人の思考を読み取る機械ができるか?
SF
人の思考を読み取る機械ができるかどうかを考えてみて、
最初無理そうだと思ったけれど、
考えていくうちに、可能性としては、充分に可能なんじゃないかと思った。
ただし、この技術は、10年じゃ絶対無理そうで、広く使われる可能性というのは、100年くらいないんじゃないかと勝手に思った。
まず、人の思考は、脳みその神経回路の中を電気信号が伝わることで、構成されている。
しかも、それらはひとつの神経回路で構成されているのではなくて、脳みそ全体、ひいては体中の神経回路とのやり取りで成り立っている。
だから難しいのは、神経回路をネットワークで捉えて考えないといけないので、「この回路とこの回路が同時に働いたら、こういうことを考えている」という(超膨大な)ケーススタディが必要になると思われる。
要するに、
1)「これこれこういう神経回路たちが騒いでいたらこういうことを考えている」という膨大なデータ。
2)対象となる人の神経回路の正確な解析
3)対象となる人の観測時点の電気信号の正確な計測
という3つができれば、おそらく、人の思考を読み取ることができる。
1)について。
すでにこういうようなことを研究している研究機関も多い。
「脳の視覚野が働いているので、映像をイメージしていますね」とか言い当てるあれである。
要は、それを、「アバウトな脳の位置」と「アバウトな脳の活性化の計測」を
「神経回路一本単位の正確な位置」と「神経回路一本の正確な信号の計測」に変えれば、
1)を解決できる。
つまり、1)の問題は、2)と3)の技術が確立されれば、後は、時間の問題で解決できるということ。
2)について。
脳神経回路の精密な解析というのは、難しい。
現代の技術じゃ、脳を直接見ても、白い塊にしか見えないし、顕微鏡も、脳みそを極うすにスライスしてでないと、神経回路なんて見れない。
かつ、その神経回路の立体構造の解析なんて、現代では無理としかいいようが無い。っていうか、生きている人の神経構造を調べないと、思考なんて読み取れない。
そこで、解決すべき問題点は「生きている人の神経回路を正確に、非常に細かく、3次元構造で、解析する技術」が必要になる。
機能的にはMRIとかに近いもので、アプローチ的にはきっともっと別の感じになると思う。
なんかきっと3種類ぐらいのことなる波長のエネルギーをその人に照射して、返ってきた情報から、対象者の3次元神経回路イメージを再現する、みたいな話になると思う。
とにかく「ものすごい技術のMRI」があればこの課題をクリアできる。
3)について。
"構造"を分析したら、次はそこを走る情報の正確な計測が必要になる。
まぁ、もし、2)が解決できるくらいに正確な解析ができるんなら、電気信号を計測することもきっとたやすいに違いない。
これは、脳の構造と違って、「ものすごい速さで状況が変わる」ということが起こる。
つまり、2)の技術は「1週間かかって神経回路の解析が終わりました」ということはまぁ、その人がめちゃくちゃ変わらない限り妥協できるかもしれないけれど、
3)は「実際にその時に何を考えているか」ってのが問題で、計測に所要できる時間は「その瞬間」のみってところが違う。
つまり、
2)の延長線上にある「電気信号の3次元上の把握」っていう課題、
それをハイパースピードでやってのけるっていう課題
の二つがあると思う。
まとめると、
「すごいMRI的な技術が登場して、すごい量の実証実験をして、すごい3次元再構成モデルを作ったら、人の思考を詳細に読み取れる装置ができる」ってことになる。
一番のネックは「すごいMRI的な技術」のところ。
というか、MRI自身が既にすごいとも言える。
鳥はどうやって、リーダーを決定するのか?
最近読んだ本に「どうやってリーダーを決定するのか、謎じゃね?」的なことが本に書いてあった。
鳥は、越冬するために、長距離を旅する。
その時、先頭の鳥は、群れの個体をリードする、責任重大な位置にいる。
鳥には、議会が無い。
どういう風にリーダーを決定するのか、不思議である。
1)「正確な方向感覚(リーダーに求められる能力)」と「自信(自己評価)」との関係。
→
「どうやってリーダーを決定するのか、謎じゃね?」的なことが書かれていた本にすごい気になることが書かれていた。
「人間って自己評価(自信)が高めな人が多い(アメリカでの実験の結果)。
これって、実際の社会的な評価とずれてるってことだから、社会的に不利に働きそう。
でも、実際は、"自己評価が高めである"ということは、社会的に有利に働く。
例えば、会社で自信まんまんの人と、自信無さげな人と、どちらが出世しやすいかは、当然予想はつく。
例えば、"楽しくなくても笑顔の人"に人が集まってくるように、
"実力が無くても自信にあふれている人"に人が集まってくる。
そういう意味で、"過剰な自信は社会的に有利になる要因がある"といえる」
というもの。
平たく言うと「自信過剰は長所である」という内容。これは面白い。
もちろん、デメリットもある。自信過剰は叩かれる。
ちなみに「自信過剰は遺伝する」らしい。
そう、「自信」というのは、FFS理論でいうところのL要素のこと。
(↑の意味がわかれば、この記事の大体の内容がわかるはず)
→
本来ならば、鳥の群れは「正確な方向感覚」のある個体をリーダーにしたい。
命がかかっているんだから、それはもう、正確な能力のあるリーダーを任命したい。
しかしながら、前段の話「~自信満々の人は出世しやすい~」にもあるように、
「"能力"というよりも、"自信"で出世してリーダーになった」ということも考えられる。
