こんにちは。ここ、吉野梅郷は、昨日に、続き、ものすごい、暑さと、なっています。朝など、息苦しさを、感じた、ほどです。他の、人も、そんな、ことを、言って、いました。私めの、居住する、青梅地方は、以前に、37度の、高温で、話題に、あがったことが、ありましたが、昨年、今年あたりは、それ以上の、温度を、記録した、ところが、かなり、出ています。どんな、暑さなのでしょうか。ともかく、熱中症には、注意、注意の、今年の、夏の、季節です。

 

文学作品が繫ぐ、坂口安吾と浅田次郎の接点 4

 

 瑞山人(budo註 「先人遺稿」編者の父親 )が、著述した、「大正大震火災血涙記」の中には、浅田次郎が、作品の、中で、「祖父」と、呼んで、いる、人物と、思われる、人物が、出てきます。少し、長く、なりますが、その、前後の、部分を、抜き出します。

 『一家の家長として、責任を双肩に担う僕(budo註 瑞山人のこと)としては出来ない。倅、弟、親戚の、消息、なんとしても、探さずに置かれようかは! この時の心裡は、真に決死の覚悟であった。いや、その覚悟であらねばならなかったのである。平岡運送店へ寄った。(編者註 平岡運送店主は、著者瑞山人の叔父にあたる) 「これから東京へ行こうと思います」 「それがいいでしょう。全く東京は酷いらしい」 その処へ御岳の鈴木が出てきた。(編者註、著者瑞山人の叔父に当たるが一歳違い) 挨拶がすんで、鈴木の話に依ると、「昨日、御岳を出て、三田村沢井方面で地震に逢った。道路の石垣が一時に崩壊して、少しのところで危難を脱れたが、真に危機一発であった。この分では、山上も醜いだろうと思ったが、父(註 養父) も在宅しているから、安心して引き返さなかった。それより、東京方面の親戚、弟、妹の消息が判明(わか)らないから、それを探ろうと思っているところである。‥」「幸い、和田でも、御岳でも、随分東京や横浜へ出して置くから、一人や二人、怪我人ができなければよいが‥どうも心配なことだ」と、運送店主は言った。僕と鈴木は出発した。』(註 下線 budo)「大正大震火災血涙記」の、著者、瑞山人が、東京へ、震災の状況と、親族の、安否を、尋ねようとして、立ち寄った、平岡運送店で、「御岳の鈴木」と、出会った、場面です。この、「御岳の鈴木」を、「先人遺稿」の、編者は、註を、もって、「大正大震火災血涙記」の著者、「瑞山人の、一歳違いの、叔父」と、説明しています。この、人物こそ、「山揺らぐ」の、中の、「私の祖父」と、思われる、人物です。浅田次郎の、作品、「山揺らぐ」では、この、人物は、震災当日は、「神社に上がっていた」ことに、なっています。「瑞山人」の、「大正大震火災血涙記」では、三田村沢井方面で、地震に、遭ったと、されています。この、「祖父」に、ついて、もう少し、みていきたいと、思います。この、「御岳の鈴木」に、ついては、「瑞山人の一歳違いの、叔父で、ある」と、註が,施されていること、さらに、「御岳の鈴木」が、ずんずく大尽の、家から、婿に、入ったことを、考え、合わせれば、「御岳の鈴木」は、「瑞山人の、父親と、兄弟の、関係に、あり、瑞山人の、一歳、年上の、人物」、ということに、なります。この、瑞山人の、父親と、いう人物は、明治30年5月から、明治30年10月まで、吉野村、2代目村長を、務めた、人物です。後に、大正4年11月から、大正6年11月まで、2年間に、わたり、吉野村の、助役も、務めている、人物です。この、吉野村村長や、助役を、務めた、人物の、子どもが、瑞山人であり、兄弟が、「御岳の鈴木」ということに、なります。さらに、この、吉野村の、村長や、助役を、務めた、人物の、父親は、というと、「光之進」という、人物に、たどり着きます。さらに、遡ると、「光之進」の、父親は、かの、柳剛流免許皆伝、柳剛流3代目、日影和田道場主、「良助」ということに、なるのです。「御岳の鈴木」との、関係は、「光之進」は、父親、「良助」は、その、祖父と、言う関係に、なります。瑞山人に、とっては、祖父に、あたる、「光之進」と、曾祖父に、あたる、「良助」に、ついて、「大正大震火災血涙記」の、中で、次のように、記して、います。『祖父光之進義篤翁までは、八王子千人同心として、半武士的生活をしていた。剣は曾祖父義綱(良助)翁の,柳剛流極めた』、また、『甲州浪人征伐(水戸の傑物武田耕雲斎の一揆)には、伝来の朱鞘の銘刀を手挟んで、その、軍勢に加わった。』 さらに、『明治初年に千人隊を辞職した。晩年は悠々自適、五十二にして、遂に,世を辞した。それは、腕白盛りの八歳に頃と思う』と、記します。将に、幕末の、動乱の、中に、巻き込まれながらも、力強く、生き残って、いった、祖父の、姿が、みえてきます。肝の,坐った、剣の、達人の、一人の武人としての、姿も、想像されます。また、『腕白盛りの八歳の頃』という、記述が、あることから、「御岳の鈴木=祖父」が、九歳頃の、出来事で、あったことが、分かります。さらに、祖父、「良助」については、青梅市広報(広報第150号 昭和40年3月20日号 市内めぐりある記)などで、柳剛流免許皆伝、柳剛流3代目、柳剛流日影和田道場主など、紹介されています。さらに、「先人遺稿」の、中では、『八王子千人同心の、中から、選ばれた、数十人の、うちの、一人として、徳川十二代将軍家慶の、天保14年の、日光の祖廟御参詣の、折りの、行列に、参加し、後に、その、様子を、綴った、「日光御参詣日記」を、表した』、などの、人物として、紹介されています。良く、知られている,人物です。この、人物を、祖父に、持つのが、「御岳の鈴木=祖父」でも、ありました。「完本 神坐す山の物語」に、収められて、いる、作品の、中に、たびたび、出てくる、「八王子千人同心の出自」という、意味合いの、表現には、「光之進」、「良助」二人の、存在が、そして、その、二人の、重い、事蹟が、秘められて、いるのです。話は、再び、瑞山人の、話へ、戻っていきます。瑞山人の、息子でもある、「先人遺稿」の、編者は、その、著作の、中で、父親、瑞山人に、ついて、次のように、述べています。 (続く)