今現在思うこと。

 

 

 

 

「信じる」と「鵜呑みにする」

 

 

私はすぐに信じる。

 

信じる。ということがどんな時なのか具体的にしたとき

 

奇跡が起これば

誰も知らない私しか知らない事実を教えられそれが当たっていれば

智慧を教えられれば

 

 

妄信にも似た信じやすさを持っているのです。

信じるのではなく鵜呑みにしてしまうのです。

 

 

過去を振り返ったとき

「信じていた」のではなく「鵜呑みにしていた」のだと気づきました。

 

 

誰かや何かの言葉をただ純粋に信じながら進んだ結果。

ではなく

 

信じていたわけなのではなく

ただ租借せずに鵜呑みにし、聞き入れ

自我(エゴ)の喜びで進んでいたのだと。

 

 

ポジティブの波動には二種類あるのだと思います。

 

根元が純粋な幸せや喜びからポジティブにとらえたところから出す波動と

根元が自我(エゴ)の喜びでポジティブにとらえてところから出す波動は全く違い

 

 

前者は言われた言葉に対して執着がなくただ喜びの視点から次の喜びへと前進していくことができ、

後者は言われた言葉を湾曲して自己都合の良い言葉に置き換え執着しエゴの喜びを求めるのだと思います。

 

 

私がそうでした。

 

 

信用していた誰かや何かの言葉は間違いだった時、

被害者意識になることも可能で、同時に

その間違いを普及していれば自分自身が加害者にもなれる。

 

 

罪悪感を持つことも

恥を持つことも

自己否定を持つことも

誰かや何かを責めることも容易な心の状態になれるのです。

 

 

違和感を感じながらもその感じた違和感を「大丈夫」だと素通りさせて進んできたのは

ほかでもない私の選択です。

 

その違和感に気づいて向き合うことは信じていたことに対してそうではなかったという「恐れ」「絶望」がありました。

 

その違和感にすら気づかなかったのは自己の明け渡しもあります。

 

 

 

鵜呑みにする行為はとても危険だと身をもって感じています。

 

目に見える存在も見えぬ存在に対しても同じです。

 

 

自我のない純粋な心から自分を信じて進むことと

租借せずに外側の言葉を「鵜呑み」にして自己を明け渡すことは

 

している経験と出会う人、先にある未来が違うのだと思います。