの、作風の根源となる作品という認識である。
しかしながら、これらの作品に対して、クウガが特別に神聖視されるような立場の作品であるとは、全く思わない。
もちろん、「クウガ」という作品の完成度は、数多の特撮作品を通じても、群を抜いて高いといって良いと思う。
だが、先の評価をあえて批判的に換言すれば、評価の高いクウガの作風は、一面においては平成ウルトラ・平成ガメラの延長線上のものに過ぎず、また別の一面においては、批判の多い龍騎・555あたりの作風の方向性を決定付けたのがクウガであるとも、私は考えているのだ。

・この辺りを一言で表すなら、「ヒーローの称号と人間性の強調と齟齬」とでも言えるだろうか。
つまり、人間の理想を体現するヒーローに、我々は、まさに理想的な振る舞いを求めてしまう。
しかしながらその振る舞いは、理想的であるがゆえに、現実的に実現しようとすることは極めて困難なものだ。
そのことが、「ヒーローの称号」が付与する高邁な理想と著しい困難が、作品の現実性(リアリティの強度)の高度化と、それに伴って登場人物たちの人間性が活写されることで、顕在化してしまった、その顕著な例がクウガであった、と考えているのである。
(平成ガメラ・平成ウルトラは、それぞれ作品の現実性の高度化・登場人物の人間性の活写において、90年代の特撮作品を牽引した作品と認識している。)

・もっとわかりやすく言ってしまおう。
「ヒーローだって人間なんだ」ということだ。
我々の理想を託されたヒーローは、その理想的な有り様を生きる為に、一個人としての人間的な苦しみも涙も全て、拳を血で汚した戦士の仮面の下に隠さねばならないのである。
五代雄介がそうであったように。

・そして、「ヒーローだって人間」であるならば、戦士の仮面の下に隠れている人間性が、苦しみや涙だけであるとは限らない。
五代が押し殺した怒りや憎悪、あるいは、五代自身は露骨に触れることのなかった(しかし「クウガ」という作品の端々で描かれてきた)人間の弱さ、我執、欲望、願い、狂気…。
そうした人間性のマイナス面からも逃げなかった「クウガ」を受けて、かねてより「ヒーローだって人間なんだ」と言い続けていた井上敏樹氏と白倉伸一郎氏が、後のアギト・龍騎・555にて、「ヒーローの称号」を持つ者たちを通じて人間性のマイナス面を真正面から描いたというのは、私には必然としか思えないのである。

・そして、そうした「人間であるヒーロー」の孤独を払うように、アギト以降のライダーでは複数の仮面ライダーが時にぶつかり(しかしもちろん)時に共闘する。
「ヒーロー」という同じ立場・同じ力・同じ苦しみを背負って。
それは、吹雪の中究極の闇と等しくなり、泣きながら、それでも独り戦うしかなかった人間・五代雄介のヒーローとしての孤独を、救い上げる為のものであったように、私には思えてならないのだ。


・さて、小説仮面ライダークウガである(以下、小説版とする)。
本編終了から13年、切望された映画化の道も閉ざされた果て、ようやく現れた新たな「クウガ」である。
結論から言えば、TV版メインライターの荒川稔久氏の手により描き出された小説版は、13年前のTV版クウガの雰囲気を極めて忠実に保持し、その上で13年の年月と現代の(社会の)有り様を十二分にフィードバックした、13年後のクウガとしてまさに決定版というべき内容となっている。
最終回放映以降のクウガに対する評価やアギト以降の平成ライダーを意識したような描写・叙述も多々あり、非常に充実した作品となっている一方、「クウガ」であることを維持するが故の、限界のようなものも感じられる作品でもある。
以下、作品内容に仔細に触れながら、各章ごと順を追って論じていきたい。
未読の方は是非、まずは小説版クウガの作品世界を十分に堪能して頂いた上で、この先の駄文をご覧頂きたい。






---------以下、ネタバレ多数につき、未読の方は回避推奨--------







第一章 空白

…物語は、五代雄介の相棒・一条薫が、13年前の未確認生命体(グロンギ族)との死闘を共にした警察スタッフの結婚式に参列するところから始まる。
旧交を暖める参列者の面々だったが、そこには空席が一つ…
未だ帰らぬ五代を思い、一条はポレポレを訪れ、おやっさん・みのりと触れ合う中、かつての五代との戦いの日々を回顧する。


