Kanjishima -3ページ目

Kanjishima

いろいろ考えたことを書きます。

信用のメカニズムについて
金融機関での信用、人間関係での信用、WEB検索での信用、等々、"信用"という言葉には、一見すると、あまり一貫性が無いように感じたりする。

「結局、"信用"って何なのさ?」的なノリで、書いて見たい。

1.結論
「"信用"というのは"期待に応えてくれそう指数"」
→早速結論から述べると、信用というのは、「期待に応えてくれそうか、期待に応えてくれなさそうか」を表したものになる。
たとえば、金融機関でいう信用は「お金を貸したたら、ちゃんと利子つけて返してくれそうか、否か」。
たとえば、人間関係なら「言っていることは、きちんと守ってくれるか、否か」とか「頼んだらちゃんと最後までやってくれるのか、否か」。
たとえば、WEB検索なら「検索した意図に沿ったサイトなのか、否か」。
ということになる。

2.原因
「(結論より)信用には、常にネットワークが関係する」
→はっきりいって、"信用"というものは、数ある候補の中から、優劣をつけるためにあるものである。
数ある取引先やWEBサイトの中から"信用"という基準に従って、優劣をつけて、信用の高いところを取引をする。
つまり、"信用"という言葉の前提として「数多くの候補」が存在するということになる。
さらに"信用"というのは、ただ「数多くの候補」が存在すれば出てくる考えでもない。
"信用"があがったり、下がったりするには、"信用"を判断するシステムが必要になる。
そのシステムが、ネットワークとなる。
人間関係での"信用"を決めるのは、そのコミュニティーのうわさなり、評価であり、
金融機関での"信用"は、金融機関の横のつながりの評価であり、
WEBサイトの"信用"は「リンク、被リンク関係」であったり、GOOGLE大先生のネットワークであったりする。

3.発展
「"信用"は思考を非常に単純化するとともに、それ自体が"知能"である」
→「数ある候補の中から、優劣をつけるためにあるもの」ということは、まぁ、言ってしまえば"知能"である。
"信用"というものは、特定のネットワーク上でやり取りされる評価である。
そのネットワーク自体が、"知能"的なシステムを構築しているのである。
そして、"信用"を利用するのは、結局は人間である。
"信用"をあてにして取引する人というのは、結局は「"信用"を評価したネットワークを信じて」取引している、
ということである。
つまり「本来自分がするべき判断をネットワークに任せてしまう」ことである。
これは思考が単純化するので、脳みそに使うエネルギーコストが低いので、大昔は生存に有利になる。
ということは、"信用"や評判をあてにして考えてばかりの人は、「表面的で自分で考えないやつ」という批判は、ある意味では正しい。
しかしながら、"信用"というものは、「ネットワークがフィルタリングした後の情報」であり、下手に自分で考えるより、正確であることも多い。

4.まとめ
「"信用"の背景には"社会(ネットワーク)"がある。"信用"は死ぬほど大事。」
→人間は万能の知能を持っているわけではないので、自分で考えるか、何かに頼る。
何かに頼る際に"信用"という評価基準は、非常に重要である。
「"信用"が無い」、ということは、実質的に「社会から見放されている」と同義だったりする。
怖いので、"信用"は大切である。




時代と知識の拡散性

大昔は、情報のネットークなんてものは、人づての口伝しかなかったわけで、しかも、その口伝も、方言とか、言語のちがいで
「伝言ゲームのめちゃくちゃひどいやつ」ってことになる。

そう、情報の伝達にかんして、大昔は、今から比べると、「とんでもねぇ、どえれぇ、ひでぇ、情報の劣化」があったと考えざるを得ない。

そうなると、「賢知」(=つまり、「グッドでクレバーな知識・ノウハウ」)というものは、非常に伝わりにくく、正確にものを伝えるためには、"じっくり時間をかけて"伝えるしかなかったということ。


つまり、そうなってくると「信頼の置ける情報伝達のシステム」というものは、限られてくる。

長い間生活をともにしている「親子関係による世襲」や「師匠と弟子の関係による徒弟制度」などが、高度に発展した技術体系を伝える最も信頼の置けるものだったであろうということが予想できる。

