Sunset Boulevard
1950年 アメリカ
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

◼️あらすじ

ハリウッドでの成功を夢見る若い脚本家ジョーは仕事ではスランプに陥り、生活では取り立て屋に追われて、どん詰まりを迎えていた。

そんなジョーに幸運な仕事が舞い込む。今や忘れさられたかつての大女優ノーマ・デズモンドが自身の復帰作として書いた脚本を手直しするというもの。

しかし、ジョーは脚本の手直しだけでなく、自身の全てをノーマに捧げることになってしまう。



◼️感想

ヒモ男(またの名をジゴロ、スケコマシ)と言えば、僕の周辺で忘れられないエピソードがありました。

還暦間近のA子さんは夫と別居してひとりマンション住まいをし、インターネットで知り合った30代後半のB男さんと同居を始めました。

B男さんは精神的な障害を理由に全く働くことなく、かと言って治療するでもなく、2人の生活は全てA子さんのお金で成り立っていました。

しかし、そのお金はA子さんの夫から毎月送られてくる仕送り。別居はしたものの、A子さんが生活に困らないようにと、夫が老体に鞭を打って稼いだお金です。そのお金がヒモ男のB男さんに使われていたとは夫は知らないままでした。

客観的に見ればA子さんはB男さんにいいように寄生されていたわけですが、当のA子さんは貢いでいるという意識はなく、「自分が再び幸せになることを証明したい」がために、B男さんに「投資」しているのだと。

つまり、A子さんの目的は自己実現。
そのサクセスストーリーの共演者としてB男さんが雇われた、と見ることができます。

視点を変えれば、「雇用主」を探すヒモ男にとっては格好のカモですな。

お互いの利害関係さえ合えば、女性がどんなに老いても、男性がどんなに落ちぶれてもヒモは成立するもんですねぇ。


そんなことを改めて感じたのが本作です。言わずと知れた米国映画史に残る傑作で、「過去の栄光にすがるハリウッド女優の没落」という切り口で語られることが多いようですが、僕は少し違う視点で楽しませてもらいました。

ヒモ映画として、です。

本作ではよくグロリア・スワンソン演じる元・大女優ノーマの役がクローズアップされますが、主人公はウィリアム・ホールデン演じる脚本家ジョーのほうですから、これはもう純然たる「ヒモが主人公の映画」ですよねぇ。

もちろん不朽の名作です!でもヒモ映画です。

とは言っても、本作はヒモになるためのメソッドを教えてくれるわけではありませんし、そもそもヒモを肯定的に描いてはいません。

描かれているのはヒモという存在や関係性の不条理です。

脚本家のジョーは仕事もなく、生活も困窮していて八方塞がりであることが冒頭で描かれており、これかヒモになる背景となります。

そして、ジョーは落ちぶれた大女優ノーマの「復活という自己実現」の共演者として「雇用」されます。

しかし、演じるウィリアム・ホールデンは容姿も良くてしっかり物のイメージの役者なので、ダメ男感はでていません。そのせいか、なぜジョーがあんなノーマのヒモ・情夫に成り下がってしまったのかという点がイマイチしっくり来ないのです。


僕だったら絶対ムリですわぁ…。ノーマの相手をするのは…。

だから余計にヒモの不条理が引き立つ、という点では狙い通りの配役なのかもしれませんね。

後半にはジョーだけでなく、もう1人タイプの違うヒモが登場するのですが、これがまた…「そういうスタイルのヒモもいるんだ?」という意味で衝撃的でしたね。結局は「共演者として雇用された」という点では同じなんですが。

ヒモに貢ぐ女性というのは、自己実現(幸せになる)というストーリーが目的で、ヒモに貢ぐことがその手段になっているんだなぁと思いました。

つまり、相手の男性にゾッコンになっているように見えて、実は自分のことしか見てないんですよね。


僕の評価:7点/10





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Let the Right One In
2008年 スウェーデン
監督:トーマス・アルフレッドソン
出演:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション

◼️あらすじ

学校でも家庭でも居場所がない孤独な少年オスカーは隣の部屋に引っ越してきた少女エリと出会う。
孤独な心同士が共鳴するかのように徐々に心を通わす2人だったが、彼らの周囲で不可解な連続殺人事件が起きる。



◼️感想

北欧ですなぁ。

北欧に行ったことないし、東南アジアに住む僕がそんなこと言ってもまるで説得力がありませんが、一般的にイメージされる「北欧っぽさ」が存分に出ていて、思わず「北欧ですなぁ」と口走ってしまう映画ですね。