・序章であるが、ここまでで既に、13年前と変わらない、しかし年月相応の変遷を経た登場人物たちと、彼らの経緯から一条の日常、(伏線となる)作品世界の最近の流行に至るまで、微に入り細に入り設定され叙述される様々な事象が、特撮ヒーロー作品でありながら徹底して作り込まれた、それ故に現実味を感じさせる、あの「クウガ」の雰囲気を存分に堪能させてくれる。
そんな世界だからこそ、一条の誠実さ・実直さや五代の優しさ・強さが際立つのだ。
ここまでで既に、小説版は13年後の現在にかつての「クウガ」の世界を再現することに成功していると言っていい。



第二章 幻影

…式場にて杉田刑事と約束を交わしていた一条は、後日杉田と酒を酌み交わす中、巧妙に行われたらしき未確認じみた連続事件を知る。
模倣犯とは思えない奇怪さに、捜査本部を立ち上げる杉田へ協力を約束する一条。
出来たての捜査本部で一条を迎えたのは、13年前に未確認に父を奪われ、一条と五代を通じて警察の無力さと裏腹の努力、そしてその職務の苛烈さを目の当たりにした少女・夏目実加だった。
有能な刑事として成長した実加とともに、未確認に関わる手がかりを求めて捜査を進める一条は、やがて彼女から第2号=白いクウガの再来を知らされる。


・TV版以上の複雑さと仔細さで描かれる未確認の犯行の法則性とそれを解読しようとする一条らの捜査。
そんな中、ある秘密を持ちながら一条に想いを寄せる実加と、それに気付けない一条の朴念仁さと五代・クウガへの複雑な想いは、最終盤で一つの悲劇に到達することになる。

・一条が女性から距離を取る理由は家族の悲劇にあったが、実父を失ったトラウマから未確認に対しては暴走しがちな実加、あるいは後述の伽部凛母子を含め、TV版クウガの重奏低音の一つであった「家族」というテーマにも(悲劇的ではあるが)目が配られているのがまた細かい。
(TV版でそのテーマをメインで担っていた榎田母子の扱いは明るくネタ的であるのだが。)



第三章 天飛(アマダム)

…椿や桜子からも未確認の復活とクウガの再来を示唆する情報を得、一条は五代との再会を望みながらも彼を戦わせたくないという苦悩を深めていく。
一方実加の努力は事件の犯人=未確認を大人気メイドアイドルの伽部凛に絞らせていた。
厳しい追求に対しても極めて人間らしく振る舞う彼女に戸惑う一条たち。
怪人にならない未確認には発砲を許可できない改正未確認対策法が一条らの壁となる中、コンサート会場での殺戮のゲゲルを極秘裏に目論む凛に、潜入した実加が肉薄する。
正体を晒した凛=クラゲ種怪人に危機に陥る実加の元へ駆けつけた一条は、崩落するコンサート会場の中で白いクウガを目撃する。


・「あれ嘘だろ」
椿は、親友の一条が究極の戦いに向かった五代の顛末について皆に語った内容を、そう断じた。
TV版クウガ最終回、笑顔を取り戻すため旅立った五代の、南国(キューバ)の青空の下のジャグリングと笑顔は、一条の夢・願いでしかなかったのだ。
この描写には、後付でTV版の余韻を壊した、といった非難も(容易に)予想し得るが、五代が死ぬ予定もあったというスタッフの言や、視聴者の一つの解釈として同様の描写を知っていた私としては、ここで五代を一条にとっても生死不明であるとしたことは、むしろその後に待つだろう五代の再来を正面から誤魔化さずに描こうという態度を感じ、読みながら返って安心し期待したことを付記しておく。

・目の前で握手を交わした凛を、一時はグロンギであると思えない一条。
もちろんそれは演技であり様々な状況証拠から一条は凛をグロンギと確信するのだが、作中触れられるように、小説版でのグロンギはTV版から更に人間に近づいている。
元々TV版ではアークルのアマダムを得てクウガとなった五代の末路が、同様の神経組織とベルトを持つグロンギ=戦うためだけの生物兵器と等しくなるとされていたが、終盤にてリント=一条ら人間もグロンギと等しくなったと嘯れるなど、そもそもグロンギとリント=怪人と人間の境界を曖昧にしてきたのも「クウガ」であった。
アギト・龍騎・555にて先鋭化されたこの観点が、13年の年月を経て、後段の伽部凛の母親の狂気により「クウガ」世界にも持ち込まれる。



