私は3年になって専門の勉強が増えていくうちに
大層なことしか考えなくなっていたようです。
すごく大きな枠で世界を捉えていて
たくさんのものが視界には入っているんだけど全体的にぼやけていて
細かいところなんて特にはっきり見えていなくて
見落としていた部分も結構あったなぁって。

だからピントをもっと自由に変えられるようになろうって。
小さな枠で世界を見ることを意識したら
日常のありふれた生活のなかにも
目を引かれるところがいくらでもあって
でもそうすると今度は一度にたくさんのものは見られなくて
重要じゃないところにも多くの時間を費やすことになってしまう…
接写にでも無限遠にでも
いろいろなフォーカスを持てるようになりたいと思います。
シッターのバイトを通して偶然
観点をたくさんもつことの必要性を実感しました。


最寄り駅からどうやってバイト先に行くのが近いか、
地上にいてそれを知るのはとても難しいことです。
でも地図があればより近いルートが見つけられます。

しかしあるとき、その近所の展望台に行く機会があって
つまり俯瞰することができて
そうすると地図上で近いと思って行ってたルートは
実は結構な遠回りだったことに気付いたのでした。

ところで以前にも書いたことはありますが
シッターのお宅は28階建てマンションの25階。
マンションの玄関から見上げても
見えないくらい高いところにあります。
しかし部屋に通してもらうと今度は東京ドームホテルが足の下に。


日常でこれほど多くの観点を与えられるとは…
地道な定点観察によってその変化を見ることもできるだろうし
どの見方が正しいとか、最も適切とかじゃなくて
そういう観点をたくさん持った
偏りのない大人になりたいと思いました。
人間には意識している部分と無意識の部分とがあって
意識というのは心の氷山の一角であって
無意識が形を変えて姿を現すのが
「夢」だとか「言い間違い」なんてものだったりするわけですが
意識か無意識かの区別は
そのことが言語化できるかできないかによると思うのです。

自分が勉強不足なのはよく知っているし
ここで言っていることのなかには間違っているところが
いっぱいあるはずなので、サラッと読んでくださいね。


で、なんでこんな話をしているかというと
このところ「自分自身が本当はどうしたいのか分からない…」
なんて状況がたびたびあったから。
そんなときには頭で考えないことにしました。
黙って、体を空にしたとき
そのときに沸いてくる感情を経験して
それを言語化すればいいのではと考えたのです。

思考っていうのは言語を用いないと進まないものだから
そうすると意識の部分で考えてしまって
無意識のところはやっぱりわからない。
抑圧されて意識化できない部分を「無意識」と言うのだから
無意識なんて意識できなくて当然だし
そういう無意識の部分に目を向けるなんて
何が抑圧されているのだかわからなくて怖いものです。

言いたいことを言いたい放題言って
やりたいことをやりたい放題やっている私でさえ
やっぱりいくらか抑えているところがあるみたいで
今その無意識の部分が腫れてきて
ほかの健康な部分まで圧迫しているようで何だか苦しくて
思春期のニキビみたいにつぶしたときに
ピュッと膿が出てくれたらスッキリするんだけど
大人のニキビ、というか吹き出物みたいに
奥のほうにその膿があるようで
腫れているばかりで、なかなか簡単には出てきてくれなくて
どんな膿が出てくるのだろう、
どのくらい出てくるのだろうって…


自分の行動を後悔しました。
後悔しても仕方のないことなんだけど
どんな選択肢を選んだとしても
やっぱりいつかどこかで今のような結果になるのかな。
早くこの状態から抜け出せる方法が見つかればと
無意識の部分と意識の部分を行ったりきたりしています。
21歳になって、年を重ねて
私は果たして成長しているのでしょうか。


身長はもうずいぶん前から伸びなくなり
体重は気を緩めなければ増えなくなり
肌は放っとけばボロボロになり
体は疲れやすく、すぐ息が上がってしまう…
そういう面での成長、というより衰えは日々感じています。
これから先にはもっと切実に感じるでしょうね。

人としても
そりゃぁ1年前と比べたら確実に成長しているだろうけれど
でもその年齢で要求されるだろうことは
年を重ねるごとに高くなっていって
その要求と現実の自分とのギャップは広がって
いくつになっても、どれだけ年を重ねても
「一人前」になんてなれないんじゃないかとさえ思えてくるほど。

早く地に足をつけなければと
溺れながら海で足掻いているような
足掻けば足掻くほど塩水を飲んで
ようやく見つけたボコボコした不安定で小さな岩場にさえ
足をかけ損ねているような
21歳ってそんな感じ。

20歳までは浮き輪使ってプカプカ浮いていられたのに
今じゃその浮き輪をぱっと取り上げられたみたいで
どうにかはなるんだろうけど、どうなるかはわからない
その不安は去年の今頃には少しもなかったな…

いっそのこと足掻くのをやめて
溺れてしまったほうが楽なんじゃないかとか
でもこれまでに培ったものを棒に振るだけの覚悟もなくて
時が来て、本来目指していたところに辿りつくか、つかないか
そうするまでもう足掻けるところまで足掻くしかない、
けどそう言うわりには何もしていないじゃないかという
自己嫌悪も混じりつつ、21歳の夜は今日も更けていくのでした。
和食は「さしすせそ」だなんて言います。
砂糖は初めに入れなければ味がしみ込まない。
甘くなりすぎたからって
塩を多めに入れればいいわけでなく
味が濃くなったからといって
水を足して薄めればいいというものでもない
加減というものが必要なんですよね。


加減なんていうけど少なめにしておくぶんには
あとで足すことはできるけど
多めに入れてしまったものを出すことはできません。
ただし多くの例外はあるでしょうが。
きっと少なめくらいがちょうどいいのかもしれません。
加減って、いざ鍋の中に入れる前に
つまり実行する前に調節するということでしょうね。

でも鍋の中に入れてみないと分からない場合のほうが
実際の場面では多い気がします。
ちょっと少なめにと思って入れてみても
鍋を掻き混ぜて味見をしてみたら
自分が思ってたのとはほど遠い味。
料理での加減なんて簡単なもので
何回か繰り返すうちに思っているものに近づいていくけど
現実でのあらゆる加減はちょっと違っただけで
かなりの修正が必要になることも。

少しの加減でも取り返しがつかなくなることもある。
慎重に構えていては何もできないまま終わってしまうけど
加減を必要とする行動をするときには
いちいち覚悟しておかなきゃいけないんじゃないかって
そういう気がしてきました。


加減を失敗してしまって
めちゃくちゃな味になってしまった料理。
捨ててしまうこともできるし
自分で食べて責任をとることもできるし
他人に食べさせることだってできる。
これまでそんな料理いっぱい作ってきたし
これからもそんな料理いっぱい作っていくんだろうな…
いい加減、加減することを覚えたいものです。