そして、そのような「長期的な共同生活」による情報の伝達が独占的な高度情報持つ集団を作り上げる。

つまり、ある名門は非常に長い期間に渡る「高度なシステム(賢知)」を一族間で正確に共有することによって、名門たりえたということ。

大昔の社会構造が、"名門"を重視し、"社会階級"を重視した理由の一つがここに見られる。

つまり、「高度な賢知」を共有できるのは「長期的な共同生活」を基盤にしたシェア(共有)のみであり、それを可能にするのは、多くの場合、"親族"であり、"同業者"であり、そして、それが拡大した"社会階層"だろうということ。

つまり「名門」=「グッドでクレバーな知識・ノウハウを持った集団」という図式がほぼほぼ成立していたために、「名門以外はほんと駄目だね」というステータス主義的な考えかたも、ある意味では合理的な考え方であった、と想像できる。

しかし、時代を進めて情報の伝達の正確さと、それに伴う「言語の方言化」の均一化による、相乗効果("方言"は「この方言は、こちらの方言に直すとこう言う意味、この言葉はこういう意味。そうなってくると、今までこう言う風に訳されていた言葉は、本当はこういう風な意味だったんだね、勘違いしてたね」ということがわかるので、余計に、正確に情報伝達できるようになるということ)が期待できる。

文字が民衆にまで広がるような時代になると、親子関係や、徒弟関係に依存しない、高度なシステムの情報伝達が可能になる。

つまり、「本で多くのことを学んだりすることによって必ずしも"人づて"でない情報によって高度な技術を身につけることができるようになる」という事例が多くなってくる。

"口伝や、背中を見せること"という人と長い間一緒にいることでしか伝わらなかった情報が、本や文章の登場によって、"長期的な共同生活"が必ずしも必要でなくなった、ということになる。

そして、「必ずしも賢知を持った人と長期間共同生活をしなくてすむ」ということになった時に起こるのは、「特定の集団による賢知の独占」の崩壊である。

一昔前までは"正確な情報体系"を得るためには"長期的な共同生活による伝達"が必要であったものが、"本や一般常識の一般化"によって、"正確な情報体系"も一般化していくことになる。


そして今やインターネットにより「あらゆる情報のシェア(共有)とリーク(漏出)によって、あらゆる情報は、あらゆる所に拡散されている」と言える。

つまり、個人がそのような情報を集めたいと思えば、その情報が手に入り、その道のプロ(かつての「高度な情報体系の専有していた集団」と同等の働きのもの)になることができる。

専有状態が解かれた"その道の高度な情報体系"は、"名門"と"社会階級"の意味を希薄化する。

つまりかつては正確な情報を得るためには、"名門への入門"、"階級へねじ込み"という道を選ぶしかなかったものが、情報の拡散によって、もっと手軽になってしまったということ。

(しかしながら、すべての情報が、情報を求めた人んところに行くわけでもない。「言語化し、共有する」ことが難しい情報というのは、現代でも多くある。)




確実な未来予測はない

全知全能は無い。

先の想定は世界を瞬間的に切り取った世界の話として解釈できる。

つまり、「現在という極めて瞬間的なものも理解できるやつがおらんのに、未来を正確に予想できるやつなんて、いわずもがなでんがな」というわけである。

ということは、未来を全部見透かせるミラクルスペシャル超天才は存在しないということになる。

つまり、どんな賢い宇宙人も、全部を知っているわけではないということになる。

つまり、どんな最強最悪の世界的な陰謀の黒幕がいたとしても、そいつも将来に不安は付きまとっているってことになる。

つまり、誰にも未来なんてわからないってことになる。

つまり、世界を牛耳っているように見えるオッサンもオバハンも、がむしゃら必死こいてるだけの人間だったりする。

つまりせいぜいみなさん各自、見える範囲で未来予測して、頑張るしかない、ということになる。

これって、つまり自分が信じているものは間違いだと証明されるかもしれないってことだけれども、

これって、つまり自分が信じるしか道はない(完全に間違いの無い未来は無いから信じるしかない)ってことでもある。
全知全能は存在しえない、について

情報量を元に考えてみると、全知全能は存在しえない。

1.
この世を仮にXという集合だと仮定する。
直感的に言えば、この宇宙の端から端まで、宇宙すべてを包み込むホニャララ次元のウンタラカンタラの名前を「X」と呼んでみるだけの話だ。
宇宙ってのも直感的でないなら、「この世の全部の情報を詰め込んだスーパーBlueRayディスク」があって、それの名前が「X」でもいい。
なんせ、「X」がある。

