イメージ 1
イメージ 2

行ってなかった奥の『霊狐塚』へ。

狐さまがいっぱい…。
 
イメージ 3
 
開山 [編集]
開祖の東海義易は幼名を岩千代といい、9歳の時に、曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門に入った。そして、東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し[3]、その後、諸国の行脚に入った。永享11年(1439年)、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立する。存命中に妙厳寺の跡を次世に譲り、再び歓喜院に隠栖した。

稲荷信仰 [編集]

前述のとおり、豊川稲荷は吒枳尼天を鎮守とする。
縁起によると、鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が入し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、このを護法神として尊崇するようになったとされる。
その後、寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。
また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎と名乗る翁の姿をしたがやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。
戦国時代になると、三河領主の今川義元、徳川家康から外護を受け、また、九鬼嘉隆などの武将からも帰依を受けた[4]。海上交通の守護神は四国の金毘羅宮が知られるが、毛利水軍の勢力範囲のため、嘉隆は、家康の領内にあり容易に祈願できる豊川稲荷を信仰したのではないかといわれる。
江戸時代になると、大岡越前守渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。皇族においては有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになる。
 
建築物
  • 総門 - 入母屋造、唐破風付きの四脚門。1884年(明治17年)建立。
  • 山門 - 入母屋造楼門。天文5年(1536年)建立。
  • 法堂(はっとう) - 「本堂」とも。妙厳寺本尊の千手観音像を安置。山門を入った正面に位置する。天保年間(1830 - 1843年)の再建。
  • 本殿 - 当寺の信仰の中心になっている吒枳尼天を祀る。境内左手奥、鳥居をくぐった先にある。入母屋造重層屋根、妻入の大規模な堂宇。1908年(明治41年)に着工し、20年以上をかけて1930年(昭和5年)に竣工した。
  • 最祥殿 - 「書院」とも。信者の接待用の建物で、内部には400畳の広間がある。1929年(昭和4年)建立。
  • 寺寶館 - 寺所蔵の文化財を保存
境内には他に鎮守堂、鐘楼堂、宝雲殿、万燈堂、三重塔(小規模)、弘法堂、大黒堂、奥の院、景雲門などの諸堂がある。
その他
  • 霊狐塚 - 1,000体以上の狐の石像が安置されている。
  • 慰霊碑 - 海軍工廠空爆で亡くなった人々を慰霊。
  • 千本のぼり(千本旗) - 参道に並ぶ参拝者の願い事が書かれた1,000本の幟。
  • 稲荷公園 - 境内の一部を開放して整備。
  • 妙厳寺庭園
  • 豊川高等学校 - 豊川稲荷が運営母体となっている。現在は近郊に移転。跡地を駐車場とした。
by wikipedia