つまり「"正確な方向感覚"をもった鳥をリーダーにしたいのに、実際には"自信があるが実力がともなわない"鳥がリーダーになってんじゃないの?」ということ。
つまり「"正確な方向感覚"と"自信"で、相関関係が強くないと、ランダムにリーダーを決めているのと同じでないの?」ということ。
以下の段で関連性を示す。
→
先に言うのを忘れていたが、「自信(自尊心、自己評価)」というのは、「社会での順列」を決定するための「変数」である。
全く、何の話をしているのか、わかりにくいので、平たく言うと、
「"自信やプライド"っていうのはね、それぞれの人が持っている。"自信やプライド"っていうのは、数字じゃないけど、それぞれ、"高い/低い"がある。
それで、社会っていうのは、自信のある人を高い地位に、あまり自信の無い人を低い地位に、っていう風に序列を決めているんだよ」
ということ。
端的に言うと「"自尊心や自信"は社会的な序列を決定するときの一番大事な変数である」ということ。
これは、大胆な仮説なのか、なんなのか、考えると、そうとしか考えられないが、実際に、そういう論文があるのか、知らないが、とにかく、そういうことを前提に話をする。
で、逆を言えば、"自信"と"本当の能力"が比例していないと、"自信"を決定的な変数をするのは、群れのメリットに反する。
「そんなの"自信"なんて変数を介さずに、直接"能力"を見極めて、リーダーを決定すればいいじゃん」ってなるが、そうも行かない。
例えば、
1)「自分が群れで一番正確な方向感覚を持っている」ならば→自分を信じる、自分がリーダーになるのが、自分の生存の可能性を上げる。
2)「自分が群れでも方向音痴な方である」ならば→他を信じる、すくなくとも他がリーダーになる方が、自分の生存の可能性を上げる。
ということ。
つまり、「自分の社会的な能力の序列を、正確に見極め、それに伴う"自信"を持った個体は、生存に有利がきく」ということ。
「正確に"能力"を見極め、"自信"を正確に持てば、有利」ということ。
→
で、どうやって見極めるのか、というとき。
1)自分自身が「あの個体は正確な方向感覚をもっているな、だから、彼がもっていていい"自信"はこれくらいかな」と1個体ずつ決めていく。
2)自分自身で全個体を判断するのは骨が折れるし、自分が間違っていたら大変なので、"他の個体による評価(=評判)"も考えに入れる。
この二つを駆使すると、かなり正確な答え(=それぞれに対する妥当な評価)が決まる。
これって実は、WEB検索のアルゴリズムと同様な構造を持つ。
1’)「このWEBサイトは、検索ワードに対して、正しい内容のサイト内容である」と判断するアルゴリズム
2’)「このWEBサイトは、他の信用の高いWEBサイトからのリンクが多いので、信用が高い」と判断するアルゴリズム
の二つで、正確な検索結果を導き出す。
人間に例えると
1”)「A子は嘘をつかない。特に正直ね、A子は。B子は嘘ばっかりつく。B子はうそつき」と判断するC子。
2”)「A子も"B子はよく嘘をつく"っていうから、B子がうそつきなのは、間違いない。あとA子が"D子はいい子だよ"っていってたから、きっとD子はいい子ね。」
的なこと。うわさ話が、正確かどうかはおいておいて、「人類がうわさ好きなの理由には、WEB検索エンジンと同様な、正確な能力(=評判)の決定を助ける効用が認められる」
ということはできると思う。つまりうわさすることにより、個人個人の評価を正確にして、集団内の序列を正確にしようという働きが、うわさ話にはある。
2)、2’)、2”)の例から、"評判"ってかなり大切、ってことがわかった。
→
「いい評判をつくるには、自分が自分に対して評価が高くないと」。
「自信過剰が有利なる」ってことは、まず、そういうこと。
最初の自己評価が高ければ、「人づてに聞く評判」は少しばかり高いことになり、その次に聞く人にも、評判が高くなる。
例えば、同じ内容のサイトでも、SEO対策(=この場合、自分をよく見せる(=自信まんまんに見せる)ようなこと)をすることで、自分の評価を上げ、人づての評価が順々にあがっていく。
→
これは、バンドワゴン効果も働く。一回、人気を集めてしまうと、人の評価は「人が言いというから、いいに違いない」ということで、爆発的に評価を上げる。これは、WEBページでも起こり、検索の1ページ目に表示されると、全く同じ内容のWEBサイトでも、評価には、雲泥の差がでる。
→
こんがらがったので、キーポイントをまとめると、
1)"自信"は社会における序列決定変数の自己評価である。
2)"評判"は社会における序列決定変数である。
3)"評判"は"自信"によって高くなる。
4)"評判"は各個体が自分の判断で行う。
5)"評判"は各個体が、他の個体の"評判"を参考に行う。
6)4と5より、"信頼性評価のアルゴリズム"が適用される。
7)全く実力の伴わない"自信"は、集団を危険にさらす。
最近読んだ本に「どうやってリーダーを決定するのか、謎じゃね?」的なことが本に書いてあった。
鳥は、越冬するために、長距離を旅する。
その時、先頭の鳥は、群れの個体をリードする、責任重大な位置にいる。
鳥には、議会が無い。
どういう風にリーダーを決定するのか、不思議である。
1)「正確な方向感覚(リーダーに求められる能力)」と「自信(自己評価)」との関係。
→
「どうやってリーダーを決定するのか、謎じゃね?」的なことが書かれていた本にすごい気になることが書かれていた。
「人間って自己評価(自信)が高めな人が多い(アメリカでの実験の結果)。
これって、実際の社会的な評価とずれてるってことだから、社会的に不利に働きそう。
