こんにちは。ここ、吉野梅郷は、昨日に、引き続き、蒸し暑い、1日と、なっています。どんよりとした、雲が、空を、覆います。梅雨の、季節に、相応しい、1日と、なっています。擬宝珠の、花の、蕾も、膨らみ、始めました。百合の、花も、咲き出しました。それに、まったく、世話を、してない、グラジオーラスの、花も、梅畑の、一画で、咲いて、います。梅雨明け、前後に、見られる、花が、目に、つくように、なっています。藪萱草の,花の、蕾も、膨らんで、きています。そう、云えば、今朝、蜩の、鳴き声も、聞こえていたように、思えたのですが‥。梅雨明けも、近いのでしょうか。

 

 

 日影和田村 目医者伝 18

 

  日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松は、慶応元(1865)年、27才の、若さで、亡くなっています。法名を、九皋院千齢(きゅうこういんせんれい)居士と、称します。亡くなった,日から、考えると、その、生まれた、年は、天保9(1838)年と、考えられます。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門、25才の、時の、子どもと、なります。この、年には、日影和田村、3代目、目医者、九蔵が、46才の、若さで、父親の、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門 に、先だって、亡くなっています。日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門は、この、後、天保13(1842)年に、亡くなります。この、年、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門は、乞われて、日影和田村、4代目、目医者、となり、家を、継ぎます。つまり、鶴松が、出生した,時は、後に、日影和田村、4代目、目医者と、なる、鶴松の、父親は、まだ、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門の、門弟という、立場で、あったものと、考えられるのです。鶴松は、その、父親と、共に、日影和田村の、目医者家の、一員と、なったと、考えられます。鶴松、4才の、時の、ことです。鶴松が、出生した、時は、祖父に、あたる、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門は、生存していました。この、祖父に、とって、鶴松は、日影和田村の、3代に、渡る、目医者の、流れを、くむ、人物として、頭の、中に、存在して、いなかったものとも、考えられます。云うならば、ただ、たんに、門弟が、もうけた、子ども、そんな、思いだけでは、なかったのでしょうか。嫡流を、もって、みていなかったように、考えられます。と、なれば、目医者を、継がせようとは、夢、思っても、いなかった、考えても、おかしくは、ありません。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣、鶴松に、日影和田村の、目医者に、関わる、話題が、残って、いないのは、そんな、点にも、あるのかも、知れません。さらに、鶴松が、目医者を、継がなかった、理由を、天保年間の、最初に、日影和田村に、武術、柳剛流の、道場を、開いた、柳剛流3代目、石川良助に、みることが、できるのでは、ないかと、考えられます。

 柳剛流3代目、石川良助が、日影和田村に、道場を、開いた、年を、仮に、天保3(1832)年と、考えると、良助、25才の、時の、ことと,考えられます。良助は、初め、父親、九左衛門に、ついて、天然理心流を、学び、後に、柳剛流を、学んだと、されます。良助の、日影和田村道場は、近郷の、者を、集め、栄えたと、云われ、天保7(1836)年、良助の、門人として、正式に、誓紙に、血判したものは、30名余りに、及んだようです。この、石川良助が、柳剛流、日影和田村道場を、開いた、時、後に、日影和田村、4代目、目医者と、なる、佐右衛門は、19才で、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門の、門弟として、医療に、従事する、身で、あったものと、考えられます。この、時、良助と、佐右衛門とは、同じ、日影和田村に、住んで、いると、いうことぐらいで、さほど、交流は、なかったものと、考えられそうです。当然の、こと、鶴松は、まだ、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門の、継嗣として、生まれては、いませんでした。この、良助と、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門との、交流が、見られる、ようになるのは、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門が、名主として、名前が、見られる、弘化3(1846)年、前後あたりの、ことからと、考えられます。良助、39才前後、佐右衛門、33才前後の、年齢の、頃の、ことです。鶴松、8才前後の、ことです。日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門は、弘化3(1846)年の、村差出し明細帳の、名主蘭に、その、名を、記します。地域を、代表する、武術、柳剛流3代目の、道場主、良助と、名主、日影和田村、4代目、目医者、佐右衛門との、間に、関係が、なかった、はずは、ありません。況してや、日影和田村という、同じ、村に、居住する、二人で、あれば、多岐に、渡って、話題を、交換して、いたものと,考えられるのです。 (続く)

 

参照

青梅市史史料集 第二十三号 村明細帳 (二)

青梅市広報第150号 昭和40年3月20日 柳剛流日影和田道場