こんにちは。ここ、吉野梅郷は、昨日ほどでは、ありませんが、溽暑、そのものの、夕方と、なっています。堪えます。昨日などは、午前5時半から、草取りを、中心に、した、農作業を、午前8時半頃まで、行ったのですが、その、後は、体が、怠く、横に、なって、ごろごろしていました。今、考えれば、軽い、熱中症だったのでしょうか。そんな、ことも、あり、今朝の、作業は、軽く、ということで、ナス苗の、棚作り位で、上がろうと、予定していたのですが、やることが、目に、ついて、結局、上がったのは、午前9時半を、過ぎていました。朝、5時半位からの、作業でしたから、結局、朝の、4時間に、渡る,作業と、なってしまいました。昨日、夕方から、今日の、未明まで、台風のような、暴風雨に、何度か、見舞われました。その、影響で、秋桜や、黄花コスモス、ルドベキア、フウチョウ草の、花などが、歩道や、通路に、倒れてしまい、その、後始末に、時間を、取られて、しまったのです。それでも、昨日ほど、蒸し暑くは、なかったので、体の、調子は、崩れませんでした。今朝の、新聞にも、出て、いましたが、高温の、中での、農作業、注意に、注意を、重ねる、必要が、あることを、実感した、昨日の、農作業でした。

 実れば、害獣に、食されてしまう、西瓜の、空中栽培の、経過報告です。以下の、空中栽培の、写真は、昨日の、ものです。

 

R.6.7.20  西瓜の空中栽培 1

西瓜の空中栽培 2

西瓜の空中栽培 3

 

 本来ならば、天井に、10玉以上の、小玉西瓜が、つり下がって、いる、写真を、お見せしたかったのですが、なんと、これまで、15玉ほどの、小玉西瓜が、害獣被害に、あい、現状は、写真1から、3までの、状況です。それも、昨晩、写真3の、側面ネットに、実っていた、二つの、小玉西瓜のうち、上の、方の、大きめの、果実が、害獣被害に、あってしまいました。ですから、実際には、全部で、二玉が、空中栽培で、栽培されて、いるということに、なります。今年、この、栽培方法で、分かったことは、実が、つき始めるのは、地表から、側面ネットに、かけて、実る,玉が、多く、従って、それらは、害獣の、絶好の、食べ物に、なってしまっていることです。天井に、玉を、多く、実らせる、ためには、それらを、摘果して、しまえば、よいのでしょうが、子どもの頃、高級な、食べ物として、考えていた、私めには、もったいなくて、もったいなくて、なかなか、摘果してしまう,勇気が、湧いて、来ないのです。残り、2玉も、いつまで、持つことやら。とても、残念で、悔しさも、後から、募って、きます。今年は、実験だからと、強がって、みるものの、でも、考えれば,考えるほどに、悔しさと、もったいなさが、募って、くるのです。

 

文学作品が繫ぐ 坂口安吾と浅田次郎の接点 3

 

 前回は、「完本 神坐す山の物語」の、各作品から、浅田次郎の、母親の実家、そして、祖父、曾祖父に、纏わる、表現を、抜き出して、見ました。今回は、それらの、中でも、各作品の、中に、出て、くる、「祖父」に、ついて、考えて、いって、みたいと、思います。「祖父」については、その、出自が、分かる、ような、表現が、かなり、繰り返され、見られます。

  1.  祖父が山麓の千人同心の家から婿入りする前の昔から (「兵隊宿」から
  2.  鈴木は当家の、つまり私の母の実家の姓である (「お狐様の話」から
  3.  ましてや祖父は徳川の直臣ともいえる千人同心り出自であった(「お狐様の話」から
  4.  私の祖父は入り婿であったから、験力は持たなかったが、曾祖父が目の前でさまざまな秘儀を行うさまを私の母はよく記憶していた(「神上がりましし伯父」から
  5.  私の記憶にはない祖父。山麓の旧家から婿入り。(略)カリスマの曾祖父によく仕えて、験力こそ身につかなかった、伎芸をこよく修めたやさしい人。その祖父は明治16年生まれ (「山揺らぐ」から) (註 1~5の下線 budo

  と、書かれます。ここまでからは、「祖父」は、山麓の、旧家の、千人同心の、家から、「すずき」姓の、家に、婿入りした、明治16年生まれの、伎芸を、よく修めた、優しい、人と、まとめることが、できるかと、思います。「祖 父」が、婿入りした、「鈴木」姓の、家は、母親の、実家で、「奥多摩の山中に太古から鎮座する神社があり、代々その山上で神官を務める傍ら宿坊を営んでいた家」と、「神上がりまし伯父」と、云う作品の、中で記されてます。一方、「祖父」の、実家の方は、具体的には、記されていません。それが、凡そ、分かって、くるのが、「完本 神坐す山の物語」の、最後に、収められている、「長いあとがき あるいは神上リましし諸人の話」の、中です。その、作品の、中に、次の様な、表現が、あります。「祖父にまつわる民話がある。鈴木の屋敷に伝わる話ではなく、山麓にある祖父の実家の云い伝えである。」、「ずんずく大尽」と、呼ばれた家から婿に入った祖父が多くの子や孫を授かったのも、もしかしたら狸のもたらした福禄のうちなのかもしれない」(註 下線 - budo)。これらから、「祖父にまつわる民話」とは、「ずんずく大尽の伝承」で、あることが、分かります。そして、「祖父の実家」は、「ずんずく大尽」と、呼ばれる、お宅で、あることが、一気に、判明します。この、「ずんずく大尽」の、話は、青梅市内では、かなり、知られた、民話として、青梅市報や、民話集などに、収録されています。この、「ずんずく大尽」と、呼ばれる、お宅は、私めの、居住地と、同町内と、なります。私めの、町内では、また、ここ、吉野梅郷地区でも、年齢を、重ねている、人なら、かなりの,人が知っている、「ずんずく大尽」という、呼び名です。この、「ずんずく大尽」と、御嶽山宿坊の「鈴木」家が、親戚であるのだろう、という、記憶は、私の、微すかな、記憶として、残ります。私めの、祖母は、この、「ずんずく大尽」から、来ていて、物語中の「祖父」と、私めの、祖母とは、叔父と、姪の関係で、その、物語中の、「祖父」が、亡くなった時の、ことだったのでしょうか、私めの、祖母と、父親が、葬式、云々の、話を、していた、記憶が、微かに、残ります。その、時、2人の、会話の、中に、「御嶽」という,言葉が、頻繁に、出ていたような、記憶も、あるのです。昔は、親戚の、ことを、その、居住地名で、呼ぶ、ことが、多かったのです。その、時は、どういう、親戚なのか、当然、知る,はずは、ありませんでした。私めの、不確実な、記憶では、ありますが。

 話は、この、「祖父の実家」、「ずんずく大尽」の、家の、話へと、移って、いきます。この、お宅からは、昔から、文武共に、秀でた、当主、及び、その、兄弟、子弟が、輩出されています。その、お一人、先代の、ご当主は、昭和58年3月20日に、「先人遺稿」と、題された、、一冊の本を、編集し、上辞されています。その、収録されて、いる、作品は、編集者の、五代前の、祖の、書いた、「日光御参詣日記」の、原本コピー版、「日光御参詣日記」の、活字、読み下し文、それに、それらに、関わることがら、もう、一編は、編集者の、父親が、書いた、「大正大震大火災血涙記」、それに、関わる、ことがらの、二編から、成り立っています。これらの、事実と、内容は、浅田次郎の、「完本 神坐す山の物語」の、話と、見事に、重なってきます。 (続く)