でも、実際は、"自己評価が高めである"ということは、社会的に有利に働く。
例えば、会社で自信まんまんの人と、自信無さげな人と、どちらが出世しやすいかは、当然予想はつく。
例えば、"楽しくなくても笑顔の人"に人が集まってくるように、
"実力が無くても自信にあふれている人"に人が集まってくる。
そういう意味で、"過剰な自信は社会的に有利になる要因がある"といえる」
というもの。
平たく言うと「自信過剰は長所である」という内容。これは面白い。
もちろん、デメリットもある。自信過剰は叩かれる。
ちなみに「自信過剰は遺伝する」らしい。
そう、「自信」というのは、FFS理論でいうところのL要素のこと。
(↑の意味がわかれば、この記事の大体の内容がわかるはず)
→
本来ならば、鳥の群れは「正確な方向感覚」のある個体をリーダーにしたい。
命がかかっているんだから、それはもう、正確な能力のあるリーダーを任命したい。
しかしながら、前段の話「~自信満々の人は出世しやすい~」にもあるように、
「"能力"というよりも、"自信"で出世してリーダーになった」ということも考えられる。
つまり「"正確な方向感覚"をもった鳥をリーダーにしたいのに、実際には"自信があるが実力がともなわない"鳥がリーダーになってんじゃないの?」ということ。
つまり「"正確な方向感覚"と"自信"で、相関関係が強くないと、ランダムにリーダーを決めているのと同じでないの?」ということ。
以下の段で関連性を示す。
→
先に言うのを忘れていたが、「自信(自尊心、自己評価)」というのは、「社会での順列」を決定するための「変数」である。
全く、何の話をしているのか、わかりにくいので、平たく言うと、
「"自信やプライド"っていうのはね、それぞれの人が持っている。"自信やプライド"っていうのは、数字じゃないけど、それぞれ、"高い/低い"がある。
それで、社会っていうのは、自信のある人を高い地位に、あまり自信の無い人を低い地位に、っていう風に序列を決めているんだよ」
ということ。
端的に言うと「"自尊心や自信"は社会的な序列を決定するときの一番大事な変数である」ということ。
これは、大胆な仮説なのか、なんなのか、考えると、そうとしか考えられないが、実際に、そういう論文があるのか、知らないが、とにかく、そういうことを前提に話をする。
で、逆を言えば、"自信"と"本当の能力"が比例していないと、"自信"を決定的な変数をするのは、群れのメリットに反する。
「そんなの"自信"なんて変数を介さずに、直接"能力"を見極めて、リーダーを決定すればいいじゃん」ってなるが、そうも行かない。
例えば、
1)「自分が群れで一番正確な方向感覚を持っている」ならば→自分を信じる、自分がリーダーになるのが、自分の生存の可能性を上げる。
2)「自分が群れでも方向音痴な方である」ならば→他を信じる、すくなくとも他がリーダーになる方が、自分の生存の可能性を上げる。
ということ。
つまり、「自分の社会的な能力の序列を、正確に見極め、それに伴う"自信"を持った個体は、生存に有利がきく」ということ。
「正確に"能力"を見極め、"自信"を正確に持てば、有利」ということ。
→
で、どうやって見極めるのか、というとき。
1)自分自身が「あの個体は正確な方向感覚をもっているな、だから、彼がもっていていい"自信"はこれくらいかな」と1個体ずつ決めていく。
2)自分自身で全個体を判断するのは骨が折れるし、自分が間違っていたら大変なので、"他の個体による評価(=評判)"も考えに入れる。
この二つを駆使すると、かなり正確な答え(=それぞれに対する妥当な評価)が決まる。
これって実は、WEB検索のアルゴリズムと同様な構造を持つ。
1’)「このWEBサイトは、検索ワードに対して、正しい内容のサイト内容である」と判断するアルゴリズム
2’)「このWEBサイトは、他の信用の高いWEBサイトからのリンクが多いので、信用が高い」と判断するアルゴリズム
の二つで、正確な検索結果を導き出す。
人間に例えると
1”)「A子は嘘をつかない。特に正直ね、A子は。B子は嘘ばっかりつく。B子はうそつき」と判断するC子。
2”)「A子も"B子はよく嘘をつく"っていうから、B子がうそつきなのは、間違いない。あとA子が"D子はいい子だよ"っていってたから、きっとD子はいい子ね。」
的なこと。うわさ話が、正確かどうかはおいておいて、「人類がうわさ好きなの理由には、WEB検索エンジンと同様な、正確な能力(=評判)の決定を助ける効用が認められる」
ということはできると思う。つまりうわさすることにより、個人個人の評価を正確にして、集団内の序列を正確にしようという働きが、うわさ話にはある。
2)、2’)、2”)の例から、"評判"ってかなり大切、ってことがわかった。
→
「いい評判をつくるには、自分が自分に対して評価が高くないと」。
「自信過剰が有利なる」ってことは、まず、そういうこと。
最初の自己評価が高ければ、「人づてに聞く評判」は少しばかり高いことになり、その次に聞く人にも、評判が高くなる。
例えば、同じ内容のサイトでも、SEO対策(=この場合、自分をよく見せる(=自信まんまんに見せる)ようなこと)をすることで、自分の評価を上げ、人づての評価が順々にあがっていく。
→
これは、バンドワゴン効果も働く。一回、人気を集めてしまうと、人の評価は「人が言いというから、いいに違いない」ということで、爆発的に評価を上げる。これは、WEBページでも起こり、検索の1ページ目に表示されると、全く同じ内容のWEBサイトでも、評価には、雲泥の差がでる。
→
こんがらがったので、キーポイントをまとめると、
1)"自信"は社会における序列決定変数の自己評価である。
