ライティングを念頭に書くようになり、テクニカルライティングから入ったが、どうもいまいち目的にフィットしない、相手に適切に伝わっていないということがわかってきて、ここ3か月ほど修正している。テクニカルライティングはどうしても方向感が上から下への伝え方になってしまい、上向きに伝える文章に使うと、あいつら何やっとんだ、となる。

一度スタート地点に立ち返り、基本からやり直している。お手紙を書くように。

本書は論理学とタイトルにあるが、ロジカルライティングの基本的な考え方の説明を行っている。

ロジカルライティングからリーガルライティングに向かうことにしていて、同時並行でお手本のような文章を書き写すというのもありだなと、手を動かすことにした。

 

 

以降、take noteの抜粋

 

 じつは、私たちが一般になにかを「知っている」と呼んでいる状態は、この自転車の乗り方のように、知ってはいるが、その内容がなにであるかはうまく言葉で示せない状態を表していることが多い。それは知り方が中途半端だということではない(日によって乗れたり乗れなかったりするわけではないからである)。「知っている」という事実が明白であるにもかかわらず、その内容がどうしても明白に説明することを許さないのである。こうした知のあり方は、自転車の乗り方だけでなく、箸の持ち方や、楽器の演奏の仕方など、一般に身体を媒介にして「体験して知る」ことであることが多い。

 

 論理というマナーにとっては、「いつでも」「どこでも」「人間なら誰でも」ということこそが大事なのである。それは一言でいえば、普遍性を求めているということである。それにしても、敬語の例から明らかなとおり、普遍性とは決して言葉の使い方の一般的な目標ではない。そうした言葉のうちに、人々が普遍性という価値をみるようになったのはなぜだろうか。

 

 言葉の建築物をつくる

 

 言葉を他人に届かせるとき、論理的で「わかりやすく」するとは具体的にどうすることだろうか。わかりやすいというからには、それがそもそも「わかる」という構造をちゃんともっていることが前提であるだろう。ところがこれは自明のことではないのである。言葉のすべてが、「わかる」ために語られているわけではない。

 

 設計図をもった言葉とは、接続表現が適切に配置されることで、言葉の建築物の全体構造がみえる(わかりやすい)もののことである。さて、その接続表現のなかでも、「~だから」という、「理由を述べる」表現の重要さを再度強調しておきたい。それを私たちはまず、言葉を使うときの、「わかってもらう」という「意識」のしるしとして取り出しておいた(本章I)。しかし結局それは、理由を述べる接続表現が、言葉の「わかる」構造のもっとも根幹であるという事実を反映していたのである。

 

 わかりきったことでも、理由と結論という形ではっきりと言葉に表すことは無駄ではない。むしろ論理というマナーの重要な使い方の1つだといえる。私たちは、自分自身がなにを知っており、なにを知らないのかが、そもそも明確でないことが多い。だから、理由と結論というかたちで、自身の知っている内容をわかりやすく言い表すことは、他人にとってだけでなく、自分自身にとっても有益なことなのである。

 

 議論のための日本語は、普段使いの日本語と比べて、より多彩な接続表現を頻繁に使用する。よって、事前にそれらをいくつかの種類に分けておくことが、全体像を理解するために有益である。接続表現は、議論のために担う役割に応じて次の3種に分けられる。

①前提と結論の関係を示す接続表現(本章2)

②与えられた内容を明瞭にする接続表現(本章3)

③議論の構造を複雑化する接続表現(本章4)

 このうち、もっとも重要なのは①の接続表現である。議論のための日本語はある事柄を説得力をもって主張するためのものであり、ある事柄を説得力をもって主張することは、その主張(結論)に対する根拠(前提)をきちんと示すことだからである。これに対して、②と③の接続表現は①と一緒に用いられることで、はじめて完成した議論となる。たとえば、②「与えられた内容を明瞭にする接続表現」だけで結ばれた2つの文には前提と結論がないため、根拠を示すことができない(例:「東京は今朝から発達した低気圧の影響を受けている。すなわち、今日は雨が降りやすい」)。①の接続表現によって示される「前提と結論の関係」こそが議論の要であり、それ以外のものは、あくまでそれに加えられる要素であることを忘れてはならない。

 

・主張文:パラグラフで主張する内容を述べる文。

・支持文:主張文で述べられた主張を支持するための内容を述べる文。

・まとめ文:主張文で述べられた主張を確認する文。

 

 長い論文の場合も短い論文の場合も、序論・本論・結びという基本構成と、そこで述べられるべき基本的な内容は変わらない。序論は依然として扱う問いと答えを事前に述べるべき場であり、本論はその根拠を、結びはそのまとめを与える場であり続ける。よって、どちらの場合も論文としてもっとも重要なのは次の点が守られていることである。

