先週、イースターの祝会で、スピノザ『神学・政治論』を少しずつ読んでいる話を夫先生に振られて、聞いた妻先生が呆れるという場面があった。勘所の掴み上手なスピノザから学ぶことは多い。スピノザはユダヤ人ではあるが、下巻の15章までが新約聖書を含んだ神学で、以降が旧約聖書の世界に見られる宗教的政治現象の分析となっている。神学も政治論も、がらがらポンで見事な聖書理解を繰り出してくる。聖書解釈ではカルヴァンもボンヘッファーもすごいね、となるが、スピノザには、これが理性だがや、古典だがや、と名古屋みを感じる。3人とも教会、シナゴーグから仕打ちを受けている。

 

スピノザ全集の刊行が遅れている。おそらく『神学・政治論』は最後かなとゆったり待っているが、『エチカ』を読み直すものいいかな。

 

先週の聖書箇所、エレミア書7章9節に「心の板」という言葉が出てくる。心で引照を辿ったが、心の板についてスピノザが書いていた。箴言、エレミア書、二コリに出てくる心の板である。ぐぐっときたので、以下には引いてこなかった。

 

 

本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている。

 

「ヨハネの手紙」第四章十三節

「これによってわたしたちは、わたしたちが神のうちにあり、神ご自身がわたしたちのうちにあることを知るのです。神はそれを、ご自身の霊からわたしたちに与えてくださったのですから」

 

まともな宗教であろうとなかろうと、ともかく宗教というものを儀式や仕掛けで飾り立てようとした。こうすることで宗教を他の何よりも重大なもののように見せかけ、いつでも誰からも最高の敬意を払われるようにしようとしたのである。

 

そもそも聖書というものはどのように解釈すべきか示しておく。聖書のことであれ霊魂にまつわることであれ、そういうことについての知識はすべて聖書それ自体から得ようとすべきであり、決して自然の光で理解できるようなことから得ようとしてはいけないのである。

 

民衆は(迷信にとらわれやすく、永遠そのものよりも時の遺物を好むから)神の言葉それ自体よりも聖書の各巻を崇拝しがちなので、そこからさまざまな先入見が生じてきた。

 

啓示された神の言葉とは特定の巻数の書物ではなく、預言者たちに啓示された神の精神であり、その精神を伝える単純明快な考えのことなのだということを示す。その考えとは、正義と愛の心を養いつつ、曇りのない心で神に仕えるということである。

 

わたしも人間だから、誤ることもあると自覚している。ただそう簡単に誤らないための細心の配慮は重ねてきたし、また特に、何を書くのであれ、祖国の法律や道徳心やよき習わしと完全に対応するよう配慮してきたつもりである。

 

わたしの知るところでは、今日預言者は一人もいない[=だから「口頭で伝えられる」というのはありえない」。そうするとわたしたちに残された手段は、預言者たちの残していった聖なる文書の各巻[=聖書]をひも解くことしかない。この際もちろん、そうした事柄について預言者たち自身がはっきり述べていないことを断言したり、彼らの意見として扱ったりしないように注意しなければならない。

 

正直に言ってしまうと、わたしにはそういう教義は理解できないのだ。先ほどからのわたしの主張は、みな聖書だけから組み立てている推論である。つまり聖書のどこにも、神がキリストの前に現れたとか語ったとかいう記述は見られなかった。これに対し、神はキリストを通して使徒たちに啓示されたとか、キリストは救済の道であるとか、古い律法は神から直接にではなく天使を介して伝えられたとか、そういう記述はあった。ということは、モーセと神がまるで仲間同士がよくやるように顔と顔を突き合わせて(つまり両者の身体を介して)語り合ったのに対し、キリストと神はむしろ心と心でつながり合ったのである。

 

さてここからは、聖書でよく言われる、預言者たちに吹き込まれた神の霊とは何なのかということを考察してみたい。言いかえれば、預言者たちが神の霊によって語ったと言われているのは一体どういう意味なのかということである。これを明らかにするために、まず差し当たり、一般に「霊」と訳されるヘブライ語のルアハとは何を意味しているかを探らなければならない。

 

ルアハという言葉は、よく知られているように、もともとは風を意味している。これ以外にもさまざまなことを示すのにとてもよく用いられるが、それらの意味はすべてここ[=風という原義]から派生したものである。以下に用例を上げる。

 

