思い出話を投稿しようとして、
書き始めたら、
ものすごい長さになってしまいました。
そこでいくつかに分けて投稿します。
それでも一つひとつが長文なので、
時間のあるときに読んでみて下さい。

出来事は実話です。

頭の中は混みあってます。





どちらの月がお好きですか?






【春隣】




この塔の中にも行ってきました。昨年のことです。




コーヒーショップでセットメニューを注文すると、カウンターの女性はブレンドと番号札をトレイに乗せて提供した。
ホットサンドは少し時間をいただくのだという。
僕は承知してトレイを左手に持ち、カウンターを離れる。
そして、空いたテーブルにそれを置くと喫煙ブースへ向かった。

席は6割くらいが埋まっていただろうか。
2月初旬、週末午後のコーヒーショップは共通項の見出だせない人たちで
混沌とした空気が醸成されていた。


「ねえ、あなたも煙草をやめてみたら?」

何ともなしに煙をくゆらせていると、脳裏になぜか昔の恋人が話しかけてきて驚いた。
僕は再び煙草を吸うようになって何年か経つが、こうやって彼女が唐突に現れるのは初めてだった。
ブースにはPloom TECHの機種変更について書かれたポスターが貼られていた。
しかし僕はPloom TECHを使っていないし、使う予定もない。

昔の恋人は僕の言うことばかりきいていたくせに、
時たま意見をするその口調には、こちらの賛同を確信しているような不敵さがあった。
彼女は以前、一度だけ僕に禁煙を勧め、僕はそれに従った。






マイアミで暮らしていた彼女は帰省中の札幌で僕と知り合い、その後一時アメリカへ戻った。
そして、個人的な問題に終止符を打ち
部屋を引き払うと正式に帰国、
空港へ迎えに行った僕と交際を始めた。
親権を持たないとはいえ、僕にふたりの娘がいることを彼女は理解してくれた。
だが、どういう風に理解したのかはわからなかった。


ガラス張りのブースからは店内がよく見渡せる。
それは同時に、店内からはブースに閉じこもった僕らがよく見えるということでもある。
僕はさながら見世物小屋に設置されたガラスの舞台上で、
観客席は6割ほどが埋まっていた。
舞台には僕のほかに見世物が二人。
熱心にスマートフォンを見つめる若者と、
もう一人は不機嫌そうに背中を向けるサラリーマンだった。
紫煙をテーマにした演芸舞台に無関心を装う観客たち。
正面に座る子供は買い物を終えた母親を見つけ、そこへ駆け出していった。
僕は薄情にも二人を残してブースを出た。


店内はピアノの音色が微かに聞こえていたが、それが何の曲なのかはわからない。
週末のカフェ特有のざわめきが、音量の小さいBGMをより聞こえづらくしていた。
あるいは僕の耳が悪いことも、多分に関係しているだろうけれど。






昔の恋人は僕の10歳年下で、僕より10センチ背が低く、
肩に届く長さの髪は緩やかにウェーブしていた。
彼女は僕のことを名前で呼んだ。
後ろに「さん」も「くん」もつけず、呼び捨てにしていた。
それはきっと、年の差を意識しないようにと考えた彼女なりの誠意だったように思う。


僕の席ではウェイトレス(という呼び名は今の時代に不適切だろうか?)が、ちょうどホットサンドを配膳するところだった。
彼女はコーヒーの横に置かれた番号札を取り、
もう一方の手に持ったホットサンドをそこへ置いた。
白のブラウスに紺色のエプロン。
背後から近づく格好になったのでウェイトレスは僕の存在に気づいておらず、
お礼を言うとびっくりしたようにこちらを振り向き「すみません」と謝った。
僕は謝られるとは思わなかったので、
どう言葉を返すべきか、一瞬戸惑ってしまった。
それで、「大丈夫です」などと
よくわからないセリフが咄嗟に出たのだが、
彼女は「はい」と、少し大きな声で返答し、
矢継ぎ早に「ごゆっくりどうぞ」と型通りの声掛けをするなり去っていった。
硬い足音を響かせる後ろ姿に、
機嫌を損ねてしまったのかもしれない、と僕は少し案じた。