裏山に先祖の古墳があったりする家に嫁いで、古いしきたりや常識に「縛られて」過ごしてきたけど、今年のお盆は私には一味違ったものになりました。
先祖は生きてる人より大切
一族の中にそんな暗黙の鉄掟があるように感じてました。訳も分からずみんながするとおりにやってきたけど、最近わかってきたのは、死んだ人も生きてる人も、どっちも尊重されるものであり、どちらかが犠牲になるようじゃオカシイと思うねん。
お盆の本質は、命を繋いで見えないところで見守ってくれている祖先に感謝する機会。それを忘れなければ、その他の作法やモノなどは二の次であるのに、作法やモノが前面に出てくると、心がざわざわし始めます。
「お盆なのに子供たちが帰省しない」とか「例え雨が降ろうが雷が鳴ってようが13日に必ず迎え火を炊かないと」とか、「お盆は家族全員でお墓参りしないと」とか、どうでもいい「ねばならぬ」事に振り回され、当然思う通りにいかないことも出てきて、そのたびにイライラしてたら、先祖も残念やろうね、と思いました。
ご先祖様たちは子孫に何を願うのかなって想像したとき、そんなこと願ってないやろ?と思うのは
・必ずオハギを食べたい ←甘いものが好きなお方ならね?
・仕事休んでなにがなんでも墓参りしてくれ ←お墓の中にはいないから
・塔婆は一番高価なヤツで ←生きてる人の見栄やろ?
・ご馳走並べて。メロンは外しちゃダメ ←生きてる人の見栄やろ
・提灯は豪華に飾って ←生きてる人のm(略
・お供えものは位牌から名前が読めるように逆向きに置いて ←位牌の中に座ってるの?
・まさか親戚一同が会するよね、絶対に孫の顔が見たい ←あの世には物理的距離はないから
各地でいろんな風習があると思うのだけど、それを伝承する方法として「強いる」から反発するのだと思うのよね。「ねばならぬ」じゃなく「〇〇だったら嬉しいかもね?」程度で、選択の自由を残せば、どうやったら喜んでもらえるかな、って想いを馳せることが出来るねん。
自分が先祖と言う立場になった時、子孫に何を願うのかって想像すると
・仲良く助け合えたらうまくいく事もあるよ
・私は私の新しい旅に出ちゃうから、思い出してくれなくても全然構わないよw
・なんならお墓とかもいらん。骨もちゃんと地球に還しといてや。
・見守っていてって?たまには見てあげるけど、自分の人生は自分で歩くものだよ
・叶えて?自分で叶えなさい、その力がおまえにはちゃんとあるよ
・どうしたらいいのって?心から笑えるように努力しなさいよ
・教えて?そういうなら教えてあげるよ、教えたい事いっぱいあるんだ。心の声きいといてやー
・毎朝お線香あげた方がいいかって?自分と対話する時間ってことならあったほうがいいよ
そんなとこかなぁ。薄情すぎる?w
肉体を持ってるかどうかという違いだけだから、性格の違いはあるだろうね。子孫の繁栄を妬んだり、現世に後悔や自責があると子孫に投影してくるご先祖もいるらしいけど。妬み僻みを構うのは優しさじゃない、バッサリ切っちゃえと思っちゃうけど、その人生がワタシの人生を繋いでくれたのだと思えば、やっぱり感謝なんだよね。有難うございました。 ←その程度かと言わないでw
本質ってなんだろうと分った今年は、誰が何を言っても、揺るがない信念に照らし合わせて、要と不要を分け、不要はさら~と流せるようになりました。長かった~。たぶん、親類縁者は目をパチクリしてるかもしれないんだけど、旧家に風雲児が嫁に来たのもそれなりの理由があるのかもしれず(笑)
決して御家転覆を目論んだスパイではありません。
レゲエが流れるお盆
嫁はワイン片手にカレーを作り
愚痴大会から離れたサクラの木陰で
甥と姪たちのジンロウゲームに大笑いw
みんなが大きくなる世代は
もっと笑って生きられるといいなー