こんにちは。ここ、吉野梅郷は、ここ、1時間ほど、前に、雨が、上がり、今は、薄日が、こんもりと、豊かに、育った、楓や、樫の、葉に、注いで、居ます。西の、方の、空は、雲の、合間から、青空が、のぞきます。梅雨の、季節の、ごく、わずかな、日々に、見られる、空の、様相、そのものです。これが、また、好い、光景なのです。

 

  日影和田村 眼医者伝 14

 

  日影和田村、初代、目医者、東雲の、父親、名主、彌兵衛から、その、先祖を、遡って、いくと、小田原北条氏の、旛下、和田左京亮という、清戸三番衆状に、名前を、載せる、かって、和田村に、居住していた、侍に、辿りつく、ことが、できると、考えられています。この、和田左京亮は、天正元(1573)年11月18日に、89才で、亡くなったと、云われて、います。その後、天正18(1590)年には、小田原北条氏は、豊臣秀吉によって、滅ぼされます。これ、以後、小田原北条氏に、使えていた、地侍たちの、多くは、農村に、下り、後、各村の、リーダー的、役割を、担ったと、云われて、います。和田左京亮の、子孫も、例外では、なく、分村以後(和田村が、日影和田村と、日向和田村に、分村した以後)、日影和田村の、方に、住み着き、村役人などを、務めていたようです。東雲の、父親、名主、彌兵衛は、その、1人に、あたります。前回も、記しましたが、名主、彌兵衛の、心の内には、先祖、和田左京亮の、存在が、あり、結果、苦難の、連続で、あった、宝暦箱訴事件にも、先頭に、立ち、その、解決に、向い、闘い、続ける、ことが、できた、ものと考えられます。その、背中を、見ていた、日影和田村、初代、目医者、東雲が、その、影響を、受けなかったとは、とても、考えられません。況してや、東雲も、宝暦箱訴事件では、自身が、「増永運上減免願い」や、「牢舎赦免願い」等の、ために、代官所に、出府しています。その時、33才で、あっという、若き、しなやかな、感性の、残る、若者には、いろいろと、得るものは、大きかったものと、考えられます。

 日影和田村、初代、目医者、東雲が、その、大きな、存在で、あった、彌兵衛から、家督を、譲られたのは、父、彌兵衛が、明和元(1781)年に、亡くなった、以後の、ことと、考えて、良さそうです。東雲が、代官所へ、出府した、時は、33才で、あったと、云いますから、東雲、52才頃の、ことだったと、思われます。将に、働き盛りの、年齢でした。この、東雲も、父親、彌兵衛の、跡を、引き継ぎ、日影和田村の、名主を、務めた、ようです。東雲の、生前中、天明2(1782)年の、「村指出し明細帳」の、名主署名蘭は、「佐右衛門」を、記します。この、「佐右衛門」は、誰かと、いうことに、なるのですが、東雲の、父親、彌兵衛は、その、前年には、亡くなっていますし、また、名前、そのものが、異なって、いるので、彌兵衛の、別称は、考えられません。

「佐右衛門」を、名告る、人物には、東雲の、祖父に、あたる、人と、東雲の、継嗣に、あたる、2人の、人物が、います。祖父、「佐右衛門」の、方は、亨保6(1721)年に、亡くなって、いますので、明らかに、該当しません。それでは、継嗣、「佐右衛門」の、方はと、云うと、継嗣、「佐右衛門」が、亡くなった、年と、其の年齢から、考えると、天明2年の、「村差出し明細帳」が、差しだされた、その、年には、まだ、19才に、なっていたか、いなかったかの、年齢だったと、考えられ、東雲という、働き盛りの、宝暦箱訴事件など、経験豊かな、父親が、存命していた、ことをも、考え合わせれば、名主を、務めるには、まだ、若かったし、村政に、携わるには、経験も、淺かったと、考えた、方が、良さそうです。「東雲」という、名は、目医者としての、通称だったと、思われ、本名を、天明2年の、「村差出し明細帳」の、名主蘭に、記す、「佐右衛門」と、して、いたのでは、ないのでしょうか。この、日影和田村、初代、目医者、東雲の、事蹟は、記録に、留めることは、ありませんが、父親の、名主、彌兵衛の、姿を、常に、見て、いただろうことや、宝暦箱訴事件での、「牢舎赦免願い」などの、出府経験などから、そして、また、継嗣、日影和田村、2代目、目医者、佐右衛門の、目医者経営などからは、目医者としての、強い、信念に、基づいた、目医者経営で、あったものと、推察できそうです。この、東雲、文化9(1812)年に、83才に、渡る、生涯を、閉じています。 (続く)

 

参照

青梅市史史料集第二十三号  宝暦箱訴事件 ー多摩人の抵抗のこころをさぐってー

青梅市史史料集第二十七号  村明細帳(二)