一 息を示すのに用いられる場合。たとえば『詩編』第一三五章十七節に「彼ら[=異教の偶像]の口にはルアハが通っていない」とある。

二 生命や呼吸を示す場合。たとえば『サムエル記上』第三十章十二節に「そして彼にルアハが戻った」とある。息を吹き返したという意味である。ここから転じて、

三 勇気や強さの意味にも用いられる。たとえば『ヨシュア記』第二章十一節に「それからというもの、どの男のうちからもルアハが消えてしまった[=みな気力が萎えてしまった]」とあり、また『エゼキエル書』第二章二節にも「そしてわたしのうちにルアハが(つまり力が)やって来て、わたしを自分の足で立ち上がらせた」とある。ここから転じて、

四 能力や適性の意味にも用いられる。たとえば『ヨブ記』第三十二章八節に「たしかに、それ[=知恵」は人間のうちにあるルアハである」とある。つまり、知恵とはそもそも老人だけが持っているものではない。わたし[=語り手]の考えでは、知恵の有無はひとそれぞれの力量や能力にかかっている、という意味だ。『民数記』第二十七章十八節にも「うちにルアハのある男[=気骨のある、有能な男]」とある。

 

五 心に感じたことの意味にも用いられる。たとえば『民数記』第十四章二十四節に「その者には別のルアハがあったので」とある。心にあった気持ちや考えがみんなと違っていたということである。『箴言』第一章二十三節にも「お前たちにわたしのルアハ(つまり考えていること)を洗いざらい語ろう」とある。またこの意味では意志、決断、心を動かす衝動や激情を示すのにも用いられる。たとえば『エゼキエル書』第一章十二節に「行こうとするルアハ(つまり意志)が向いた方へ、彼らは行った」とある。『イザヤ書』第三十章一節にも「わたしのルアハによらず融和を進めようとして」とあり、第二十九章十節にも「神は彼らの上に眠りのルアハ(つまり衝動)を注いだから」とある。また『士師記』第八章三節に「すると彼らのルアハは鎮められた」とある。ここは激情の意味である。『箴言』第十六章三十二節にも「国を攻め取るよりも、自らのルアハ(つまり衝動)を治める方がよい」とあり、同書第二十五章二十八節にも「自らのルアハを抑えられない男は」とある。また『イザヤ書』第三十三章十一節にも「お前たちのルアハはお前たち自身を焼き尽くす炎となる」とある。

 

さらにこのルアハという言葉は、心を意味する場合、心に生じるあらゆる感情やさらには特性を表現するためにも用いられる。たとえば「高いルアハ」は高慢を示す。「低いルアハ」なら謙遜、「悪いルアハ」なら憎しみや憂鬱、「よいルアハ」なら善意のことである。嫉妬のルアハ、淫行のルアハ(つまり衝動)などもある。「知恵のルアハ」「用心のルアハ」「強さのルアハ」などもあるが、それぞれ(ヘブライ語では形容詞よりも名詞をよく用いるので)賢い心、思慮深い心、強い心のこと、言いかえれば賢さ、思慮深さ、強さといった徳目のことである。他にも「親切のルアハ」等々がある。

 

六 精神そのものや、いのちそのものを指すこともある。たとえば『コヘレトの言葉』第三章十九節に「ルアハ(つまりいのち)は誰にでも等しくある」とか、また[第十二章七節に]「そしてルアハは神の元に帰る」とある。

 

七.最後に地上の方角(その方角から吹いてくる風のため)、また何かあるもののその方角に向いた面を示すこともある。『エゼキエル書』第三十七章九節や第四十二章十六~十九節などを見てほしい。

 

ヘブライ語で霊[=ルアハ]とは精神を意味することもあれば、精神が決めた何かを意味することもあったし、またここから転じて、律法が神の精神を説き明かしているということで、律法そのものを神の霊または精神と呼ぶこともあったからである。

 

想像力に秀でた人はものごとを純粋に知的に理解するのが苦手なものだ。これと反対に知的な理解力に秀でた人、知性がうまく育っている人は、想像力の方はむしろ控え目というか、いつも引き締めを怠らない。まるで手綱でも付けているかのようだ。これは知識に想像が混じってしまったら台無しだからである。

 

ノアはパレスチナの外の世界には誰も住んでいないと思っていたのである。

 