第四章 強敵

…意識を失った一条は、五代との再会を夢に見る。
目覚めた一条に、クウガは消えていたと話す実加は、クウガの戦いが孕む暴力に愕然としていた。
偶然に、改正未確認対策法を推進した政治家・郷原と邂逅した一条を待っていたのは、政治的圧力による捜査本部の解散であった。
なおも捜査を続け凛の母親を追う一条と実加は、生きていたバラのタトゥの女に遭遇する。
残るゲームのプレイヤーは一人。
バラのタトゥの女の告げる言葉をよそに、改めて凛の母親を追う二人。
娘に擬態した怪人にかどわかされ精神崩壊していた凛の母親から、最後の手がかりとなる怪人のスマートフォンを得た一条と実加は、榎田に解析を依頼、郷原が凛以上の大量殺戮を目論むグロンギであることを知る。


・私は白いクウガの正体を事前に知ってしまっていた。
故に知らない読者と同じ感覚は持ち得ず、これは素直に残念に思う。
特に一条と五代の再会という夢やその後の実加の態度と一条の反応などは、このネタバレの有無によって感覚は大きく違っていただろう。
しかしながら、ここでの一条と五代の再会が夢であった時点で、まだ五代は帰ってきていないことを悟った読者は、中にはいたのではないだろうか。
目撃したものを語るというには、実加の発言はあまりに当事者のそれに感じるのだ(もちろんネタバレしていたからということもあるが)。

・小説版ではかなりの際どい描写がいくつかある。
内二つは撃破され爆撒したグロンギの遺骸(人間態に戻った生首と下半身)であるが、もう一つの、地中から殺した実の娘の頭蓋骨を掘り出し頬擦りするかと思えば錯乱しその遺骨を踏み躙る凛の母親の狂気は、彼女が実の娘を撲殺するに至るまでの描写と合わせ、井上氏の小説版555以上に毒の強い描写であり、TVでは放送コード上極めて難しい、小説版だからこそ描けた描写であったと言わざるを得ない。
昨今の現実の猟奇殺人事件や親殺し・子殺し事件を容易に連想させるこの下りは、TV版から13年の年月を経て、まさにグロンギと等しくなった人間の有り様、その人間性のマイナス面を、クウガ世界の実際として突きつける、非常に痛絶なシーンと言える。
(話は逸れるが、このクラゲ種怪人の擬態・入れ替わりの描写は、ワームの擬態をクウガの世界観で描き込んだようにも感じられ、カブトファンでもある私には非常に興味深いものであった。)



第五章 青空

…郷原のゲゲルは、彼の政治的手解きで認可された健康食品・リオネルに含まれた毒を160万人に仕込んだ後、テレパシーにより有効化させ一斉に命を奪う、と言うものだった。
目標人数まであと少し…その意思一つでゲゲルのスイッチを入れられる郷原を殺しなんとかゲゲルを阻止せんと奔走する一同。
一条は五代には何もさせず自分たち警察の力だけで解決しようと決意を強める。
だが、一条らの追及を挑発・嘲弄し、海外へ逃れんとする郷原に、焦る一同。
独り思い詰めていた実加は、その晩雨の中一条に縋り付くが、実直な一条は突然のその想いに応えられず、実加は雨の町に消えてしまう。
桜子から告げられる真実…新たな未確認を封じていたもう一つのアークル、不完全なそれを、実加は手にしていたのだ。
自らの無力を詰る一条。
郷原の挑発に乗り、怒りに任せてクウガの力を振るってしまった実加は、凄まじき戦士となり暴走を始めてしまう。
ライオン種怪人となった郷原もろとも雷で人々を灼き尽くさんとする黒目の実加クウガ。
万事休すと思えたその時、蘇ったゴウラムと共に、赤のクウガが現れる!
帰参した五代は、実加を抱き止めて説得、その猛威を押さえ込むと、一条たちから借りたビートチェイサー3000とゴウラムで、ライオン種怪人=郷原に立ち向かう。
海ほたるを決戦の場に選んだ五代をヘリで追う一条。
しかし、ライオン種怪人はクウガの封印エネルギーを鬣から放出してしまう能力を持っていた。
人間態の郷原を殴殺せねば倒せない…躊躇し、しかし決意した五代に代わり、一条のライフルが郷原の上半身を爆撒せしめる。
そして、ヘリから落ちた一条を救うクウガ。
…再会した五代に、また戦わせてしまった無念を禁じえない一条。
独り去ろうとする五代に、それでも一条は思いの丈を叫ぶ。
その想いに、五代はいつものサムズアップで応えるのだった。