2)"評判"は社会における序列決定変数である。
3)"評判"は"自信"によって高くなる。
4)"評判"は各個体が自分の判断で行う。
5)"評判"は各個体が、他の個体の"評判"を参考に行う。
6)4と5より、"信頼性評価のアルゴリズム"が適用される。
7)全く実力の伴わない"自信"は、集団を危険にさらす。
抽象思考モデル
具体的、と、抽象的。
大学時代、ヤマノベというロックな教授が、「先生の講義は抽象的すぎて難しい」というコメントに対して、毎回のように反論していた。
先生曰く、
「具体的、というのは目に見えているから、単純に見える。だけど本当のところ、具体的なものの情報量は多いから、実は本当に理解するのは難しい。
その点、抽象的、というのは、具体的なものから、情報を削ぎ落とした結果のもの。だから、抽象的なことは、目には見えなくて、直感的に理解しにくいかもしれなけど、本当は易しいんだ!」
らしい。
具体的な例を出すと、
・"近所にすむAさんという具体的な人間"
と
・"抽象的な人間という概念"
の二つがある。
一般的な認識では「Aさんは近所に住んでるし、知ってるし、理解できる。でも"抽象的な人間という概念"なんていうと、なんだか小難しい。Aさんの方が理解しやすい」という感じで、具体的な方が簡単だと思う。
でも先生は「"Aさん"という具体的な例を理解するよりも、"抽象的な人間"という概念を理解する方が簡単だ!」という。
実はこの時、先生の話の流れで説明すると、
「Aさんという近所に済む人間は、名前、性別、趣味、体つき、考え方、今日食べたもの、近しい人、近しい人の名前、等等、実はいろいろな個別の情報を理解できないぐらい持っている。具体的な例というのは、たくさんの情報がついて来る。そしてどこまで追っても完全なAさんという実像を把握できない。
しかし、人間という概念ならば、せいぜい、"人間という概念"について書かれた本を読みあさればいい。なぜなら、"人間という概念"は個々の人間の情報のうち、共通部分を抜き出し、情報を削ぎ落としたものであるから。そのような情報の削ぎ落としたものを抽象的、という。
だから、具体的よりも、抽象的な方が理解がたやすい。」
ということになる。
要は「情報量が多い"具体的"よりも、情報量が少ない"抽象的"な方が理解しやすい」。
ここでもっと突っ込むと、実は"具体的なもの"と理解しているものは、単に馴染みの深い抽象概念であり、"小難しい抽象的"というのは、単に馴染みの薄い抽象概念というだけだったりする。抽象概念は、みんな使っていて、難しいか易しいかは、単に馴染みがあるかないかの違いなだけ、ということ。具体的なものなんか誰も理解していない、ってこと。
どういうことかというと、一般的に"具体的"と思われていることは、"馴染みの深い抽象概念"のことだったりする。
例えば"ここにある牛乳"という超、具体的っぽいものがある。
けど、人間の脳みその理解している"そこにある牛乳"は、実は、"厳密にそこにある牛乳のあらゆる情報"というよりも、"今までに経験してきた「牛乳」という概念の集約"に過ぎない。"牛乳"というのが、抽象概念だといわれてもピンと来ないかもしれないが、"具体的な牛乳"なんて存在しない。存在しているのは、別々の牛から取れた、様々な状態のそれぞれが違うお乳である。人間は、それを「食品として取り扱うのに都合がいいから」という理由でそれらをまとめて(つまり、抽象化して)"牛乳"と呼んでいるに過ぎない。そして、"そこにある牛乳"が具体的であり、かつ、抽象的でない、という気がするのは、単に"牛乳という抽象概念"に慣れ親しんでいるだけである。
人間の脳みそは無意識になんでもかんでも情報を抽象化して、脳みそのデータベースに投げ込んでいる。そして、"抽象的な思考"と言われる馴染みの薄い、小難しい議論は、この無意識の脳みその作業を意識下で、意識的にやろうとしている。無意識にやってることを、意識的にすることは結構難しい。「文章を書き写しなさい」と言われたときには、平仮名は普通にかけるけれど、「"な"という字を正確に書きなさい」と言われると、"な"ってこんな不思議な形をしていたかなぁ、不思議で馴染みのないもののように思えてくるのと同じである。
具体的、と、抽象的。
大学時代、ヤマノベというロックな教授が、「先生の講義は抽象的すぎて難しい」というコメントに対して、毎回のように反論していた。
先生曰く、
「具体的、というのは目に見えているから、単純に見える。だけど本当のところ、具体的なものの情報量は多いから、実は本当に理解するのは難しい。
その点、抽象的、というのは、具体的なものから、情報を削ぎ落とした結果のもの。だから、抽象的なことは、目には見えなくて、直感的に理解しにくいかもしれなけど、本当は易しいんだ!」
らしい。
具体的な例を出すと、
・"近所にすむAさんという具体的な人間"
と
・"抽象的な人間という概念"
の二つがある。
一般的な認識では「Aさんは近所に住んでるし、知ってるし、理解できる。でも"抽象的な人間という概念"なんていうと、なんだか小難しい。Aさんの方が理解しやすい」という感じで、具体的な方が簡単だと思う。
でも先生は「"Aさん"という具体的な例を理解するよりも、"抽象的な人間"という概念を理解する方が簡単だ!」という。
実はこの時、先生の話の流れで説明すると、
「Aさんという近所に済む人間は、名前、性別、趣味、体つき、考え方、今日食べたもの、近しい人、近しい人の名前、等等、実はいろいろな個別の情報を理解できないぐらい持っている。具体的な例というのは、たくさんの情報がついて来る。そしてどこまで追っても完全なAさんという実像を把握できない。