彼らが賞賛され高い評価を受けているのは知能が高く優れていたからではなく、道徳的で節操が固かったからだと簡単に分かるだろう。

 

旧約聖書の中で神について理性的に語った人物といえば、ソロモンには誰もかなわない。この人は自然の光[=人間本来の認識能力、つまり理性]において、彼の分の方が上だと考え時代のあらゆる人を上回っていた。だからこそ、彼は律法より自分のほうが上だと考えていたし(律法というものは実際、もっぱら理性や自然の知の教えに頼れない人たちのために伝えられたものだった)、王を見張るための主に三ヶ条から成る律法(『申命記』第十七章十六~十七節を参照してほしい)をみな軽んじ、堂々と破ることさえあった(もちろん彼はこの点では過ちを犯し、哲学者にもとることを行った。つまり情欲におぼれたのである)。死すべき定めの人間にはどんな幸運も空しいと説き(『コヘレトの言葉』を参照)、ひとが持てるものの中で知性ほど貴重なものはなく、愚かであること以上の罰はないとも説いた(『箴言』第十六章二十二節を参照)。

 

サムエルの信じる神は、一旦何かを決めたらそのことを決して思い直さないはずだった(『サムエル記上』第十五章二十九節を参照)。サムエルはサウルが自分の罪を悔やんで、神に祈りながら許しを乞うたのに、神の彼に対する処断は変わらないだろうと言っているからだ。ところがエレミヤには、これと反対のことが啓示された(『エレミヤ書』第十八章八節および十節を参照)。つまり神は、ある民族に一旦何かを与えようと決めた時でも、その人たちがその後よい方向や悪い方向に変われば、恵みであれ災いであれ本当に与えるかどうか考え直すという。ヨエルの場合はもっと端的に、神は災いを下すのを思い止まることがあると教えている(『ヨエル書』第二章十三節を参照)。

 

預言者たちは思弁だけに関わる事柄、[隣人]愛や生活態度に関わらない事柄については無知でありえたし、事実無知であった。そしてお互いに異なる考え方を持っていた。したがってそのような彼らから、見えるものも見えないものも含めたあらゆる事柄についての知識を得ようとするなど、全くありえないことなのだ。

 

預言者たちの言うことを信じなければならないのは、それが啓示の目的や核心に関わっている場合に限られる。それ以外の事柄は、それぞれが好きなように信じて構わない。たとえば、カインの啓示からわたしたちが教えられるのは、神がカインをまともに生きるよう戒めたということだけである。それがこの啓示の意図であり核心であって、人間に自由意志があるとか、その手の哲学的な事柄を教えようとしているわけではないのだ。だからたとえあの「神の]戒めの言葉や理由の中で自由意志の存在がはっきり前提されていても、わたしたちはそれと反対の考えをもって構わない。

 

はたして預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのか。それともむしろ

どの民族にも共通するものなのか。

 

神はアダムに、その木の実を食べたら必ずふりかかるはずの災いは啓示したけれども、災いがふりかかること自体の必然性は啓示しなかったのだ。その結果、アダムの方はその啓示を必然的な永遠の真理ではなく法として、つまり賞罰を伴う決まりとして受け取ることになった。賞罰とは、行われたことそのものの必然性や本性からふりかかってくるものではなく、もっぱら支配者の好みや勝手な命令に基づいて与えられるものである。こういうわけで、その啓示はアダムから見た限りで、もっぱら彼の認識不足のために法となったのだ。そして神はそのようなアダムにとって、いわば立法者あるいは支配者だったのである。

十戒がヘブライ人たちにとって法[=律法であったのも、このこと、つまり認識不足のためなのだ。彼らは神が存在することを永遠の真理だと分かっていなかった。だからこそ、神が存在することや神だけを敬うべきことを十戒の中で啓示された時、彼らはそうしたことを法として受け取るしかなかったのである。もし神が物理的な仲立ちを用いずに直接彼らに語りかけていたら、彼らはこうしたことを法ではなく永遠の真理として受け取っていただろう。

 