・怒涛のクライマックス、であるが、上述したような濃密な内容に反し、ページ数はそう多くなく、物足りなさを感じたのが正直なところだ。
特に、不完全ながらアルティメットフォーム・ダークアイズと化した実加クウガの(TV版では扱われなかった)物質変換・武装化能力を駆使したスペクタクルな攻撃(雷撃ビーム砲塔と化す東京タワー!)など、一連のクウガVSグロンギのバトルシーンは、それまでの刑事ドラマ的な描写に比べて濃度が薄く感じられる。
小説としての向き不向きとも思うが、そうであるならば故にこそ、映像化で説得力を持ったアクションシーンを見たいところだ。
(一条が郷原と対峙する実加の元へ駆けつけるシーンのiPadの件など、映像化を意識しているシーンが多々あるのも、期待を煽らせてくれる。)


・バラのタトゥの女に黒の金のクウガを超えるとまで言われたライオン種怪人=郷原。
戦闘能力・特殊能力共に難敵で、なおかつ政治権力という恐るべき力を持っていたものの、ゲゲルを達成可能な状況でありながら一条らを嘲弄・挑発した挙句にクウガに追い詰められ一条に撃破されるという、よくある(陳腐な)悪役の「慢心ゆえの敗北」を演じてしまっていた。
伽部凛ともども極めて人間に近づき人間社会に食い込んだグロンギであった郷原は、ある意味人間の愚かさにも近づいてしまったようにすら感じられる。

・思えば本作のグロンギは、バラのタトゥの女も含め、かのグロンギ語を喋らない。
故にその言動は、かつての異様で不可解な未確認生命体のそれよりも、その辺りの普通の悪役怪人のそれに近いようにも感じられる。
TV版では全く不可解であったグロンギの殺戮ゲーム文化にも、「誇りを持たない今のリントを殺しても満足できず、手酷い裏切りの末に絶望に落として殺す」というわかりやすいモチベーションが与えられており、凛の母親をホラー映画の怪物のようにかどわかしたクラゲ種怪人含め、13年の年月を経たグロンギは、その被害想定や対処のし難さといった脅威こそ現代的なアップデートによりいや増しているものの、その恐ろしさの根源であった不可解さ・不気味さは、人間に近づき過ぎて変質・劣化してしまった、と言っても良いと思うが、いかがだろうか。


・さて、明かされた白いクウガの正体…「もう一人のクウガ」という発想は、ワンアンドロンリーのヒーロー像を描き切った「クウガ」であればこそ、未読の読者の多くが辿り着きようのない回答だったのではないだろうか。
私もその情報を知ったときは、「クウガでそれをやるのか!しかも女性ライダーで!」と天を仰いだ。
しかし、実際に読んでみるとその活躍はほとんど無く、クラゲ種怪人の撃破は直接的には描かれず、ライオン種怪人との戦いも描写があっさりな上に暴走状態と、あまり良いところはなかった。

・そしてそれ以上に、端々で描かれていた実加の苦悩の、最終的な行き所がなかったのも落ち着かない。
もちろん五代の説得は暴走した実加を落ち着けてはいるのだが、物語はそこから、五代の戦いと一条との別離にフォーカスし、実加はそのまま物語からフェードアウトしてしまう。
五代の言葉に対する実加の返答も、実加の中のアマダムがどうなってしまったかも、描かれないまま終わってしまう。
これは非常にもったいないことだと思う。

・というのも、前書きに記した通り、複数のヒーローの存在こそ、アギト以降の平成ライダーがクウガ=五代の孤独に対して示した答えであるのに対し、実加クウガはそれに呼応する、まさに「もう一人のクウガ」として、五代の痛みや苦しみを分かち合える存在であったはずだからだ。
なぜなら、どれだけ一条たちが神経断裂弾を持って力の面でグロンギやクウガと等しくなろうとも、五代の拳の感触と痛みを、同じように実感することはできないからだ。