ちょっと抽象的なんですが、僕が本作に感じた「北欧っぽさ」は

静謐

余白

残酷性

ですね。

実際の北欧を知らない人間が抱いている「北欧のイメージ」をベースにという前提で、ちょろっと書いてみやす。


①静謐

せいひつ。この言葉、なんとなく使ってみたかったんですよね。静寂とはちょっと違って「静かで穏やかな様子」という意味らしいですが、グッと文学的な香りが増すではありませんか。

本作は本当に静かな作品です。夜に何気なく鑑賞し始めるとうっかり寝てしまいそうです。

これって雪国特有の静けさなんですよね。本作の舞台は冬で常に雪が積もっている状態です。僕の地元も雪国なのでよく分かるんですが、積もった雪って音を吸収するから、雪国の夜は本当にシンッと静かなんですよ。

あの静けさと空気感が画面上から本当によく伝わってきますね。静まり返った中だからこそ、オスカーとエリが交わすモールス信号という物音が効いてくるのではないでしょーか。

それに屋外に人の気配が無くて閉鎖的な印象の街の様子というのも雪国らしさが出ています。この閉塞感がオスカーとエリの孤立感を引き立たせてるように思えます。

この静かな舞台が物語にうまくマッチしていますね。
そして何やら文学っぽさも醸し出しています。


②余白

本作は意図的に余白を多めに作っていると思います。

どっかの国の映画みたいに何でもかんでも台詞で説明しちゃう映画もあれば、単に説明不足ゆえの余白もあったりしますが、本作は余白の設計がうまいなぁーと思いました。

余白を作るというのは作品の底を敢えて見せないことだと思いますが、観客に想像や解釈の余地を残すことによって作品の広がりと深みを作り出していますね。

例えば、オスカーが別居している父親と楽しそうに過ごす場面。父親は本当にオスカーを愛している様子で、いつも暗い表情のオスカーが心の底から笑っているのを見て「あぁ良かったね」と思うんですが、父親の友人の男性が訪ねて来た途端に気まずい雰囲気になりますよね。

なに?この変な空気?と思ったのですが、「察してくれ」と言わんばかりに「変な空気」を超える説明はされません。

特に変わったのは父親の態度です。それまでオスカーに向いていた意識が一気に友人(と酒)に向いてしまい、それを感じてしまったオスカーも居心地が悪そうな様子です。

調べたところ、どうやら父親は、
A.その友人男性と恋愛関係にある
B.アルコールで人が変わってしまう
といった解釈があるようです。

いずれにしても、オスカーが「ここには居場所が無い」と痛感するということだけは観客に伝わるようになっています。ただその理由はご自身の経験と推測をもとに補完して下さいねウフフ、ということですね。

余白が余韻を生み出す好例だなぁと思います。


③残酷性

オッシャレ〜で小綺麗なイメージの北欧ですが、同時に血生臭い残酷性も似合うんですよね、なぜか。

『ドラゴンタトゥーの女』のオリジナルである『ミレニアム』シリーズもスウェーデン産、『ミッドサマー』もスウェーデンが舞台ですし、そのイメージが強いかな?

確かに本作はグロ描写もあるんですが、どちらかと言うと、いじめやそれに対する報復の点で「子どもならではの残酷性」が出ているなーと感じます。

加減を知らない子どもだからこそ、やることが結果的に残酷になっちゃうアレ?あの感じが出てますねえ。

それに、オスカーとエリの末路を考えると…2人は純粋に結ばれているのかもしれませんが、残酷な結末が待っているような気がしてなりません。

何となくそういう不穏な余韻を残して終わるのも本作の良いところですね。

いやはや、本当に「北欧」でございました。

僕の評価:7点/10





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↑へ?米国版ポスターってこんなんだったの?


The Hidden
1987年 アメリカ
監督:ジャック・ショルダー
出演:カイル・マクラクラン、マイケル・ヌーリー

◼️あらすじ

善良な市民であった男が突如、連続殺人など凶悪犯罪に手を染める。まるで人格が乗り移るかのように次々と他の市民も同様の行動を取るように。
その正体は人体に寄生し渡り歩くエイリアンだった。
殺人課の刑事とFBI捜査官の凸凹コンビが犯人であるエイリアンを追う。



◼️感想

これねぇ、今になって見返すと【隠れ同性愛】っぽい映画だなぁと思いました。

表面的には全然そんな要素無いんですよ?

クルマを乗り換えていくように人体をホイホイと乗り換えていく寄生エイリアンを追いかけるSFアクションですし、主人公2人は80年代的な凸凹コンビだし。

なによりも「ヒドゥン 同性愛」でネット検索しても全然ヒットしない!

