おはようございます。ここ、吉野梅郷は、昨日から、続く、酷暑とも、云える、暑さに、覆われています。この、ブログを、打っている、部屋の、温度ですら、31度3分を、温度計は、示します。外など、いったい、何度くらいまで、上がっているのでしょうか。

 この、暑さの、中で、氣持ちを、確かに、させて、くれるのは、ノウゼンカズラの、花の、鮮やかすぎるほどの、紅色。氣持ちが、シャンと、なります。それに、ヒオウギズイセンの、花の、これまた、鮮やかすぎるほどの、橙色。こんな、鮮やかな、ハッキリと、した、色に、氣持ちは、シャンと、してきます。

 

 

日影和田村 目医者伝 22

 

 日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門が、誕生したと、考えられる、弘化3(1846)年から、遡ること、3年、天保14(1843)年4月には、柳剛流3代目、日影和田道場、道場主、石川良助は、八王子千人隊の、一員として、将軍家慶公日光御参詣の折、警護の、役を、奉じ、隊士50人と、共に、その、行列の、中に、伍したと、云われています。当然の、こと、八王子千人同心として、石川良助の、晴れがましい、姿、行動は、当時の、日影和田村中の、話題に、上がり、その、姿に、憧れを、抱いた、者が、多数いたことと、考えられます。佐右衛門、29才、鶴松、5才の、時の、ことです。二人とも、その、思いに、違いは、あったものの、やはり、石川良助の、その、姿に、強く、惹かれる、ものが、あったと、考えられます。石川良助は、以後、益々、八王子千人同心の、一員として、その、存在感を、増して、いったのでしょう。将軍家慶の、日光御参詣の、警護を、してから、11年後の、嘉永7(1854)には、浦賀への、米艦隊来航に、伴い、八王子千人隊士、石川良助の、下にも、出動待機の、指令が、みられました。この時、良助は、事あらば、自分と、共に、行動してくれる、門弟を、3名、選出し、その、門弟たちから、提出された、起請文が、残されています。その、門弟3人とは、良助と、同じ、日影和田村居住の、八王子千人同心、久保次郎、志村由五郎の、2名と、近隣の、駒木野村居住の鈴木太仁藏1名でした。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、「鶴松」は、この時、16才の、若者に、成長していました。この年、嘉永7(1854)年に、起こった、米艦隊の、浦賀への、来航は、国論を、沸騰させたようで、八王子千人同心の、組織、役割が、可視化された、年でも、あったように、考えられます。日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門の、代に、譲渡されたと、考えられる、八王子千人同心株を、引き継ぎ、その、名義人と、なっていたと、思われる、「鶴松」も、この、年を、境として、はっきりと、八王子千人同心の、組織に、組み込まれたと、考えても、よさそうです。嘉永甲寅季(嘉永7「1854」年)の、秋に、河野組千人同心組頭、二宮左門太光鄰(にのみや さもんた こうりん)が、作成した木版刷の、「番組合之縮圖」には、四十番、日影和田村の、蘭に、齋藤佐平次、久保巳之助と、共に、「和田鶴松」の、名が、記されます。れっきとした、八王子千人同心の、一員としての、「和田鶴松」の、名前です。この、時点で、「鶴松」は、事あらば、要請に、応じて、出動しなければ、ならない、身分として、その、立場が、認証されたと、考えられます。嘉永7(1854)年の、米艦隊の、浦賀への、来航依以来、八王子千人同心の、活動も、忙しく、なっていったようです。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松、25才の、時、文久3(1863)年には、石川良助の、下には、京都、大阪、横浜等に、将軍警護のため、出動要請が、あったようで、この、時は、代人や、良助の,継嗣、光之進などが、代人として、出動しています。八王子千人同心の、周辺にも、きな臭さが、漂い、始めて、きていたようです。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松、26才の時(鶴松没年、1年前)、元治元(1864)年12月には、水戸浪士追討のため、石川良助にも、出動要請が、あり、この、時は、良助の、継嗣、光之進が、出動したようですが、八王子千人同心の、任務は、益々、忙しく、なって、いったようです。そんな中、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松の、動向は、詳らかでは、ありませんが、同じ、日影和田村に、居住する、八王子千人同心の、一員として、石川良助などと、行動を、共に、することが、多かったと、考える、方が、不自然では、ありません。「鶴松」は、27才の、若さで、亡くなって、います。この、鶴松の、死因については、その後、口伝されて、きた、様子は、うかがえません。また、それに、関わる、文書も、見当たりません。「鶴松」が、幕末の、動乱の、時代に、八王子千人同心の、一員として、名を、連ねて、いた、という、事実、さらに、この、時代、幕府直参の、身分でも、あった、八王子千人同心に、対して、幕政維持の、ために、様々な、出動命令要請が、あり、出動を、余儀なく、されていた、ということを、考えれば、「鶴松」、27才の、生涯は、鶴松が、八王子千人同心の、一員で、あったが、由の、ものでは、なかったのか、とも思えて、くるのです。だとすれば、鶴松の、父親、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、胸中、察するに余りあるものが、あります。 (続く)

 

参照

青梅市広報第150号 昭和40年3月20日  市内めぐりある記  柳剛流日影和田道場