しかし、人間という概念ならば、せいぜい、"人間という概念"について書かれた本を読みあさればいい。なぜなら、"人間という概念"は個々の人間の情報のうち、共通部分を抜き出し、情報を削ぎ落としたものであるから。そのような情報の削ぎ落としたものを抽象的、という。
だから、具体的よりも、抽象的な方が理解がたやすい。」
ということになる。
要は「情報量が多い"具体的"よりも、情報量が少ない"抽象的"な方が理解しやすい」。
ここでもっと突っ込むと、実は"具体的なもの"と理解しているものは、単に馴染みの深い抽象概念であり、"小難しい抽象的"というのは、単に馴染みの薄い抽象概念というだけだったりする。抽象概念は、みんな使っていて、難しいか易しいかは、単に馴染みがあるかないかの違いなだけ、ということ。具体的なものなんか誰も理解していない、ってこと。
どういうことかというと、一般的に"具体的"と思われていることは、"馴染みの深い抽象概念"のことだったりする。
例えば"ここにある牛乳"という超、具体的っぽいものがある。
けど、人間の脳みその理解している"そこにある牛乳"は、実は、"厳密にそこにある牛乳のあらゆる情報"というよりも、"今までに経験してきた「牛乳」という概念の集約"に過ぎない。"牛乳"というのが、抽象概念だといわれてもピンと来ないかもしれないが、"具体的な牛乳"なんて存在しない。存在しているのは、別々の牛から取れた、様々な状態のそれぞれが違うお乳である。人間は、それを「食品として取り扱うのに都合がいいから」という理由でそれらをまとめて(つまり、抽象化して)"牛乳"と呼んでいるに過ぎない。そして、"そこにある牛乳"が具体的であり、かつ、抽象的でない、という気がするのは、単に"牛乳という抽象概念"に慣れ親しんでいるだけである。
人間の脳みそは無意識になんでもかんでも情報を抽象化して、脳みそのデータベースに投げ込んでいる。そして、"抽象的な思考"と言われる馴染みの薄い、小難しい議論は、この無意識の脳みその作業を意識下で、意識的にやろうとしている。無意識にやってることを、意識的にすることは結構難しい。「文章を書き写しなさい」と言われたときには、平仮名は普通にかけるけれど、「"な"という字を正確に書きなさい」と言われると、"な"ってこんな不思議な形をしていたかなぁ、不思議で馴染みのないもののように思えてくるのと同じである。
誠実さへの冒険
誠実さ、とは、「双方の言い分・捉え方を最大限位考慮した上で、双方にとって最良の選択肢を選ぶこと」である。
子供が教えられる誠実さ、とは少々趣がことなる。
「誠実さ」ということは「常に本当のことを言うべし、行うべし」というよりも、
「常にコミュニティーや相手のための内容を言うべし、行うべし」ということになる。
そして大抵の場合「コミュニティーや相手のための内容」が「本当のこと」である場合が多いために、
「本当のことを言うべし、行うべし」という決まり切った答えになる。
この新しい誠実さの定義の素晴らしい点は、
「一見すると、当たり前であるかのような一般論であり、一般的な誠実さの定義から逸脱していない」という点、
「非常にシンプルな答えであり、明確に考えることができる」という点、
「偉人の言う、誠実さ、と全く同じか、非常に似通った定義であり、そういう意味で信用が置ける定義である」という点、
になる。
誠実であろうとする人たちに立ちはだかる最初の壁は、常に優しさを発揮しようとして、自分が損するだけの選択肢をとり続け、局面として「自分は損をし、優しさにつけこみ便益を取ろうとする人が得をする」というものに陥るだけになってしまう、というものがある。
このような誠実さは、幼い頃に教えられた誠実さには一致するが、新しい定義上の誠実さとは相容れない。
幼い頃に教えられた誠実さというのは「誰に対しても優しさや礼節を持って接しなさい」という誠実さである。
そして、優しさをみると、それにつけこもうとするだけの人たちに得をさせるだけの人になってしまう。
そして人はいつしか、誠実さだけではダメだということに気づき、多少の悪知恵が働くようになる。
つまり、「誠実さを装いながら、自分の得をよくよく計算し、損をしないように立ち回る」という態度になる。
そして多くの人は、「それが社会の実情だ」と思ってしまう。
あるいは「幼い頃の誠実さ」と、「誠実さの装い」の間でさまよいながら生きていく。
しかしながら「誠実さを装いながら、自分の得をよくよく計算し、損をしないように立ち回る」という態度の人たちは大勢いる。
そうなると、考えて見ればおかしな話で、「半ば嘘と知りながら、その嘘から本音に翻訳し、立ち振舞うのが常」というのは、社会の常であり、かつ、滑稽である。
そして「誠実さの装い」の比重が大きい人ほど、自分への中の良心の呵責が大きく、また「人にそれを見透かされたらどうしよう」という心配は尽きない。
ここに来て、「誠実であろうとした人間」が社会の中で変質し、偽りの誠実さを身に付け、真に幸福になろうとする過程で、「誠実ではない」ということに責められる。
おそらくこのような矛盾は多くの人を苦しめる。「誠実であるべきなのに、誠実になりきれない自分」というものに苦しむ。
自分でさえ、そのようなことを考えているのに、「社会全体が誠実さを備えている」という理想論は、到底、考えにくい。
このような矛盾への諦めは「正直者がバカを見る」、「大人は汚い」、「偉い奴は全員不正を働いている」というような言説に現れている。
しかし、そのような矛盾は、誠実さ、という言葉の意味の解釈を少し変えてやるだけで解決する問題になる。