1.論文全体が、「論文の基本構成」に従って序論・本論・結びからなっている。

2.序論・本論・結びが、パラグラフを用いて適切に構成されている。

3.それぞれのパラグラフが、(非常に短いレポートの序論・結びといった例外を除いて)「パラグラフの3部構成」に従って主張文・支持文・まとめ文からなっている。

4.主張文・支持文・まとめ文が、適切な接続表現を用いてつなげられている。

 

アウトラインの育成が論文の内容を豊かにする

 いままでみてきたものを含め、アウトラインを育てる過程で行うことになる作業を下記のようにまとめることができる。

・先行研究などから入手した内容を、論理構成に沿って箇条書きで整理する。

・不明確な内容を明確化し、説得力の弱い内容を補う。

・必要な内容が不足していることがわかった場合、それをつけ足す。

・無関係な内容がみつかった場合、それを削る。

・内容を読者に伝えるためにより適切な順序がみつかった場合、配置換えを行う。

 

アウトラインの適切さを見なおす

 なお、ここでは注意すべき点がある。第4章でパラグラフの3部構成を学んだとき、私たちは、1つのパラグラフにおいて、主張文とまとめ文は1つ、支持文は通常2つから6つであり、パラグラフ全体は200から400程度の字数を有するのが望ましいと述べた。練り上げたアウトラインをもとにパラグラフを書き出したときに、この基準から大幅にずれる事態が生じた場合は、たとえそのパラグラフが3部構成を一応守っていたとしても、その構成をアウトラインから見なおしたほうがよい。そこでは、必要以上に多くの内容が曖昧な形で盛り込まれているかもしれない。夕飯の例でいえば、このような献立に従って調理された料理は、一応料理の形をなしていても、量が多く味もぼやけた、食べる人の食欲を削ぐものになっている可能性がある。

また、それぞれのパラグラフの主張文だけを拾い読みしたときに、論文全体の流れが追えるかをチェックするのも、アウトラインの構成の適切さを検討する方法として有効である。第4章3の図4.3が示しているとおり、それぞれのパラグラフの主張文には、論文全体の主張を支持する主要な内容がくる。よって、アウトラインをもとに書き出したパラグラフの主張文のみをすべて拾い読みして、論文全体の流れがきちんと伝わらないと感じたら、アウトラインを見なおす必要がある。

 

 第7章と第8章で、他人の意見に論理的に反論する方法を身につけることにより、論理的思考力・表現力をさらに向上させる。相手を論破するには何に注目すればよいのか、逆に、自分が論破されないためには何に注意しなければならないのか。こうしたことを繰り返し意識することによって、議論の3要素である問いと答えと理由のつながりの、どこがどのように弱いのか、どのようにすればそのつながりを強くできるのか、繰り返し考えることになる。この繰り返しが論理的思考力・表現力を飛躍的に向上させる。それゆえ、EXERCISEを含めて、第3部の学習を徹底して行えば、各自で議論を行うときに、適切な議論を行う力が、以前に比べて格段にアップするだろう。

 

 単純論証とは、1つの理由から1つの結論を導く型をもった論証のことである。

 

 合流論証とは、複数の理由を列挙して1つの結論を導く型をもった論証のことである。

 

 結合論証とは、複数の理由が一体となって1つの結論を導く型の論証のことである。先に学んだ合流論証と似ているが、合流論証の場合は、複数の理由が別々に1つの同じ結論を導く論証なので、理由のうちのどれかがなくてもその結論を導くことは可能だが、結合論証の場合は、複数の理由が一体となってその結論を導くため、理由のいずれかが欠ければ、その結論を導くことはできない。

 

 結合論証については、次の点に注意する必要がある。すなわち、図6.1に示したように、①「神は死なない」(神は死なないものの集まりのなかにある)と②「人間は死ぬ」(人間は死ぬものの集まりのなかにある)という2つのことが前提されると、③「人間は神ではない」(人間と神との間に共通する部分はない)ということが自動的に決まるということである。死ぬものの集まりと死なないものの集まりとの間に共通部分はないからである。それゆえ、前提①②のどちらに三段論法がある。三段論法とは、2つの理由(前提)から1つの結論を導く論の運び方のことであるとここでは定義しておくことにする。ただし、2つの理由から1つの結論を導くといっても、2つの理由からなる合流論証や2つの単純論証が積み重なった論証というより、2つの理由が一体となって1つの結論を導く結合論証と考えるのが適切である。

 

 共通性による論法とは、他の人や物事との共通性を根拠にして、他の人や物事と同様の扱いを求める論じ方のことである(平等取扱いの原則による論法)。

 

アナロジー(類推)による論法とは、2つのものの関係の類似性を根拠にして、なんらかの結論を主張する論法である。

 

 PREP法とは、話の内容を要点(point)→理由(reason)例(example)要点(point)という順序で述べることにより、自分の考えを論理的に表現する方法のことである(英語の頭文字を取って「PREP法」)。要点理由、例、要点という4項目のうち、2箇所の「要点」はパラグラフの「主張文」と「まとめ文」に相当し、その間にはさまっている「理由」と「具体例」は「支持文」に相当する。大学生の就職面接など手短かに意見に説得力をもたせる場でしばしば用いられる。

