小林慎太郎『ジョン・ロールズ』講談社現代新書から、ロールズ『正義論』の引用を並べた。一番目に付く語は「義」だ。

かつて荒井献は『人が神とならないために』という説教集を出版したが、正義を追求したロールズはどうだろうか。棄教しつつもキリスト教の思想的パーツを使い続けているのだが、苦しかったろうと思う。

 

「よお、ジョン、元気でやっとるか」

「これはスピノザ先生、遠いところからお出ましいただきありがとうございます」

「ジョンよ、ドツボに嵌ったらしいやないか」

「少しずつ首が締まって、もうこれしか無いと」

「わしが命がけで書き残した本をお前わかってないな」

「わたしも必死で考えました」

「あほ、難しいこと考えたらええっちゅうもんとちゃうで」

「いえ、だんだん込み入ってしまうんです」

「主に従え、それが義や」

「多様性が、、」

「あほか、そんなもんちゃんと書いとるやろが、異邦人て」

「いえ、」

「お前、主客逆転しとるぞ」

 

http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/350/1/seijigaku-39_17-46.pdf

 

 

真理が思想の体系にとって第一の徳であるように、正義は社会の諸制度がまずもって発揮すべき効能である。どれほど優美で無駄のない理論であろうとも、もしそれが真理に反しているのなら、棄却し修正せねばならない。それと同じように、どれだけ効率的でうまく編成されている法や制度であろうとも、もしそれらが正義に反するのであれば、改革し撤廃せねばならない。(第一節、六頁)

 

社会とは〈相互の相対的利益(ましな暮らし向き)を目指す、協働の冒険的企て〉なのだけれども、そこには利害の一致だけではなく衝突も顕著に見られるのが通例である。社会的な協働によって、各人が独力でひとり暮らしを続けるのと比べて、ましな生活が可能となるがゆえに、利害の一致が成立する。逆に利害の衝突が起こるわけは、こう説明できる人びとが各自の目的を追求するにあたって、相互連携がもたらす便益の取り分がより大きくなることを選好するため、便益の分配がどれくらいの大きさになるかに関して、無関心ではいられないからである、と。そこでこの相対的利益の分割を規定する複数の社会的な制度編成のどれを選ぶかに際して、さらに適正な分配上の取り分に関する合意事項を確定するために、一組の原理が必要となってくる。とうした原理とそ、社会正義の諸原理にほかならない。(第一節、七頁)

 

それらの原理が、社会の基礎的諸制度における権利と義務との割り当て方を規定するとともに、社会的な協働がもたらす便益と負担との適切な分配を定めるのである。(同

 

ここでの論題は社会正義に絞られている。本書において、正義の第一義的な主題をなすものとは、〈社会の基礎構造>もっと正確に言えば、主要な社会制度が基本的な権利と義務を分配し、社会的協働が生み出した相対的利益の分割を決定する方式なのである。政治の基本組織・政体および経済と社会の重要な制度編成がこうした〈主要な諸制度〉にあたるものと私は考えている。(第二節、一〇-一一頁)

 

次のような特質―基本的な権利と義務を割り当て、社会的な協働の便益と負担との適正な分配と見なされるものを決定するという特質を有する一組の原理が必要であることを、人びとは理解しかつその諸原理に賛同する覚悟ができている。[…]異なる正義の構想を抱いている人びとであっても、基本的な権利および義務の割り当てに際して個人間に恣意的な分け隔てが設けられず、社会生活がもたらした相対的利益をめぐって対立し合う諸要求の間に適正な折り合いをつけてくれるルールが存在する場合、そうした制度は正義にかなっている、ということにはなお合意しうるだろう。(第

一節、八頁)

 

一部の道徳上の原理は無理がなく、しかも明白でさえあるように思われるにもかかわらず、それらは必然的に真だと主張することに対しては(あるいはこの主張の意味するところを説明することに対しては)大きな障害が立ちふさがっている[…]。〈道徳性の概念から必然的もしくは決定的なものとして派生し、したがって正当化の立証責任を担うのにとりわけ適している〉と説得力をもって主張されうる、複数の条件や第一原理群の集合は存在しない。(第八七節、七六一頁)

 

社会的協働に参画する人びとが、一堂に会して(ひとつの共同行為として)基本的な権利と義務を割り当て、かつ社会的便益の分割を定めてくれる諸原理を選択する。要するに、そうした状況を想像することができるだろう。人びとは互いの権利要求をどのように統制すべきか、および自分たちの社会の根本憲章がどんなものであるべきかを、あらかじめ決定することになる。(第三節、一六一七頁)

 

言うまでもなく、この原初状態は、実際の歴史上の事態とか、ましてや文化の原始的な状態とかとして考案されたものではない。ひとつの正義の構想にたどり着くべく特徴づけられた、純粋に仮説的な状況だと了解されている。この状況の本質的特徴のひとつに、誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていないというものがある。さらに、契約当事者たちは各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は〈無知のヴェール〉に覆われた状態のままで選択される(第三節、一八頁)。

 

また別の言い方を引けば、原初状態とは当事者たちが道徳的人格として対等に表象・代表されており、かつその帰結が気まぐれな偶発性や社会的勢力の相対的なバランスによって左右されることのない事態」(第二〇節、一六二頁)です。繰り返しになりますが、このよ本書を導く理念によれば、社会の基礎構造に関わる正義の諸原理こそが原初的な合意の対象となる。それらは、自分自身の利益を増進しようと努めている自由で合理的な諸個人が平等な初期状態において(自分たちの連合体の根本条項を規定するものとして)受諾すると考えられる原理である。こうした原理がそれ以降のあらゆる合意を統制するものとなる。つまり、これから参入できる社会的協働の種類や設立されうる統治形態を、それらの原理が明確に定めてくれる。正義の諸原理をこのように考える理路を〈公正としての正義〉と呼ぶことにしよう。(第三節、一六頁)