つまり、誠実さを「常に、誰にでも、優しくし、嘘はつかない」という幼いころに教わったものから、
「常にコミュニティー、自分、相手のための内容を言うべし、行うべし」というもに替えるというもの。
この誠実さは幼い頃に教わった誠実さよりも、行動に落とし込むのは、格段に難しい。
というのも、「常に~~をしなさい」というような決まりではなく、
「常に、考え、その結果を行動に移しなさい」という決まりであるためである。
幼いころに、他の人の立場を考えるのは、難しい。
その人がどんなことを考え、どんなジレンマに悩みながら、自分と付き合い、他の人と付き合い、そして自分と向き合い、考え、生きているのかは、想像できない。
しかし、大人になれば、成長すれば、ある程度想像ができるようになる。
そこで出てくるのが、大人の誠実さ、というものである。
それは「最大限、相手も自分の事も考え、最良の選択肢を模索する」という誠実さである。
「嘘をつきません」や「常にに優しい行動」というような幼い誠実さは、誠実さが現れたひとつの例であって、常に誠実な行動である、というわけではない。
「最大限、相手の事も考えた上で、嘘をつかない」、「最大限相手のことを考えた上での優しさ」、というのは、この定義上は誠実な行動ということになる。
大人の誠実さに定石はない。
「常に~~する」というのは相手の事を考えるという思考の放棄であり、それは誠実さでもなんでもなく、誠実さの押し売りであり、かえって迷惑であることもあるかもしれない。
誠実さは、相手の事を考える、ということでしか、成立しないことになる。
そして、大人の誠実さは際限が無い。
相手の立場や捉え方考え方は、個々人で異なっており、そのような個々人が複数人集まった場での誠実な行動というのは、天文学的な数の選択肢から選ばなければならないことになる。
刻一刻と状況が代わり、相手も自分も成長していく中で、誠実さというのは、変わっていくものとなる。
誠実さ、とは、「双方の言い分・捉え方を最大限位考慮した上で、双方にとって最良の選択肢を選ぶこと」である。
子供が教えられる誠実さ、とは少々趣がことなる。
「誠実さ」ということは「常に本当のことを言うべし、行うべし」というよりも、
「常にコミュニティーや相手のための内容を言うべし、行うべし」ということになる。
そして大抵の場合「コミュニティーや相手のための内容」が「本当のこと」である場合が多いために、
「本当のことを言うべし、行うべし」という決まり切った答えになる。
この新しい誠実さの定義の素晴らしい点は、
「一見すると、当たり前であるかのような一般論であり、一般的な誠実さの定義から逸脱していない」という点、
「非常にシンプルな答えであり、明確に考えることができる」という点、
「偉人の言う、誠実さ、と全く同じか、非常に似通った定義であり、そういう意味で信用が置ける定義である」という点、
になる。
誠実であろうとする人たちに立ちはだかる最初の壁は、常に優しさを発揮しようとして、自分が損するだけの選択肢をとり続け、局面として「自分は損をし、優しさにつけこみ便益を取ろうとする人が得をする」というものに陥るだけになってしまう、というものがある。
このような誠実さは、幼い頃に教えられた誠実さには一致するが、新しい定義上の誠実さとは相容れない。
幼い頃に教えられた誠実さというのは「誰に対しても優しさや礼節を持って接しなさい」という誠実さである。
そして、優しさをみると、それにつけこもうとするだけの人たちに得をさせるだけの人になってしまう。
そして人はいつしか、誠実さだけではダメだということに気づき、多少の悪知恵が働くようになる。
つまり、「誠実さを装いながら、自分の得をよくよく計算し、損をしないように立ち回る」という態度になる。
そして多くの人は、「それが社会の実情だ」と思ってしまう。
あるいは「幼い頃の誠実さ」と、「誠実さの装い」の間でさまよいながら生きていく。
しかしながら「誠実さを装いながら、自分の得をよくよく計算し、損をしないように立ち回る」という態度の人たちは大勢いる。
そうなると、考えて見ればおかしな話で、「半ば嘘と知りながら、その嘘から本音に翻訳し、立ち振舞うのが常」というのは、社会の常であり、かつ、滑稽である。
そして「誠実さの装い」の比重が大きい人ほど、自分への中の良心の呵責が大きく、また「人にそれを見透かされたらどうしよう」という心配は尽きない。
ここに来て、「誠実であろうとした人間」が社会の中で変質し、偽りの誠実さを身に付け、真に幸福になろうとする過程で、「誠実ではない」ということに責められる。
おそらくこのような矛盾は多くの人を苦しめる。「誠実であるべきなのに、誠実になりきれない自分」というものに苦しむ。
自分でさえ、そのようなことを考えているのに、「社会全体が誠実さを備えている」という理想論は、到底、考えにくい。
このような矛盾への諦めは「正直者がバカを見る」、「大人は汚い」、「偉い奴は全員不正を働いている」というような言説に現れている。
しかし、そのような矛盾は、誠実さ、という言葉の意味の解釈を少し変えてやるだけで解決する問題になる。
つまり、誠実さを「常に、誰にでも、優しくし、嘘はつかない」という幼いころに教わったものから、
「常にコミュニティー、自分、相手のための内容を言うべし、行うべし」というもに替えるというもの。
この誠実さは幼い頃に教わった誠実さよりも、行動に落とし込むのは、格段に難しい。
というのも、「常に~~をしなさい」というような決まりではなく、
「常に、考え、その結果を行動に移しなさい」という決まりであるためである。
幼いころに、他の人の立場を考えるのは、難しい。
