意味はわかるんだけど訳語が思いつかないとき、いかに普段のボキャブラリーが貧困かということを思い知る。「マジであれがこうするわ」などできあがる。


「である」と「だ」
「なら」と「のなら」と「ならば」
「書き」と「書いて」

文章の読みやすさに関して、語尾がかなり重要。


そして一読して二読して意味がわからないとき、こんなんでやっていけるのだろうかと絶望したり、しなかったりする。





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この最初の年の生きる意味は、すべて子供だった。しかしそれでいて、そのなかで子供が生き生きと立ち現れることはほとんどない。つまらぬ回想をすると、こういう疑問も生じる。子供はこのとき、どこにいたのだろう?しかしその記憶が熱を発していて、そのなかの事物が、アーチの中に長い間いたときに残った色彩の感覚のようにぼんやりとしているのなら、このようにいえる。子供は近くにいて、しっかり守られていたのだと。そうやって思いはせる視線は、コンクリートでできたゲートをくぐり抜けて、下方のまだ人のいない巨大なスタジアムの芝に向かう。芝はこんな季節にもースタンドにいる人々はみな白い息をはくー人工照明によってみずみずしい緑色に照らされ、そこでこれから外国の有名なチームとの親善試合が行われるところである。あるいは視線は、路線バスの二階から少しばかり雨に濡れたフロントガラスを通して次第に写し取られていく街の色合いに向かう。その色彩が組み合わさって、普段の見通しの悪い人混みは、人を迎え入れてくれるシティのように見えてくる。追想はさらに男と女がまだ二人だけで生きていた、子供の前の時代になる。彼ら二人のことを想像すると、画家のある絵がそれに一致している。それは頭をたれて海の岸辺に立つ若い人の絵で、彼は何かを待っているかのように手を腰に当てている。彼の後ろはただ明るい天空で、組んだ腕のあたりには風のそよぎと光がはっきりと描かれており、見た者はそれを飛翔する精神に喩えた。かつての芸術であれば、そこから中心人物が漂いでてくると考えただろう。男は後になって妻と自分の写る写真をそんな風に、まるで二人の間に空っぽの空間が、まだ生まれぬ者によってすでに動かされていたかのように見えたのだ。

あの最初の年を決定付けたのは、むろん調和ではなく分裂だった。その分裂は、当時の歴史的出来事によって決定的になった。慣習化されたライフスタイルは、世代のほとんどの人々にとって「死んだもの」となっていて、新しい流行は上層部の役人が統制するものではなくなっていたが、彼らの普遍的な法のような圧力は働いていた。親しい友は、自分の部屋や道ばたや映画館にひきこもるような人間だとこれまで思っていたのに、(だからこそ長いこと親しくいられたのだろうが)突然大勢といっしょに住み、通りを大勢と連れ立って歩くようになってしまった。かつてはよく苦しげに押し黙っていた彼が、気味悪いほど流暢に全人類の名においてしゃべった。彼は正義の中で、自分の内にこもるような孤立した人間と真っ向対立しているようだった。そしてそんな人間に、自分は仕事柄「この種の最後の人間」だと自嘲させるのだった。子供は彼にとって仕事も同然だった。現在の世界史から逃れるための口実だった。というのも彼は子供がいなくても仕事がなくても、はじめからこの世の中の動きに当事者として関わろうと思えなかったし、実際できなかったからだ。そういうわけで彼は一応のていでいくつかの集会に参加した。そこでは、精神を殺すような、許すまじき言葉が語られていた。彼らに対してその言葉を禁じたかったが、そのための熱い口上は、ようやく立ち去るときになって独り言つのがいつものことだった。一度、デモに参加したこともあったが、結局少し歩いた後その場から消えることになった。新しい共同体で彼が主に感じたことは、現実味のなさだった。それは、未来への空想を可能にした以前より一層痛々しいものだった。これしか可能性がなく、これがその未来だと強いられているかのようだった。しかも都市はいわば変革の舞台だったゆえに、そこから逃れるすべもなかった。