・いや、もちろんそれは、五代が暴走した実加に言ったように(「君がやることはこれじゃない」という言い回しが秀逸である)、本来は存在してはいけない種類の実感と存在の共有である。
(漫画「仮面ライダーSpirits」の読者の方は、同作で仮面ライダー1号=本郷猛が、2号=一文字隼人を仲間としたこと、V3以降のライダーをも同じ道に引きずり込んでしまったことを後悔していたシーンを思い出してみて欲しい。)
そもそも最終回で五代の家族であるみのりに「第四号=クウガは本当はいない方がいい」と言い切らせたのがTV版クウガである。
例えば実加が五代に代わって戦うことも、五代と同じ犠牲を強いるだけのことでしかない。

・しかし、それでもなお、だからこそ、五代の拳の感触を同じ立場で感じえた実加こそが、一条とは別の意味で、五代の理解者たり得たのではないだろうか。
共に戦うことがあるいは間違いであっても、例えばラストシーンの一条のように、五代に何かを伝えることができたのではないだろうか。
アギト以降の平成ライダーが背負ってきた課題を、小説版は実加クウガを登場させることで取り込もうとしながら、彼女を作品的に犠牲にすることで、それを消化・昇華することを放棄していると、私には思えるのだ。

・実加クウガが活躍できずフェードアウトしなければならない理由は明白である。
ヒーローとしての五代雄介=クウガの活躍を描くためには、実加クウガは不完全に戦い、五代クウガを立てなければならない。
それは一条の後悔そのままの、(ヒーローである)五代=クウガに戦わせるしかなかったという、ヒーロー作品としての限界である。
いや、ヒーロー作品としての、というのは正確ではない。
五代雄介=クウガという、たった独りの「ヒーローの称号」を持つ者、その孤独の犠牲に頼るしかないのが、作品としての「クウガ」なのだ。
例えそれが、「誰かのための自己犠牲」でも気高い「正義」感でもなく、五代自身の、正義云々以前の想い(あるいは願い)故に選んだ道であったとしてもだ。
(五代がそう願うから良いのであれば、あれほどまでに一条が苦悩する必要は無い。
誰の願いであるかなどとは無関係に、しかし五代の犠牲は厳然として存在するのである。)


・平成仮面ライダーシリーズは、アギト・龍騎・555を通じて「ヒーローの称号」を持つ者を複数化し多くの人間に開かれたフラットな者にすることで、ヒーローという存在を単なる理想像ではなく、人間のマイナス面もプラス面も抱えたより立体的な存在に変化せしめた。
しかし剣以降では、改めて人間の理想を託す存在としてのヒーローの復権が目指されることになる。
そして平成ライダーシリーズは、その理想像としての「ヒーローの称号」の重みを、あるいはその特別な称号を持たない、しかしその魂において同格な、周囲の仲間たちと共に背負うことでフラットにするという、別の答えを見出していく。
天の道を往く特別な主人公が、非力だが「歩む道が別でも共に立って歩んでいける」友達とダブルライダーとして戦ったカブト。
体を一にする人間と怪人の共同としてのヒーローであった電王。
あるいは半人前だが魂の矜恃を持つ青年と異能力を持つ超人が一つとなってヒーローとなるW。
そしてヒーローの自己犠牲を全否定し仲間と手を取って生きることの大切さを描いたオーズ。
少年少女が一丸となってヒーローとして戦ったフォーゼ…。
ヒーロー含め、一人一人は決して特別でも理想的でもない登場人物たちが、その絆と共同を持って理想を描き出す。
それが現在の平成ライダーシリーズが到達した「ヒーローの称号」の昇華であると、私は考えている。