その人がどんなことを考え、どんなジレンマに悩みながら、自分と付き合い、他の人と付き合い、そして自分と向き合い、考え、生きているのかは、想像できない。
しかし、大人になれば、成長すれば、ある程度想像ができるようになる。
そこで出てくるのが、大人の誠実さ、というものである。
それは「最大限、相手も自分の事も考え、最良の選択肢を模索する」という誠実さである。
「嘘をつきません」や「常にに優しい行動」というような幼い誠実さは、誠実さが現れたひとつの例であって、常に誠実な行動である、というわけではない。
「最大限、相手の事も考えた上で、嘘をつかない」、「最大限相手のことを考えた上での優しさ」、というのは、この定義上は誠実な行動ということになる。
大人の誠実さに定石はない。
「常に~~する」というのは相手の事を考えるという思考の放棄であり、それは誠実さでもなんでもなく、誠実さの押し売りであり、かえって迷惑であることもあるかもしれない。
誠実さは、相手の事を考える、ということでしか、成立しないことになる。
そして、大人の誠実さは際限が無い。
相手の立場や捉え方考え方は、個々人で異なっており、そのような個々人が複数人集まった場での誠実な行動というのは、天文学的な数の選択肢から選ばなければならないことになる。
刻一刻と状況が代わり、相手も自分も成長していく中で、誠実さというのは、変わっていくものとなる。
伝えたいことはたくさんある
・人間の感情の感じやすさには個人差がある
・不安感、幸福感等は、DNAレベルで明らかな違いがある。ATGCの本当にひとつしか違わなくても、人間の価値観で言えば、"非常に違う"とい輪ざる終えないほど、決定的な違いが生まれる。遺伝子の違いは物質的な違いでは"ほんの些細な違い"が、人間の価値観に当てはめれば、"非常に違う"ということがある。
・でも人間の尊厳というのは、平等なのだ。
・ここには二つの視点からいえることがある。
・ひとつは社会学的な視点で、「人間は平等である、という普遍的な事実よりも、人間は平等にならざる終えないように、社会的な拘束力が、ゲーム理論的な展開により、予測される」というものだ。
・もうひとつの視点は、もっと感情的な視点で、ある種、人間という生き物の、遺伝子レベルでの認識に近いものがあるのかもしれないが、「人間は、本当に1対1で付き合わさったときに、"同じ人間であること”を、"感じる"とか、"悟ってしまう"」ということ。人間個人において、"他者(人間の自分以外の固体)"というものは、"ほかの動物や非生物と比べて、圧倒的に重要である"ということ。当たり前といえば当たり前ではあるが、この事実が、"人間が平等である"というイデオロギーに対する、直感的な説得力をもつと思われる。
・人間は、非常に違う。でも、平等である。ということ。
・人間の感情の捉え方に関して、自己存在、の発現について考える。
・自我意識、というものは、明らかに、存在していそうではあるが、この"自我意識"という働きが、物理世界において、どのように特殊な、特別な意識、であるのか、というものを、明確に説明できた人を僕は知らない。
・ひとつ、このパラドクスに説明をつけるならば、「物理世界に主体を置かない普遍的な世界を想定するならば、そこに"特殊"とか"特別な"という言葉は、意味を成さない」という説明ができる。
・"特殊"とか"特別な"という言葉は、主体、(複雑な神経回路をもったもの、あるいは、知性をもったもの)の中にある、ひとつの定義(あるいは、ひとつの処理系における変数)に過ぎないからだ。
・おそらく、どの知性体にしても、自我、というものが、存在するであろうが、殊、人間のように、強烈に自我を意識するものは、生物界においては、まれだろう。
・ひとつには、"自我意識"とい抽象概念を見出せるほど複雑な処理系を持たなければ、"自我意識"に関して、考えをめぐらせることはできない、という説明。
・もうひとつの説明は、"自我意識"とは、"自我意識という名の抽象概念"ではなく、"クオリア"と呼ばれるような、"単なる意識"として"自我意識"である。
・このような定義ならば、おそらく、哺乳類は、人間と同様な感情を抱いているだろうことは、容易に想像がつく。
・ならば、この"クオリア"的なこの意識は、なんなんだろうか?
・ひとつの答えは、先に言った、"特殊"という言葉自体が、知性体という処理における、ただの変数だという答え。
・もうひとつの答えは、"電気信号"あるいは"エネルギー"すべてがこのような"クオリア"を構成する潜在性をもっているというような、答え。
・仮に後者の答えが真実に近いとすれば、宇宙はすべてエネルギーで構成されているため、"人間の自我意識というクオリア"と同様に、"宇宙の宇宙意識というクオリア"という類のものが、存在するということであろうか?"雷の雷意識というクオリア"、"原子力の原子力意識というクオリア"………
・"変数”だと言い切れば、”変数=虚(つまりただの定義)"という捉えられ方をされそうだ。非常に実体感のある"自我"というものが"ただの変数"、"つまり虚”といっているようなものだ。直感的にそれでは矛盾している。
・一方、"エネルギー"だと言い切れば"エネルギー=そこかしこにある"ということになる。つまり、"自我"という特殊であるはずの作用が"そこかしこにある"というのでは、世界を重要と重要でないものにわける機能である知能にとって、矛盾以外の何者でもない。
・"クオリア”とは"変数"か"エネルギー"か。
あるいは、"潜在的にエネルギーはクオリアとしての機能をもっているが、それが、存在することを認識できるのは、認識機能を持った、高度な知能だけである"ということであろうか?
