おはようございます。

 

 

 

 

 

 

 

冬季オリンピックが終わって、今はパラリンピックが開催されているけれど

 

最近はスポーツ以外の報道番組も目立ってきたように感じています。

 

3月11日も迎えました。

 

 

 

 

 

今日は、ぼくが考える「報道」について書こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報道というのは、

 

自分が直接は知り得ないけれど、知ると利益になる事物を伝えてくれる。

 

 

 

 

その意味では貴重な反面、

 

その伝え方や文言の受け入れ方を誤ると

 

他人の価値観を無防備に吸収している、という危険な状態に陥りかねない。

 

そこは意外に難しいところでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世間一般的に言えば、どんな分野の報道でも

 

それが誰かの手によって作成されたものである以上、

 

作成者の目というフィルターを経由しています。





報道されている事柄そのものは、

 

そこに直接関わっている立場でなければ真実は見えない。

直接関わっていても真実が見えない、という場合もありますが、

 

少なくとも、どこで真実の扉が閉まっているのかを辿ることはできます。
 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくらは、自分の手で真実の扉を探しに行かない限り

 

つまり関係者にならない限り、報道によって事物を知ることになります。

 

 

 

 

 

だけど、報道には少なからず

 

真実を伝える以外の目的を持っている場合があることを

 

ぼくらはネットの時代に生きることで知ったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと横道にそれたかな。

 

 

 

 

 

本当は事物の現場を「自分の目で見る」ということが最も大切ですが、

 

自分の目で見られない現場だってたくさんある。

 

だから報道を頼りにするのですが、

 

報道で流された内容をただ受け入れてしまうのは危険だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大げさなことまで書きましたが、

 

最近あったテレビ報道で、個人的に許し難いものがありました。

 

 

 

 

 

3.11に関連した番組ですが、

 

最新のCGを使って、被災者と同じ目線で津波を再現するというもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを視聴して、津波がどれだけ危険かを多くの人に知ってもらう、

 

という大義名分など「まやかし」であると、

 

少なくともぼくたち大人は気付かなくてはならないと思いました。

 

 

 

 

 

 

番組では、最新の映像技術が投入されたそうで、

 

思わず目を見張るようなシーンの数々であったかもしれませんが、

 

実際の被災者がそれを視て、どう思うでしょうか。

 

恥ずべきことだと感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個人の価値観もある。それは分かります。

 

だけど、人の心を考えたとき、

 

踏み込んではいけない領域もあると知るべきではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報道は時に、華麗さや斬新さを身にまとってスキャンダラスに流されます。

 

だからつい目を奪われてしまう。

 

だけど、それらに目を奪われているだけではいけない。

 

それがぼくの報道に対する考え方です。