いまイスラエル人やアダムを例に語ったことは、神の名において法を記したすべての預言者にもあてはまる。つまりそうした預言者たちも、神の取り決めを永遠の真理として十全に把握していなかったのだ。たとえばモーセですらそうだったと言える。彼はイスラエルの民をこの世の一定の地域でできる限りうまくまとめて、統合的な社会を作ろうと、つまり国家を建設しようとしたのだが、その方法を見つけるために啓示や啓示から得た原則に頼っていた。さらに、イスラエル人にうまく服従を強いる方法を見つけるのにも、同様の啓示が必要だった。ところがモーセは、そうした方法が最善であることや、またその地で民全体がうまく服従してくれれば、彼らが念頭に置いていた目標[=イスラエル国家の建設」に到達するのは必然であることを知らなかったし、また啓示されもしなかった。だからこそこれらすべてを、モーセは永遠の真理ではなく指図や取り決めとして受け取り、神の法としてひとびとに課したのであるそしてここから、彼は神を指導者、立法者、王、憐れみ深いもの、正しいもの等々として思い浮かべるようになった。実を言うと、これらはみな人間のあり方にしか属しえない性質なので、神の本性を表すのには用いないよう徹底するべきなのだが。

 

くどいようだが、このことはあくまで神の名において法を記した預言者たちだけの話であり、キリストには当てはまらない。キリストは、やはり神の名において法を記したようにも見えるけれども、実は[先ほどの預言者たちと違って]ものごとを本当に、十全に把握していたと考えられるからである。実際、キリストは預言者というよりもむしろ神の口であった。神は(第一章で示したように)キリストの精神を通じて人類に何かを啓示したからだ。この啓示は、それ以前には天使たち、つまり[神によって]作られた声や幻影などを通じて行われていたのである。

 

よいことはそれが災い[=悪」の反対だからではなく、よいことだからこそ行ったり求めたりしなければならないということらしい。つまり善は善への愛から求めるべきで、悪への恐れから求めてはならないということだ。なぜなら既に示したように、よいことを本当に理解し愛しているからこそよい行いをするならば、その人は自由な揺るぎない心で行為していることになる。これに対し、災いを恐れてそう行為しているだけの人は、災いに強いられて奴隷的に行為し、[災いという]他のものに支配されて生きているのである。したがって神がアダムに与えたこの唯一の戒めは、実は自然の神の法すべてを包括していて、自然の光の指し示すことと全面的に一致する。

 

もしひとびとが既に本来の性質上、本当の理性が指し示すものしか求めないようにできていたら、社会は間違いなく何の法律も必要としなかったろう。ひとびとに本当の道徳さえ教え込んでおけば、後は一人一人が自発的に、揺るぎない自由な心をもって、本当に有益なことを行ってくれるというわけで、それだけでまったく問題はなかったろう。しかし現実には、人間本来の性質はこれと似ても似つかないあり方をしている。誰もが自分の利益を求めているのは確かだが、健全な理性の勧めに従うことはほとんどない。むしろ大部分の人は欲情に駆り立てられ、さまざまな感情に心を

奪われて何かを欲しては、その欲しているものを有益だと判断してしまう(後々どうなるかということも、他のものごとのことも考えに入れられないのが感情というものなのだ)。だからこそ、どんな社会も支配関係や制裁力なしには、つまりさまざまな法なしには存続しえない。法の力でひとびとの欲情や抑えのきかない衝動を和らげ、抑制しなければならないのである。

 

その一方で人間は、絶対的な強制を受けることには本来のあり方からして耐えられないようにできている。セネカも悲劇作家として言っているように「暴力的な支配を長続きさせられたものは誰もいない。長続きするのは節度をわきまえた支配なのだ」。

 

わたしたち人間は、ひとを理解するには行いから理解するしかないのである。たとえば、もしある人が、愛、喜び、和合、寛大、慈しみ、善意、誠実、穏健、節度といった徳目を体現しているならば、その人は(パウロも『ガラテヤの信徒への手紙』第五章二十二節[正確には二十二~二十三節]で言うように)それに反する法などありえないような数々の実りに満ち溢れている。この場合このような人は、それを理性だけに教わったのであれ聖書だけに教わったのであれ、本当に神の教えを受けた人であり、完全に幸福な人なのである。

 

しかしものごとを奇跡に頼らず、はっきりした概念でとらえようと努めている哲学者にとっては、そのような整合性は常にあって当然のことだった。もちろん、ここで哲学者と言ったのは、徳に満ちた平静な心を持つことだけが本当の幸福だと考え、自然を自分にではなく自分を自然に従わせようと努めている人たちのことだ。神は人間の本性だけに当てはまる法則に応じて自然を導くのではなく、自然の一般法則に応じて自然を導く。したがって神は人類だけでなく、自然全体を念頭に置いている。こうしたことが彼らにははっきり分かっていたのである。