つまり"クオリア"とは"変数"であり、"エネルギー"であるもののことである、と。
"エネルギー"が"エネルギー"を再認識したものが"クオリア"ということになる。
つまり、"エネルギー"が高度な知性という鏡を通して見た"エネルギー”自身の鏡像が"クオリア"と呼ばれるのではないか?
・今、自分がクオリア(自我意識)についていえる結論がこれである。
・もし、この仮説があっているならば、高度な知性(自我を認識できるほどの抽象化思考が可能な知性)は「確かに自我を持っている」ということがいえる。つまり将来、ロボットは自我をもてる(言い換えれば、"クオリア"を持っている)ということになる。
ロボットが自我を持つかどうかは、関連の書籍にも載っているので、参照したほうがよさそうである。
・人間の感情の感じやすさには個人差がある
・不安感、幸福感等は、DNAレベルで明らかな違いがある。ATGCの本当にひとつしか違わなくても、人間の価値観で言えば、"非常に違う"とい輪ざる終えないほど、決定的な違いが生まれる。遺伝子の違いは物質的な違いでは"ほんの些細な違い"が、人間の価値観に当てはめれば、"非常に違う"ということがある。
・でも人間の尊厳というのは、平等なのだ。
・ここには二つの視点からいえることがある。
・ひとつは社会学的な視点で、「人間は平等である、という普遍的な事実よりも、人間は平等にならざる終えないように、社会的な拘束力が、ゲーム理論的な展開により、予測される」というものだ。
・もうひとつの視点は、もっと感情的な視点で、ある種、人間という生き物の、遺伝子レベルでの認識に近いものがあるのかもしれないが、「人間は、本当に1対1で付き合わさったときに、"同じ人間であること”を、"感じる"とか、"悟ってしまう"」ということ。人間個人において、"他者(人間の自分以外の固体)"というものは、"ほかの動物や非生物と比べて、圧倒的に重要である"ということ。当たり前といえば当たり前ではあるが、この事実が、"人間が平等である"というイデオロギーに対する、直感的な説得力をもつと思われる。
・人間は、非常に違う。でも、平等である。ということ。
・人間の感情の捉え方に関して、自己存在、の発現について考える。
・自我意識、というものは、明らかに、存在していそうではあるが、この"自我意識"という働きが、物理世界において、どのように特殊な、特別な意識、であるのか、というものを、明確に説明できた人を僕は知らない。
・ひとつ、このパラドクスに説明をつけるならば、「物理世界に主体を置かない普遍的な世界を想定するならば、そこに"特殊"とか"特別な"という言葉は、意味を成さない」という説明ができる。
・"特殊"とか"特別な"という言葉は、主体、(複雑な神経回路をもったもの、あるいは、知性をもったもの)の中にある、ひとつの定義(あるいは、ひとつの処理系における変数)に過ぎないからだ。
・おそらく、どの知性体にしても、自我、というものが、存在するであろうが、殊、人間のように、強烈に自我を意識するものは、生物界においては、まれだろう。
・ひとつには、"自我意識"とい抽象概念を見出せるほど複雑な処理系を持たなければ、"自我意識"に関して、考えをめぐらせることはできない、という説明。
・もうひとつの説明は、"自我意識"とは、"自我意識という名の抽象概念"ではなく、"クオリア"と呼ばれるような、"単なる意識"として"自我意識"である。
・このような定義ならば、おそらく、哺乳類は、人間と同様な感情を抱いているだろうことは、容易に想像がつく。
・ならば、この"クオリア"的なこの意識は、なんなんだろうか?
・ひとつの答えは、先に言った、"特殊"という言葉自体が、知性体という処理における、ただの変数だという答え。
・もうひとつの答えは、"電気信号"あるいは"エネルギー"すべてがこのような"クオリア"を構成する潜在性をもっているというような、答え。
・仮に後者の答えが真実に近いとすれば、宇宙はすべてエネルギーで構成されているため、"人間の自我意識というクオリア"と同様に、"宇宙の宇宙意識というクオリア"という類のものが、存在するということであろうか?"雷の雷意識というクオリア"、"原子力の原子力意識というクオリア"………
・"変数”だと言い切れば、”変数=虚(つまりただの定義)"という捉えられ方をされそうだ。非常に実体感のある"自我"というものが"ただの変数"、"つまり虚”といっているようなものだ。直感的にそれでは矛盾している。
・一方、"エネルギー"だと言い切れば"エネルギー=そこかしこにある"ということになる。つまり、"自我"という特殊であるはずの作用が"そこかしこにある"というのでは、世界を重要と重要でないものにわける機能である知能にとって、矛盾以外の何者でもない。
・"クオリア”とは"変数"か"エネルギー"か。
あるいは、"潜在的にエネルギーはクオリアとしての機能をもっているが、それが、存在することを認識できるのは、認識機能を持った、高度な知能だけである"ということであろうか?
つまり"クオリア"とは"変数"であり、"エネルギー"であるもののことである、と。
"エネルギー"が"エネルギー"を再認識したものが"クオリア"ということになる。
つまり、"エネルギー"が高度な知性という鏡を通して見た"エネルギー”自身の鏡像が"クオリア"と呼ばれるのではないか?
・今、自分がクオリア(自我意識)についていえる結論がこれである。
・もし、この仮説があっているならば、高度な知性(自我を認識できるほどの抽象化思考が可能な知性)は「確かに自我を持っている」ということがいえる。つまり将来、ロボットは自我をもてる(言い換えれば、"クオリア"を持っている)ということになる。
ロボットが自我を持つかどうかは、関連の書籍にも載っているので、参照したほうがよさそうである。