実際に全編の95%においては同性愛のドの字も感じられません。

しかーし、最後のシーンを観て「あっ…」と。

本作は『太陽がいっぱい』的な隠れ同性愛映画なんじゃないかと思ったのです。


フランス映画の名作『太陽がいっぱい』は貧乏な青年が金持ちの友人を殺して、彼に成り済ますことで彼のステータスを手に入れるという犯罪モノですが、故・淀川長治さんはこれを「隠れ同性愛映画」と見抜いた有名な話があります。

それは貧しい青年が同性の金持ち友人に恋愛感情を抱いていた、という解釈だったと記憶しています。金持ち友人を殺して彼に成り済ますのは愛ゆえの行き過ぎた行動だったのでしょうか。

そんな「ボクはキミになりたい」という願望が変則的ですが本作にも垣間見えたのです。


【以下ネタバレ】

カイル・マクラクラン演じる紳士服売り場のマネキンのようなFBI捜査官ロイドは、コンビを組むことになる刑事トムの家に招かれて夕食を共にします。

トムには妻と幼い娘がいて幸せな家庭を築いており、その様子をどこか寂しげに見つめるロイド。実はロイドにもかつては妻子がいたが、追跡中の犯人エイリアンに命を奪われたのでした。

で、ロイド自身もまた犯人エイリアンを追う立場のエイリアンであることが判明します。

2人は追跡劇の末に犯人エイリアンを抹殺するも、ロイドもトムも瀕死の重症を負ってしまいます。トムの妻と娘が嘆き悲しむ様子を見たロイドは自分の命をトムに吹き込むことで、トムを蘇生させます。

ロイドは息絶えましたが、ロイドの意識はトムの身体に宿り、トムの妻と娘と共に生きていくと心に決めたのでした。自らが失った家庭を取り戻すかのように。


何とも爽やかで感動的な結末ですねぇ!
派手さは無いものの、緊張感溢れるSFアクションの最後にこんな感動が待っているという意外性がまた良いのです。

でも、先ほどの「ボクはキミになりたい」を念頭に置くと一気に同性愛っぽく見えるのがまた面白いところ。

つまり『太陽がいっぱい』と同じで、ロイドはトムを愛したために「彼に成りすます」選択をしたようにも思えるのです。

それは単純にトム自身に恋愛感情を抱くだけでなく、彼のライフスタイルやその家族も含めて「トムの生き方」に憧れ、愛したのではないでしょーか。

ロイドがトムに命を吹き込むのも「口移し」だから余計にそう見えますねぇ。

超美形のカイル・マクラクランが


ワイルドなタフガイ風のマイケル・ヌーリーに


惚れて…という裏設定も無くは無さそうですかね?

BL好きの腐女子のみなさま、そんな観点で本作を観てみてはいかがでしょーか。

もちろん、腐な女子でなくとも楽しめる1本です!

僕の評価:8点/10




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Creature from the Black Lagoon
1954年 アメリカ
監督:ジャック・アーノルド
出演:リチャード・カールソン、ジュリー・アダムス

◼️あらすじ

アマゾンの奥地にて、人間のものではない水かきのついた手の化石が発見される。研究者一行は未知の生物の存在を突き止めるべく、探検の旅へ。そこで彼らを待ち受けていたのは全身を鱗で覆われた人型の怪物、半魚人だった。



◼️感想

田舎の王様が都会の美女に恋する悲劇です。

この映画は古典的なモンスター映画なので、「怪物と遭遇する恐怖を人間たちの視点で描く」という型通りの作品ですね。でも、ちょっと切り替えて【半魚人の視点】で物語を読んだほうが面白いかもしれません。