2.
全知全能に挑戦する宇宙人Yがいる。
全知全能ということは、「何でも知っている何でもできる」ってことで、何らかの知能を持った"なんらか"であることは堅い。
もしかしたら、超能力をもった地球人かも知れない。
とにかくここでは、全知全能にチャレンジするやつをYと呼んでみる。

3.
1より、全部の情報が詰まっているXには、「この世界のすべての情報が入っている」ので、
当然ながら「全知全能に挑戦するY」の情報も入っていることになる。
でも、仮に「Y」が全知全能だとすると、「Yの頭の中」にも「この世界のすべての情報が入っている」ということになる。
つまり「Y」が全知全能だとすると、
「Xの中にYという存在がある。Yの中にはXの情報が入っている。そのYの中のXにもYの情報が入っている。その中の…」
という風に、鏡と鏡を合わせたときのように無限に情報が入っていることになる。
(ちなみに鏡あわせでは、物理的な限界があるので、無限には反射しない)。

3-1.
もし、無限に情報量がある場合、直接記憶装置(脳みそ)にインプットしていると想定すると、
脳みそがいくらあっても足りない。ハードディスクがいくらあっても足りない。
情報量が無限なら、脳みそ(記憶装置)が無限で無いと存在しえない。
つまり、この想定では「全知全能は存在しえない」

3-2.
宇宙人Yは前段みたいな失敗はしない。
「YはXに直接参照できる機能をもっている」と想定すればいい、と。
つまり「宇宙人YはXという名のBlueRayディスクを持ち歩くだけで、
Xの内容を全部覚えとく必要は無いんだぜ」と。
何かあったときに、XというBlueRayを再生して、何か行動を起こせば、いいんだぜ、と。
確かに、この場合、全知全能も可能そうである。
「コスモメモリーにアクセスする能力を持った宇宙人Y」は、全知全能に近い。
しかしなが、それは宇宙人Yが全知全能というより、BlueRayディスクXが全知全能なだけでは無いかという気がする。
宇宙人Yが全知全能なのではなくて、コスモメモリーが全知全能なだけ。
仮に、そんなコスモメモリーを想定するとしても、
1)アクセス可能な全知全能コスモメモリーが存在するのか?
2)そのようなものがあったとして、どうやってアクセスするのか?
3)アクセスできたとして「それが全部真実である」ということはどうやって証明するのか?
ってことになる。
特に3)は難問で、「答えが無ければ、テストなんて意味がねぇよ」ってことで、結局、それを証明するのに、
真実を客観的に証明する泥臭い作業が続くわけで、そんな手間のかかるものが、全知全能を名乗るはおかしい。

3-3.
もしX=Yならば、つまり、「全知全能はこの世界そのもの」だけ、ならば…。
これは成立する。
情報量はXの情報量で、それの中にYの情報量は納まる。

まとめ。
全知全能を名乗れるのはこの世界のみ。(つまりX=Yの時のみ。)
つまり「全知全能である、知能は存在しない」ということ。

1.「変な約束や宣言は極力しない。」
捨てるために、過去のメモを整理していたら、このメモを発見した。
“全くもって個人的なことでも、勝手に「やる」と宣言したからには、やってなかった場合、「うそつき」呼ばわりされる。
個人的なことだから、他の人に迷惑がかかることは無い。でもやってなかった場合、「うそつき」といわれる。
だから、あんま、いい加減なことは、「他人迷惑かからないからいいだろう」と思っても言わない方がよい。
例えば、今日の「ご飯はカレーにします」といっておきながら、実際にはハンバーグを食べていた場合。
まぁ、その程度の「うそつき」はかわいい。けど、嘘は、嘘になる”
さらに、考えてみたら、宣言を守らないだけでなく、その内容が。他人に影響のあることなら「うそつき」だけでなく、明確に「裏切り」になる。
例えば、「増税なんてしませんよ。絶対しませんから私たちに任せてねぇ。」といっておきながら「増税は必須ですよ?何言ってんですか?」的な場合。
この場合、まぁ、詐欺だな。裏切りだな。社会は普通、こういうことを"絶対に許さない"。まぁ、僕の想像の範囲内の人間社会は"絶対に許さない"、と思う。
この場合は、"他人の影響"の大きさにかかわっているんだけれど、消費税って結構人が死ぬレベルの影響がでると思うんだけど、どうなんだろう?