 

公正としての正義〉という考えを、分かりやすく(直観に訴えるかたちで)言い換えるとこうなる。正義の第一原理群を、適切に定義された初期状態における原初的合意の対象それ自体として考えることだ、と。こうした原理は、おのれの利害関心を促進しようと努めている合理的な人びとが、自分たちの連合体の基本条項を定めるために、この平等な地位にあって受け入れると考えられる原理に等しい。(第二〇節、一五九一六〇

頁)

 

原初状態とは適切な〈契約の出発点をなす現状〉であって、そこで到達された基本合意は公正なものとなる、と言ってもよかろう。これが「公正としての正義」という名称のふさわしさを説明してくれる。つまり、この呼び名でもって伝えようとしているのは、公正な初期状態において合意されるものが正義の諸原理なのだとする考えなのである。(第三節、一八-一九頁)

 

公正としての正義が(それ以外の契約説的な見解と同様に)次の二つの部分から成り立っているという点を、この手始めの段階から強調しておくとよかろう。すなわち、(1)初期状態およびそこに課せられている選択問題の解釈、(2)そこで合意さ原理の論証である。(第三節、二二頁)れる一組の諸

 

第一原理各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。第二原理社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない――(a)そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ(b)全員に開かれている地位や職務に付帯すること。(第一一節、八四頁)

 

二つの原理は、第一原理が第二原理に先行するという逐次的順序に従って配列されねばならない。この順序づけは、第一原理が保護する平等な基本的諸自由の侵害は、社会的・経済的利益の増大によって正当化されえない(あるいは補償されえない)ということを意味している。(第一一節、八五頁)

 

自由の優先権は次のことを意味している。すなわち、基本的な諸自由が実効的に確立されるときはいつでも、経済的な暮らしよさの増進のために自由の削減もしくは不平等な自由を受諾することはできない、と。(第二六節、二〇七頁)

 

〈政治的な自由〉(投票権や公職就任権)と〈言論および集会の自由〉、〈良心の自由〉と〈思想の自由〉、心理的抑圧および身体への暴行・損傷からの自由(人身の不可侵性)を含む〈人身の自由〉、〈個人的財産=動産を保有する権利〉と法の支配の概念が規定する〈恣意的な逮捕・押収からの自由〉。第一原理はこうした諸自由が平等に分かち合われるべきだとする。(第一一節、八五頁)

 

ところで前述の通り、基本財は〈合理的な人間が他に何を欲していようとも、必ず欲するだろうと想定されるものである。個人の合理的な計画の詳細がどのようなものであるかに関わりなく、その持分が少ないよりも多いほうを選好されるものがいくつか存在すると想定される。そうした財をより多く持つ人間は、自らの意図を実行したり自らの諸目的を促進したりする上で、通常より大きな成功を保証されるだろう。(第一五節、一二四頁)

 

私たちは自尊(もしくは自己肯定感)を二つの側面を有するものとして定義することができよう。第一に、[・・・]自尊は自分自身に価値があるという感覚を含んでいる。すなわち、自分の善についての構想、つまりおのれの人生計画は、遂行するに値するという揺るぎない確信を自尊は含んでいる。そして第二に、自分の能力の範囲内にある限り、おのれの意図が実現できるという自己の才能に対する信頼を、自尊は含意している。自分の計画にはほとんど価値がないと感じるとき、私たちはその計画を喜んで追求することはできないし、またその計画の遂行を楽しむこともできない。失敗や自己不信によって悩まされることがない場合にのみ、私たちは自分の目的に向かう努力を継続することができる。(第六七節、五七七五七八頁)

 

私たちの目的に向かう努力が仲間によって正当に評価されないならば、そのような努力には価値があるという確信を私たちが維持することは不可能である、ということは真であり、そして同時に、私たちの行なうことが他の人びとの賞賛を誘い、また彼らに喜びを与える場合にのみ、彼らはそうした努力を価値づける傾向にある、ということもまた真だからである。[•••]人びとが自分自身を尊重し、そして相互に尊敬し合うための条件は、人びとの共通の計画が合理的であり、かつ補完し合うということを要求しているように思われる。(第六七節、五七九頁)

 

そこで秩序だった社会にあっては、〈対等な市民としての暮らし〉という地位を全員に付与することが公共的に確約されることを通じて、自尊が確保される。[…]最善の解決策は、基本的な自由を実際に等しくしうるよう割り振ること――これが全員に平等な地位を定めてくれる――によって、できる限り自尊という基本財を支えるところにある。(第八二節、七一五七一六頁)

 

平等には多数の形態があり、また平等主義にも複数の強調度合いを容れる余地がある、である。私の想のだが、平等主義的な性質を即座に見てとれる正義の構想が複数存在する。それらの構想の間にある種の重大な不一致がたとえ認められようとも想定によれば、正義の二原理は〈平等主義〉という括りに含めることができる。(第八一節、七〇五頁)

 

この正義の構想は、異なる善の構想の相対的な利点を評価しようともしない。その代わりに、社会の構成員は合理的な諸個人であり、各自の善の構想をおのおのがおかれた状況に適合させる能力を持つということが想定されている。異なる個人の善の構想がひとたび正義の諸原理と両立可能だと推定されれば、善の構想の真価を比較する必要はなくなる。自らが好む人生計画が正義の要求事項を侵害しない限り、どんな人生計画であれ、それを追求しうる平等な自由が万人に保証されている。(第一五節、一二七頁)