・そのような観点において、小説仮面ライダークウガはどうだっただろうか。
その最後においてこそ特別なヒーロー・五代の活躍と犠牲は描かれてしまったが、そもそも登場人物たちの絆と共同はTV版クウガにおいても描かれていた要素である。
五代の孤独と犠牲は厳然として存在しながらも、五代一人で戦い抜けたわけではないこともまた明白である。
その上でなお、五代のような理想的なヒーローの犠牲が、本当はなければ良いという、より高邁な理想を望んだのがTV版クウガ最終回であった。
その意思が小説版でも続いていたことは、五代との再会を望みながらそれでも五代には何もさせずに未確認の再来を片付けたかった一条に如実に表われている。
そして一条らは、不完全なクウガとなった実加の力を得てではあるが、一度は五代には何もさせずに、クラゲ種怪人を追い詰め、撃破しているのである。

・そして、同じように追い詰め肉薄しながら、五代の助けなくば万事休すであったライオン種怪人との戦いでは、その最後のとどめにおいて、一条のライフルは五代の拳に殺人を遂げさせる事なく、一条はその役割りを引き受けることに成功しているのである。
白眉は、その直後ヘリから一条が落下するところにある。
描写されないものの、一条は五代=クウガに受け止められ命を救われている。
一条は、戦うことの罪を五代に代わって引き受けるのみならず、その身を投げ出し五代に助けさせることで、五代の掌を暴力を振るうための拳でなく、人を救うための手として、物語を終わらせているのである。

・「ヒーローの称号」を持つ者の孤独と犠牲を埋めるのは、それ以外の者たちがその重みを引き受けることに他ならない。
アギト・龍騎・555がヒーローである者たちの枠を広げることで成し、以降の平成ライダーでも様々な手で成そうとしてきたそれを、小説版クウガは非常にストレートな形で実現している。
生きていたバラのタトゥの女にかつて「グロンギと等しくなった」と評された一条は、今作で五代に代わってグロンギを撃ち殺すことで、五代の拳の感触は実感し得ないまでも、その役割を十二分に引き受け、五代=クウガと同格の存在となったのだと思う。
そんな一条の言葉だからこそ、五代は去り行きながらも、サムズアップを返すのだ。
(この背中越しのサムズアップは、TV版第4話ラストで、五代を認めた一条が、サムズアップするクウガに返した背中越しのサムズアップの、リフレインとも言えるだろう。)
「お前が笑顔を取り戻せるように、俺たちも生きる」。
五代雄介という理想と犠牲の元に成り立つ「クウガ」という作品が13年目にして顕した答えを、私たちも引き受けるべきではないだろうか。
ただただヒーローに私たちの理想を望むのではなく、私たちの望むその理想を、我々自身が生きる、生きようとする。
そうあろうとした時、きっと私たちの頭上には青空が広がり、その同じ青空の下で、五代はいつもの笑顔とサムズアップを、私たちに見せてくれるのではないだろうか。




以下、話し漏れた余談である。

・メイドなアイドルである伽部凛など、ヲタ度の高いネタには荒川氏の嗜好が如実に表われていて、いやはや高寺プロデューサーの下ではやりたくてもできなかったことだろうと、微妙な笑みを禁じ得ない。
ぷぇんたぐぉんの某非公認戦隊ネタの為だけにヲタにさせられてしまった冴君に合掌である。

・未確認対策法の下りでは九郎ヶ岳遺跡の住所が詳細に綴られているのだが、これが筆者の実家付近であり、激しく驚愕させられた事実は明記しておきたい。
…中学時代に登った山ん中に実はグロンギが…とか、荒川先生マジ勘弁してください><

・小説版最大の問題点として、一条の視点による一人称的な小説であることを挙げておきたい。
実際の筆致は三人称であり、一条の視点からブレる描写もあるのだが、基本的に本作は一条の目線から語られる作品である。
無論、媒体故の制限という如何ともし難いところで、逆に白いクウガのミスリードなどは一条視点故成立するようなものだろう。
ただ、結局のところ最終盤が慌ただしくなってしまっているのは、実加および五代が戦いの中心となる中、一条はそれを追う立場となってしまっているため、クライマックスの戦いを当事者的に描写することが出来なくなっているからではないだろうか。
これが、媒体の性質上三人称的な表現となる映像作品であれば、やはりクライマックスの描かれ方はまた違っていただろうし、実加の苦悩の昇華や、落ちた一条を救うクウガなど、一条の視点以外からこそ描き得る描写もあっただろうことを思うと、やはり本作の映像化を、出来れば大スクリーンで見たい…という、見果てぬ夢を抱いて、この長い感想文を終えることとしたい。