 

Column⑤真偽判断(事実判断)と価値判断との区別

 数学で学んだ背理法など、真偽判断を行う際の条件文の場合、たとえば、V2が無理数であることを証明するために√2は有理数であると仮定して論理的矛盾を導き、√2が有理数であることを偽とする。この論じ方は、価値判断について本文の「条件文の後半を否定する」で学んだ論法(条件文の後半にデメリットを示して、条件文の前半を否定するタイプ)に似ているが、次の点で異なっている。

 価値判断の文脈では、たとえば、抗がん剤治療を行えば副作用があるとわかった後で、その副作用という事実を避けたいという理由から、抗がん剤治療をしないこともあるし、副作用という事実を避けたいがその事実を我慢し、がんを治したいという別の理由で、抗がん剤治療を行うこともある。だが、背理法のような真偽判断の文脈では、たとえば√2は有理数であるという仮定から論理的矛盾を導いた後、論理的矛盾は避けたいがそれを我慢し、他の理由から、√2は有理数であると結論することはない。このように、背理法のような真偽判断の文脈では、仮定から論理的矛盾が導かれればその仮定は必ず否定されるが、価値判断の文脈では、条件文の後半が否定されてもそれを受け入れ、結論として条件文前半が肯定されることがある。

 条件文の場合に限らず、他のさまざまな場合についても、真偽判断において否定されること(肯定されないこと)が価値判断においては肯定されたり、その逆が行われたりするという共通の特徴がある。たとえば、地元の名士のメンツをつぶさないように嘘をつくことが「よい」とされる(本当のことをいうことが「よし」とされない)ことがあるかもしれない(その名士の前では)。映画や小説などの創作は、事実としては正しくなくても、多くの人々にとっての「楽しみ」(娯楽)となっている。神の存在は科学の領域では肯定されないが、そのように事実判断の場面で肯定されないものを、宗教は肯定する。

 このように、一般に物事が事実(真)かどうかを判断する文脈と、事実とされた物事、あるいは事実であるとはされない物事に、肯定的な価値を与えるか否かを判断する文脈とは区別して考えるのが自然である。それゆえ、条件文を扱う場合にも、冒頭に示したように、それが価値判断の文脈での条件文なのか、真偽判断(事実判断)の文脈での条件文なのかに注意する必要がある。

 

 検証型反論は、相手の意見をチェックしてその論証が成り立たないことを指摘する反論である。そして、論証とはなんらかの理由からなんらかの結論を導くことであった。それゆえ、検証型反論には、次の2つがあることになる。1つは、相手の論証の理由自体が間違っていることを指摘することであり、もう1つは、相手の論証の理由と結論とが必ずしもつながらないことを指摘することである。

 

 検証型反論のもう1つのタイプは、相手の論証の理由自体は正しいとしても、その理由からその結論は必ずしも導かれないことを、なんらかの証拠に基づいて指摘するものである。これを検証型反論(II)と呼ぶこととする。

 

CHART表7.3反論の注意点

注意点A検証型反論と代案型反論との区別

 検証型反論は、相手の論証の「理由」が正しいかどうかをチェックしているだけであり、相手の「結論」には賛成も反対もしていない

注意点B検証型反論を根拠にした代案型反論を行わない

 相手の論証の間違いを示しただけで相手の結論を否定するのは不適切

 

CHART表9.1命題論理の論理語

論理語             名称

○○○[は]ない         否定

○○○そして(かつ)△△△     連言

○○○または(あるいは)△△△   選言

○○○ならば△△△        条件法

 

 最後に、推論の妥当性とは、「前提が成り立つ(真である)と認めるとき、結論も必ず成り立つ(真である)と認めなければならないこと」を指す。このような意味で論理的に「妥当な(正しい)推論」を演繹(演繹的推論)という。以下では、演繹をたんに推論と呼ぶこともある。

 それでは、命題論理における「論理的な妥当性」にかかわる型をみていくことにしたい。幸い、型の基礎になるのは、論理語と呼ばれる表9.1の4つの語だけである(記号論理で使われる名称も併記しておく)。

 

 複数の前提が並置されていることを示すという役割のためには、「そして」よりも「かつ」を用いたほうが無用の誤解は防げる。そこで、日本語として不自然になる場合を除き、論理語としては「かつ」を用いることにする。

 

 記号論理にとって直接の関心事は、前提から結論への導出において用いられる「推論の型」が論理語を適切に使用しているかどうかである。その限りにおいて、前提となる命題が実際に真か偽かという真偽問題は、記号論理の直接の対象にはならない。とはいえ、具体的な論証的議論について記号論理を活用するときには、事柄そのものとして真偽問題をどのように考えるかという課題に直面することにもなる。