こんばんは。
 
 
 
 
 
 
気がつけば、前回の記事から三週間経っていました。
 
この三週間で、僕はというと
 
変化もあるにはありましたが、
 
それがブログを更新しなかった理由ではないんですね。
 
三週間空いた最も大きな理由は、
 
単純に言葉が浮かんでこなかったからです。笑
 
 
 
 
僕の場合、ちょいちょいそういうことがあります。
 
こんなおっさんの離島一人暮らしでも
 
日々のなかで出来事が全くないわけじゃない。
 
だけど、例えばそういう出来事をブログに書くとして
 
それが言葉を探す作業に感じてしまうと、途端に筆が進まなくなる。
 
実際は筆じゃなくて指だけど。
 
 
 
 
 
 
まあ、そんなことはいいか。
 
僕に起きた出来事や変化、それらの具体的な話は
 
そういうことを書きたくなった時にするとして、
 
今日ブログに書きたかったのは、変化の受け入れ方というか
 
自分自身の見つめ方というか、そういうことです。
 
 
 
 
といっても、内観の結果導き出されるものというのは
 
大抵がとてもシンプルで根幹的なのです。
 
言葉にすると「それ当たり前だよね? 」ってくらいの答えが
 
何故、内観なんかしないと導き出せないのかというと
 
結局のところ、物事を複雑にしているのは
 
他の誰でもなく自分自身だからなんですよね。
 
 
 
 
見栄、プライド、被害思考、建前、忖度、欺瞞、嫉妬…
 
自分の内面にある、物事を複雑にする要素はたくさんあって
 
僕が現代を生きる現代人である限り、
 
それらを完全に排除することは恐らく無理でしょう。
 
 
 
 
 
 
だけど、気づくことならできる。
 
内観して、自分自身を複雑にしている正体に気づいて
 
言葉にすれば当たり前と思えるほどシンプルな答えに出会うことを
 
僕は繰り返している。
 
繰り返しているといっても堂々巡りじゃなくて、
 
BeforeとAfterでは許せることが増えていると思うのです。
 
ほんの少ーしずつでも。笑
 
 
 
 
 
 
多分、誰でもやっていることだと思う。
 
だから、多くの人は知っているんだと思う。
 
根幹は至ってシンプルだということ。
 
物事を複雑にしている正体が自分の中にあること。
 
変化は、それに気づくまでの自分が作り出したものだということ。
 
他の誰でもなく、自分に起きた変化は自分自身によるもので
 
自分自身が自分を変えていくのだということ。
 
 
 
 
今この瞬間の自分は、その前の瞬間までの自分自身が起こした結果で
 
それは一秒後には経過に変わるということ。
 
そのことをわかった上で、
 
漣の赴くままに生きていくんだ、僕は。
 
 
 
 

 
 
 
明日はもっと、言葉を浮かばせる意欲が出ればいいけれど。
 
どうかな。笑
 
 
 
それでは。