2.「コンパクト化」
捨てるために、過去のメモを整理していたら、このメモを発見した。
「コンパクト化」
人間、同時に意識できることなんて、あんまり無い。
無意識下ではいろいろとさまざまな諸々を考えているらしいけれど、意識できることは少ない。
どういうことかというと、「腹が減ると意識が"仕事"→"食事"に移って集中できない」とか、そういうこと。
もっと重要な範囲でいうと「"人生において本当にやるべきこと"を差し置いて、目の前にある"ただやるべきこと"に忙殺されて、ついつい忘れてしまう」ということ。
「重要/非重要と緊急/非緊急のマトリックス」や「壺に石と砂を入れるたとえ話」とかで有名な話とおんなじ意味の話。
あと、「部屋を掃除する」とか「断捨離」とかも、「ほんとうにどうでもいいことを忘れるため」の教えだと思う。
で、「部屋を掃除して、捨てるものは捨てまくって、人生において本当に大切なことを明確にして」っていうのをやって、自分の集中力を数の少ないものに集中させる、ってこと。
スティーブ・ジョブズも「人生で自分が本当にうまいことできることなんて、多くて2つか3つだよね」って言っている。

3.「作業棚卸しが仕事の基本。」という仮説。
捨てるために、過去のメモを整理していたら、このメモを発見した。
「作業棚卸しが仕事の基本だと言ったらどう思われるだろうか。
実は特定の仕事に対して、誰もがやらなくてはいけない、或いはやらなかったがゆえに、能力が低いと目される所以はここにある。
普通、作業内容が解らないのに仕事をやっているというひとは少ない。
当たり前だか、仕事をわかる、とはつまり仕事の作業内容を知っている、という事だ。
小さいシゴトに対しては、多くのひとは仕事の棚卸しをあまり意識せずにいられる。
が、ことが複雑化した仕事においては、何故かそれを軽んじてしまうことがある。
すると当然作業に抜けや漏れが生じる。
作業を棚卸ししなくては、まず、仕事は出来ない。」
つまり
・何をやらなければならないかを明確にする
・それをリスト化し、実行する
というのをやる、ってのが、仕事の基本ではないかという仮説。

4.「それが一般法則なのか、社内規則なのか、がわからなくなる」
捨てるために、過去のメモを整理していたら、このメモを発見した。
「それが一般法則なのか、社内規則なのか、がわからなくなる」
ひとつの会社の中にずっといると、それが社会の常識なのか、それが社内だけで通用する常識なのか、混乱することがある。
その会社の中には"社内だけで通用する常識"と"一般的に通用する常識"っていうのがある。
そして、その違いがわかりにくい。そして混乱する。
このような混乱が起こる"常識"を"一般的/狭い範囲"と"得する常識/損する常識"の軸で、マトリックスを作って整理してみる。
例えば「休みが極端に少なく、週休2日とると、なんか自分がサボっているような感覚になる」という常識があるとすると、
"狭い範囲"よりで、"損でもとくでもない位置"にその"常識"が位置しているということになる。
例えば「作業動線を最短にするように思考する」という常識があるとする。
これの位置は"狭い範囲"よりで、"得する常識"に位置していることになる。
"狭い範囲"よりで、"得する常識"というのは、「使える常識なのに、あまり一般に浸透していない常識」ということになる。
このような常識の多い会社は、「ずっとそこにいても有利だし、転職後のスキルとしても有利」ということになる。
ということは、逆の会社は、つまり「使えない常識満載で、一般に浸透していない常識」の会社は少なくとも「転職後の仕事で有利」にはならない。
ということになる。
思ったよりこの分析は面白い。
例えば「"狭い範囲"で"得する常識"」に洗練された接客オペレーションを常識化している企業があったとする。
(要するにマックで「いい接客」のマニュアルを叩き込まれた、ということ)。
この「"狭い範囲"で"得する常識"」(=この場合「いい接客」)は転職後、その常識が浸透していない会社において、より有利に働く。
例えば、外回り営業職で、「いい接客」が見込み客に良い印象を与えることは、想像できる。
(もちろん、その会社も営業時の接客については、教育するだろうが、「マックほど洗練されているか?」というところが問題になる)。
まとめると、労働市場において、自分の価値を高める会社か否かを計る指標として、
「"一般的/狭い範囲"と"得する常識/損する常識"のマトリックス上で、"狭い範囲"で"得する常識"に位置している常識をたくさん持っているかどうか?」
という指標が存在しうる、ってこと。
まぁ、ゆってることは
「キャリアプランを考えたら、いい常識(いい教育内容)を持っている会社に入った方がいいよね」
っていうだけの話。