ハントケがわかりにくいのは、単語の組み合わせが普通じゃないからだ。妙なところで抽象的な言葉を使う。
die feindlichen Mächteとかein dankbarer Triumphとか。



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外の人間の介入によって生まれた瞬間を逃し、それで永遠に何かを失ってしまった。子供は自分にとって現実のものではない。だからこそ何かを間違えることが不安で、他の人の規則に従うのだ、と彼女は言った。男は女を理解しなかった。彼女は子供をその後すぐに抱けた、といえるのではないか?しかも彼女の方が子供の世話にかんして巧みであり、それどころか忍耐強いではないか?彼女は子供の問題にたいして冷静沈着でいた一方で、彼の方はというと、手で優しくなでてやり、いまだ波打つ鼓動でひとつに融けあい生命と平安の魔法をあやつるかのように、この眠れぬ病の生き物と一つになるような感覚でつかの間の幸福を味わうものの、外に飛び出したい衝動におそわれ、しかしその気力も失せ、ただ乳飲み子のとなりでぼうぜんと座っているようなこともあったではないか?

そのような状況では、決まって外の方からも敵意と言っていいような力が働くものらしい。たとえば子供が家にやってきた途端、向かいの通りで「大プロジェクト」と称して工事が始まり、スチームハンマーの打つ音が昼も夜も鳴り響く。というわけで、この間の大人の主な仕事は工事責任者宛に手紙を書く事になるのだが、最終的な返答が、「このような苦情を受けるのは初めてであり…」などというもので、愕然とすることになる。

それでも抵抗したことや息苦しさや麻痺の感覚は、後になってから故意にでっち上げたものにすぎないかもしれない。記憶に残った大切なことは一つ一つのイメージとなり、その記憶は美化されることなく、「これが私の人生だ」という確信を持って、まるで一回の勝利から多くのものを得られるかのように、呼び起こされるのだった。この記憶の輝きは、無感情という本来の素質が暴かれるような人生の一コマにおいても、存在するためのエネルギーは変わらず持ち続けているのだということを示してくれた。女はやがて仕事を再開し、男は子供を連れて街中の長い散歩にでかけた。人通りの多い、なじみのブルヴァールの反対側には、古くて暗い単調な区画があり、そこでは地面が照らされ色とりどりに光り、道路に空が映されていた。これまで街のどこにもなかったような風景だった。この街は、こうしてはじめて、乳母車をぐいと押して歩道と道路の間を行き来することで、ようやく子供の誕生した街になる。葉影、雨の水たまり、雪の空気が、かつてないほどくっきりと季節を教えてくれる。自らの、新しさのある土地には、「緊急用薬局」もできる。吹雪の中歩いた先に、閉店後のがらんとした店で並ぶ薬から必要なものを買い求める。またある冬の晩などは、リビングにテレビがついていて、その前に男と子供が座っている。男のまわりをよちよちやっていた子供は、とうとう疲れ果てて彼の上で眠りこける。こうして腹の上にある暖かい小さな重みといっしょに、テレビが本物の喜びになるのだ。またある晩秋の午後、人影のないずっと遠くにあるSバーン駅にいたある年の聖夜の感情が残っていることもある。(実際クリスマスが近かった。)大人はひとり駅のホームにいたが、以前のように好奇心でほっつき回る人間、あるいは孤独な人間ではなく、保護すべき者のために情報収集し宿を探す人間だった。(実際そのとき引っ越しを考えていたのではないか?)不慣れなほど広々とした、ガラスのように透明な待合室。閉店後なのに品のそろっているキオスク。下水溝に雪が吹きつけ、そこでカーブを描いた二本のレールがサーチライトのごとく光っている。そういったことがすべてかけがえのないもので、家に持ち帰り報告する。