暖簾が仕舞われたままの「権助」の中で、僕と権助兄ぃは気だるい雨音を聞きながら、支援物資の缶詰をつつきつつ缶ビールを飲んでいた。

今秋、紀伊半島を襲った台風12号は、ほうぼうで家や山を洗い、押し流す程の雨を落として行った。

この一帯に電気を供給していた変電所も、有り得ないほどに増水した熊野川に洗われ送電は止まった。

送電経路を代えてようやく電気が復旧した後に僕は「権助」を訪れたのだが、僕の「何か手伝うことを」とはやる気持ちとは裏腹に、追い討ちを掛けるような慈悲の無い大雨が降り、どこかでまた地すべりがあったのか、倒木がその僅かな灯の糸を断ち切ったのか、数日前にやっと復旧した筈の電気は、再び途切れた。

仕方なしに僕らは店舗の梁にぶら下げたヘッドランプの明かりの元でビールを飲み続けたが、暗闇の向こうから聞こえる権助兄ぃの、
「あかんなー、」
のトーンは、十数年前のそれと少し違っていた。




瀞峡ジェット船乗り場。屋根の狭間に流木が残されている。



こうやって電路が断たれるのか。



水流に倒された行き先案内の青看板を目の前にし、初めてその大きさを知る。
高く掛かった橋にも濁流に沈んだ痕が残る。



水位はどれほどまでに達したのだろう。



主の居なくなった車達の時間は、その時のままである。








権助兄ぃの実家は熊野川の支流、三越川沿いの奥番という所にあり、権助兄ぃ自身はその少し下流の川沿いの土地にトレーラーハウスを持ち込んで住んでいた。

継続雨量1000ミリをゆうに超えたかつてない程の大雨は、三越川が流れる谷沿いの山に大規模な地すべりを起こし、元の河道を完璧に埋めて土砂ダムを造った。

やがて逃げ場の無くなった水は土砂ダムを決壊させ、奥番の集落を貫く形で新たな河道を造り、激しい水の勢いは、その地面をさらに数十メートルの深さで掘った。

道は無くなり村は完全に孤立し、食料や燃料を無事だった高台の権助兄ぃの実家へ運び、殆どが高齢者だった村人は救助ヘリが来る迄の数日間をそこで耐えたのだった。

小さな村の真ん中に出来た大きな谷に数戸の家屋が崩れ、その下流に在った権助兄ぃのトレーラーハウスは濁流に流れて行った。





朝、役場へ支援物資の受け取りにお供した。
配ったことは有れど、貰いに行ったのは初めてである。




新聞も毎日届く。
文字でお腹は満たされないが、新聞が毎日届くという「皆にケアされている、繋がっている感」が被災者の安心に繋がる。



役場も水に浸かった。
やっと最近、役場としての機能が復活したとの事だ。