おはようございます。ここ、吉野梅郷は、雨が、降ったり、止んだりの、蒸し暑い、朝と、なっています。梔の、花が、咲き出しました。姫扇水仙の、鮮やかな、紅色が、目に、つくように、なりました。藪萱草の、花は、過日は、一輪、だけ、咲いて、いたのですが、今朝は、数輪ほど、微雨の、中に、花、開いて、いました。それに、木槿の、花も、満開に、なっている、木も、あります。夏の、季節の、色が、彩られ、始めるように、なりました。

 

 

日影和田村 目医者伝 20

 

 日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、嫡子、鶴松の、名前が、八王子千人同心の、

一員として、見られるように、なるのは、嘉永7(1854)年に、八王子千人同心、河野組、組頭、二宮左門太光鄰(にのみやさもんたこうりん)に、よって、作成された、木版刷、「番組合之縮圖 ー千人同心姓名在所圖表ー 」に、よってです。鶴松、16才、その、父親、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門、40才の、時と、考えられます。この、嘉永7(1854)年、という、年は、浦賀に、米艦隊が、来航するに、及び、国論が、沸騰した、年で、日影和田村、柳剛流道場、道主、柳剛流3代目、八王子千人同心、石川良助の、もとにも、出動待機の、指令が、あったようです。良助は、この、時、門弟3名を、選抜し、事あらば、供を、するように、事前に、意向を、確かめて、いたようです。その、門弟たちの、良助に、対する、選抜してくれたことへの、感謝、そして、与えられた、手当への、謝礼、事あらば、必ず、御供を、するという、約束が、書かれた、起請文が、残されていて、日付は、嘉永7甲寅 正月   日(1854)年と、記され、署名として、駒木野村、鈴木太仁藏、日影和田村、久保次郎、同所、志村由五郎の、名前が、記されて、いるようです。3人とも、石川良助の、柳剛流日影和田村道場の、近隣の、者と、考えられます。この、時、鶴松は、千人同心として,名前が、見られるように、なっていましたが、この、選抜隊の、一員には、選ばれては、いません。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松が、八王子千人同心の、一員と、なったのは、嘉永7(1854)年、以前の、ことと、考えられます。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門と、その、息、鶴松に、大きな、影響を、与えた、日影和田村、柳剛流道場主、柳剛流3代目、石川良助が、日影和田村に、道場を、開いたのは、天保年間(1830から43)年の、初めと、されます。良助、25才あまり、後に、日影和田村、4代目、目医者と、なる、佐右衛門は、まだ、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門の、門弟の、身分で、佐右衛門、19才の、時の、ことだと,考えられます。佐右衛門の、継嗣、鶴松は、まだ、生まれて、いませんでした。この、時、石川良助が、八王子千人同心の、一員として、名を、連ねて、いたか、どうかは、詳らかでは、ありませんが、勧誘等、何等、関係が、あったようにも、考えられます。石川良助が、八王子千人同心の、一員で、あることが、はっきりと、分かるのは、天保14(1843)年4月の、将軍家慶公日光御参詣の、折り、警護の、役を、奉じられた、時の、ことです。隊士、五十人と、共に、その、行列の、中に、居たようです。その、様子は、「日光御参詣日記」として、記されます。この、時、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門は、29才、鶴松は、2才と、考えられます。鶴松は、まだ、千人同心の、一員に、名を、連ねて、いたとは、考えられません。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松が、其の、名を、八王子千人同心の,一員として、名を、連ねるように、なるのは、日影和田村、差出し明細帳の、中の、八王子千人同心の、数の、記載に、見られる、増減や、鶴松の、境遇などから、弘化3(1846)年、以前の、ことと、考える、ことが、できるのでは、ないかと、思われます。天保3(1832)年の、日影和田村差誌明細帳は、八王子千人同心の、在数を、4名としています。その、後、纏められた、弘化3(1846)年の、日影和田村、差出し明細帳の、八王子千人同心の、在数は、1名、、増加の、5名と、して、記します。この、増、1名が、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松では、ないかと、考えられるのです。鶴松、8才前後の、ことと、考えられます。八王子千人同心の,一員として、名を、連ねるには、余りにも、幼なすぎるとは、思えるのですが、鶴松の、父親、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、親心を、そこに、見るなら、まったく、考えられない、ことも、ないのです。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門は、その、息、鶴松の、ために、将来の、担保の、ために、八王子千人同心株を、買い与えたのでは、なかろうかと、あるいは、この、間に、鶴松に、八王子千人株を、継承、させようと、したのでは、ないかと、いうことなのです。 (続く)

 

参照

青梅市広報150号 昭和40年3月20日 柳剛流日影和田道場

青梅市史史料集第二十七号 村明細帳 (二)

青梅市文化財ニュース 第174号 青梅にもいた八王子千人同心

「番組合之縮圖 ー千人同心姓名在所圖表 ー」 八王子郷土研究会復刻版