本作での半魚人は、言わば田舎で生まれ育った王様です。外の世界のことは知らないけど、地元のアマゾンは彼にとって十分に幸せな環境でした。

しかし平穏な日々は突然破られ、見ず知らずの人間たちが半魚人の王国に土足で踏み込んできます。半魚人から見たら不法侵入、いやこれは侵略です。

「おめだぢ!ここはオラの土地だべよ!出てかねか!」

憤慨した半魚人は初めて目にする「人間」に戸惑いながらも彼らを殺めてしまう。

探検にやって来た人間たちは言わば「都会人」。田舎でひとりぼっちの半魚人とは対照的に洗練されていて、社会的な集団です。

都会人たちは半魚人のことを一方的に「未開地の野蛮人」と決めつけ、差別します。半魚人はただ平和に、彼にとって当たり前の暮らしをしていただけなのに。

ところが半魚人に魔が差します。都会人の紅一点の女性に惚れて、心をかき乱されてしまうのです。今まで見たこともない美しいものに目がくらんでしまったのでしょう。

「オラの嫁にならねが?」

恋愛などしたこともない「お山の大将」は美女を無理やり連れ去ってしまいます。

当然、都会の美女は田舎の王様の価値観など分かるはずもなく、両者の溝は深まる一方でした…。


ウィキペディアにも書かれてありますが、『キングコング』もこれとよく似た話なんですね。これも田舎王が都会の美女に目がくらんで、ついには自身の身を滅ぼしてしまう。

背景としてあるのは自然vs文明の対比です。もっと言えば、自然はただそのままでも美しく幸せなのに、文明と遭遇することによって全く異なる価値観を知り、自身の価値観が揺らいでしまうということだと思います。

「なんか文明的なほうがイケてるんじゃね?」という疑問と誘惑が生じるんですね。その象徴となるのが人間の美女なんですなぁ。


例えとして適切かどうかは分かりませんが、ラオスのとある農村の人々は、外国人たちがせっせと自分たちに支援を行うのを見て「初めて自分たちが貧しいことを知った」という話があります。


↑この本、オススメです。

貧しい、支援が必要である、というのはあくまで外国人の目線で見たときの話。ラオスの村人たちはごく普通の「自分たちの暮らし」をしていただけなのです。異なる価値観が遭遇すると、こういう認識の相違が生じるもんです。

そしてやはり、半魚人は都会の美女に象徴される文明と「出会ってしまった」ことが悲劇のはじまりだったんですねぇ。

なんでも一方の側から物事を見るのはおこがましいもんです。本作がそんな「文明に対する自己批判」の精神を持ち合わせているのかは微妙なところですが、あると信じたいです。

あと、本作のもう一つの視点としては
半魚人=非モテ男
というものです。モテない男の失恋物語。

アマゾンの奥地でぬくぬくと引きこもった生活を送るオタク童貞である半魚人がリア充グループの美女に恋をしてしまうという話です(そしてリア充グループの男連中に因縁をつけられてボッコボコにされてしまう)。

モンスター映画が好きなオタクなら、だいたいはこの視点で半魚人に感情移入するでしょうね。ギレルモ・デルトロが「半魚人と美女が結ばれてもええやないか!」と主張して『シェイプ・オブ・ウォーター』を撮ってますから。
本作とセットで観ると、やはり田舎の非モテ男の悲劇がうまく補完されるような感じなので、デルトロのやりたかったことがよーく理解できますね。

『シェイプ〜』は長年に渡り社会的に立場が弱かった人に対する優しい晴れ舞台だったんですね。

田舎の王様もこれでようやく報われたんだなぁと。


僕の評価:6点/10




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Irreversible 
2002年 フランス
監督:ギャスパー・ノエ
出演:ヴァンサン・カッセル、モニカ・ベルッチ、アルベール・デュポンテル

◼️あらすじ

男たちが身体を貪り合う秘密ゲイクラブにて、テニアという名の男が消火器で殴られて顔面を潰される事件が発生。
犯人はマルキュスとピエールという2人の男。それはテニアに対する衝動的な報復だった。
事の発端はアレックスという名の女の身に起きた惨劇である。




◼️感想

パパになりました、タイレンジャー です。

こんな僕も人の親になったことで、映画の好みが以前のエロ、グロ、ゲスなものから、優しく、穏やかで、キュートなものに変わってきましたぁ〜。

最近はドリュー・バリモア主演のラブコメ映画にハマってますぅ〜。

…なんてこたぁ一切ございませんで。

今回も健やかにエロ!グロ!ゲス!いってみましょう。

育休からの復帰後、1発目はギャスパー・ノエ監督の鬼畜映画『アレックス』でございます。

モニカ・ベルッチ演じる美女が9分間にも及ぶ陰惨な被レイプシーンを演じたことで悪名高い本作。

今回、15年ぶりに観ましたが、当時とは真逆の印象を受けました。映画に限らず、本や音楽などは接する時期によって受ける印象がまるっきり変わったりするもんだから面白いですよね。不思議なもので、時が経つとかつては理解不能だったものがスッと受け入れられるようになったりします。

15年前の僕の本作への評価は否定的なものでした。

・旬な女優にレイプシーンを長々と演じさせたり、現在から過去へと逆行していく時系列など、「奇策」のみが前面に出過ぎていて鼻につく。

・キッドマン、クルーズ、キューブリック(『アイズ・ワイド・シャット』)ならぬ、ベルッチ、カッセル、ノエでぶちかますキューブリック意識も鼻につく。『2001年』のポスターが出てくるし、アレックスは『時計じかけのオレンジ』の主人公の名だし。

・後半(過去)はマジで退屈で早送りで観た。

・ギャスパー・ノエのオレ様感。
いや、ノエ様感か。

・まぁー、時系列を逆にしたことで、悲惨な事件の前の何気ない日常がより輝きを増す(いたたまれなくなる)という狙いは分かるけど、ちょっと小手先で誤魔化してない?