 

聖書の中で本当に生じたと語られていることは、みな万物と同じく、自然の法則に従って必然的に生じたのである。そしてもしそこに、どう見ても自然法則に反するか、どう見ても自然法則から帰結しえなかったと立証できるようなことが見出されるならば、わたしたちは断固として、それは神を汚そうとする人たちによって聖書に付け加えられたと考えるべきなのだ。自然に反することは理性に反し、そして理性に反することは不条理であり、また不条理であるがゆえに退けられるべきだからである。

 

聖書は神の言葉であり、ひとびとに本当の幸福、つまり救済に至る道を教えてくれる。と、口ではみんな言うけれども、実情は全く違う。それはひとびとがしていることを見ただけで露骨に分かる。聖書の教えに従って生きることほど、民衆が気に掛けていないことはないように思われるし、またわたしたちの見るところでは、ほとんど誰もが、自分の思いつきに過ぎないものを神の言葉と偽っている。彼らが目指すのは他でもない、宗教を口実にして、自分たちと同じ考えを持つように他人を強制することなのだ。

 

聖書に込められた思想も、それが道徳的な教えにまつわることであれば、聖書の歴史について持てる限りの知識を駆使して簡単に把握できるし、その真意を確かめられる。本当の道徳心にまつわる教えとは、とても一般的な、ややこしくない、簡単に分かるものばかりであり、したがってごくありふれた言葉で表現されるものだからである。また本当の救済や幸福とは心が本当に安らぐことにあり、そしてわたしたちに本当の安らぎをもたらすのはわたしたち自身がはっきりと理解できるものに限られるのだから、明らかにわたしたちは、救済にまつわることや幸福になるために必要なこ

とについては、聖書の思想を確実につかめるはずである。だから、その他の[聖書の内容はそう気にかけなくてよい。それらは大抵の場合理性や知性ではつかみようがなく、ためになることよりも好奇心をあおることに満ちているからだ。

 

もし「コリントの信徒への手紙二』第三章三節にある使徒の言葉通り、ひとが自分自身の内に神からの手紙を持つならば、つまり「石の板にインクで書かれた手紙でなく、心という肉の板に神の霊によって書かれた手紙」を持つならば、文字を崇拝するのも止めてほしいし、文字のことであれほど思い悩むのも止めてほしい。

 

律法[=神の命令]の内容は結局のところ、隣人を愛せよという一点に尽きる。したがって本当の意味で神に従う人、律法に従う幸福な人とは、神の指図に基づいて隣人を自分自身のように敬う人のことなのだ。反対にこれを憎んだり軽んじたりする人こそ、神に逆らう頑固な人なのである。これもまた誰にも否めないことだろう。

 

神学が理性の下働きをする必要もないし、理性が神学の下働きをする必要もない。神学と理性は、それぞれ自分の支配領域を持つべきなのだ。つまり既に述べたように、理性は真理と知恵の領域を支配し、神学は道徳心と服従の領域を支配するべきなのである。

 

理性こそ精神の光であり、理性なしには、精神は夢や幻しか見られないのである。

 

聖書全体について大枠で確認しておこう。既に第七章でも示したように、聖書の意味はもっぱら聖書そのもののたどった歴史に基づいて決めるべきであり、自然のたどる普遍的な歴史[=普遍的な自然法則]に基づいて決めてはいけない。後者に基づくのは哲学だけだからである。また、こうした作業によって本当の意味が究明でき、仮にその結果聖書があちこちで確実に理性に反することになるとしても、ためらってはいけない。聖書に見られるこの手のことは、つまりそれを知らなくても愛の教え]に差し障りのないようなことは、神学つまり神の言葉とは全く関係ないからだ。だからこうしたことについては、ひとがそれぞれ好きなように考えても罪を犯したことにはならないのである。したがって聖書が理性に合わせる必要もないし、理性が聖書に合わせる必要もない。これがわたしたちの端的な結論である。

 

聖霊が確証を与えてくれるのは、よい行いにまつわることに限られる。だからこそパウロも『ガラテヤの信徒への手紙』第五章二十二節で、よい行いを「聖霊のたまもの」と呼んでいるのである。そしてこの聖霊とは、実はよい行いをする時に心のうちに生じてくる安らいだ気持ち以外の何ものでもない。