…てな感じでしたね。

ところがどうでしょう。15年ぶりに観るとこれが実に面白いのです!


まず、すごく納得がいったのは、妙に小手先感のあった物語は本当に「急ごしらえ」だったという事実です。

ノエがインタビューで明かしていますが、当初はベルッチとカッセル主演で『LOVE 3D』を撮ろうとしていたそうです。しかーし、あまりに過激な性描写のてんこ盛りに、実生活でも夫婦でもある2人が「それはちょっと…」となり、「2人が主演なら金は出す」というスポンサーの意向も尊重した結果、代案として企画されたのが本作であったとのこと。

※ノエの念願の企画であった『LOVE 3D』はその後、2015年に完成。

つまり主演のベルッチとカッセルがOKな内容が前提で映画をゼロから作らねばならなかった、という事情がひとつ。急ごしらえな分、台本は最低限の内容しか書かれておらず、大半の台詞は即興であったそうです。 

ゆえに作品の仕上がりとして「よく練られた感」は無く、見切り発車の勢いと演技の生々しさが前面に出ていますね。

ま、そんなウラ事情は差し引いて観たとしても、この映画はノエ様感が存分に発揮されています。いちばん分かりやすいのが「生と死は相反せず、表裏でもなく、同じ流れにある」という死生観と、死→生の転生のイメージですね。これはノエの作品の多くに共通している要素です。

本作は死と暴力に塗りつぶされた前半が、後半には生の喜び(または無意味な享楽)に転じていくという時間軸の逆行そのものが実にノエらしい表現だと感じました。

本作の後の大傑作『エンター・ザ・ボイド』では死後の臨死体験で走馬灯のように過去を振り返るというのをやっていて、これは時間軸の逆行を別の切り口でやっているわけですね。バージョン違いです。こういう作品同士の繋がりが見えてきたのも楽しかったな、と。


原題のIrreversibleが「取り返しのつかない」という意味であるように、本作に限らずノエの映画では些細なことから人生の道を大きく踏み外してしまう話が多いです。後悔先立たず、と言うと説教臭く聞こえますが、ほんの誤った判断や場当たり的な欲望のせいで結果として絶望の底に突き落とされるような悲劇ばかりですね。

そして時間というものは本当に残酷なもので、決して覆ることのない絶対的なもの。人生を踏み外しても覆らない。「時は全てを破壊する」という台詞はそういう意味でしょうね。

本作の冒頭でいきなり全裸のオッサンが出てきて「俺はムショ入りしていた。実の娘と寝たからだ」と語り出すのですが、演じているフィリップ・ナオンは『カルネ』『カノン』の肉屋オヤジなんです。人生踏み外しの代表格が言う「時は全てを破壊する」は妙に説得力がありますわ…。


あと、本作はレイプシーンについてばかり語られがちなんですが、それはノエにとっては心外でしょうね。確かに重要なシーンのひとつですが、それは森の中の一本の木に過ぎません。

本作を全体的に見渡すと、登場人物がどのような人間性であるかが後半から徐々に明らかになってくる構成になっています。特にマルキュスとピエールの2人は前半で受ける印象とは違う一面が見えてくるので、小出しにする人物描写もまた終始見どころのように思えます。


そんな中でもマルキュス、ピエール、アレックスの3人が地下鉄に乗る場面なんかは「オレよりコイツのセックスのほうがいいわけ?コイツのセックスなんて猿並みだろ〜。え?イッたの?マジで?俺の時はイカなかったよね?だよね?どーなのよ?ねぇ、教えてよ」てな会話が乗客の多い車内で堂々と繰り広げられていて笑いました。

それまで思慮深い印象だったピエールの化けの皮が剥がれた瞬間です。良い人の嫌な一面が見えてくるのってカタルシスありますよねぇ。

なんだ、これはいい映画だったのか。15年経って、僕の映画の見方が変わったことが本作を受け入れられるようになった要因でしょうが、それ以上にノエ耐性が付いたのが大きいかもしれません。ノエの映画を見続けるという特殊訓練(笑)の賜物かと。

ノエに興味がある方はぜひ『カルネ』から順番に観てほしいですね。

僕の評価:8点/10






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