おはようございまます。ここ、吉野梅郷は、小雨が、降り続きます。気温も、低く、肌寒さすら、感じる、天候と、なっています。関東地方の、梅雨入りは、6月下旬とのこと。とは、云え、体感としては、既に、梅雨の、季節に、入っているかのような、そんな、天候と、なっています。ビヨウヤナギの、花が、満開と、なりました。アジサイの、花も、染まって、きました。梅雨の、季節の、花です。ビヨウヤナギや、アジサイの、花の、後には、ギボウシの、花が、待たれます。静かに、周囲に、溶け込むように、咲く、花々です。

 

 

日影和田村 目医者伝 12

 

  日影和田村、目医者、東雲の、父親、名主、彌兵衛へ、結審が、下ったのは、宝暦12(17662)年、11月3日のことでした。この日、小野日向守役所へ、召し出され、「過怠」を、申し渡されました。その、「過怠」は、「入牢」という、ものでした。同年11月9日から、「入牢」しています。日影和田村名主、彌兵衛の、他に、「過怠」として、「入牢」を、申し渡されたのは、大久野村、長淵村、畑中村、下村、御嶽村、大丹波村、二俣尾村、黒澤村、富岡村、下成木上分、下成木下分の、名主等、それに、四谷、田安下屋敷へ、門訴した、百姓等でした。その後、11月8日には、二俣尾村名主等と、共に、日影和田村、名主、彌兵衛は、一色安藝守役所へ、呼び出されています。同年、11月28日には、牢舎から、安藤禅正少弼役所へ、呼び出され、取り調べ後、再び、帰牢しています。同年12月7日には、日影和田村、名主、彌兵衛は、牢舎から、勘定奉行、牧野大隈守役所へ、召し出され、吟味の後、「牢舎」御免となり、「宿預け」と、なりました。彌兵衛と、同じく、同日、各村々の、名主も、吟味の後、「牢舎」御免と、なっています。ただ、大丹波村、大久野村、山田村の名主等と、岩淵村の、箱訴人の、百姓、3人と、大丹波村の、箱訴人、百姓、3人は、「牢舎御免」とは、ならなかったようです。同年12月26日には、審議は、終了し、その後、12月29日には、18ヶ村の、名主、箱訴人等が、すべて、奉行所に、呼び出され、吟味のうえ、、大丹波村、大久野村、岩淵村の,名主、3名と、岩淵村の、箱訴人、百姓3名と、大丹波村の、箱訴人、百姓3名を、除いて、全員、帰村を、仰せ附けられ、帰村することが、できたました。日影和田村、名主、彌兵衛も、それらの、中に、入っていました。なお、それでも、各村々の、箱訴人は、各村の、名主方へ、「宿預け」と、なりました。翌年、宝暦13(1763)年、8月13日には、郡奉行、竹内勘左衛門等、田安家代官らにも、旗本御家人としての、職を、取り消されるなどの、処分が、待って、いたようです。同年9月5日には、訴訟村々は、勘定奉行の、「御裁許」に、対して、「承知の旨」の、「請証文」を、差し出し、「宝暦箱訴事件」と、後に、云われるように、なった、「増永運上減免願い」の、農民騒動も、幕を、閉じました。

 日影和田村、名主、彌兵衛等が、行った、9回にも、およぶ、箱訴、箱訴以前の、田安家の、郡奉行や、家老などへの、門訴や、越訴を、加えれば、10回以上に、渡る、「増永運上減免願」の、結果は、どうだったのでしょうか。この、ほぼ、1年に、渡る、村中の,人々を、巻き込んだ、「増永運上願」も、虚しく、結局、裁許は、田安家側の、ほぼ、全面勝訴と、なったようです。日影和田村の、先頭に、立ち、「増永運上減免願」や、「牢舎」や、「手鎖」、「宿預け」などの、「御赦免願」などを、行い、また、自らも、「牢舎」や、「手鎖」、「宿預け」の、「過怠」を、申し渡されて、きた、日影和田村、名主、彌兵衛の、脳裏には、どんな、様々な、思いが、去来していたのでしょうか。日影和田村、目医者4代に,渡る、家に、残る、この、「宝暦箱訴事件」の、経過や、その、裁判結果などを、記す、古文書、「御裁許御書附并訴状之記」の、最後は、次の、要に、記されています。『右記録の書面、当村の外、他に見する事致すべからず。後々に至り、是を好しと思うべからず、若し好しと思わば,必ずあやまちと成りもやせん。穴賢』と。この、最後の、部分を、指摘して、青梅市史史料集第二十三号「宝暦箱訴事件 ー多摩人の抵抗のこころをさぐって-」の、編纂者で、元青梅市立博物館の学芸員でも、あった、滝沢博氏は、「古文書の記録者は擱筆にあたり、無念の想いをこめて,最後の行を書きしたためた似違いない。」と、記されています。日影和田村、名主、彌兵衛の、想い、そのもので、あったろう、十分、推察できることです。

 宝暦12(1763)年の、御裁定で、多くの、村々の、名主や、箱訴人が、「牢舎御免」に、なったにも、関わらずに、牢舎で、越年し、後に、「牢死」した、人達に、大丹波村の、名主、七郎右衛門、組頭、長兵衛、百姓、政右衛門の、3人が、います、この、3人に、ついては、死後、間もない頃に、同村の、輪光院の、境内に、供養塔が、建てられ、現在も、残っているそうです。当時の、村人立ちや、そして、現在の、地区の,人々の、かって、村のために、「増永運上減免願」の、先頭に、立ち、結果、牢死して、しまった、3人への、想いが、伝わってきます。日影和田村、名主、彌兵衛に、対する、村人たちの、想いも、似たようなものが、あったで、あろうことは、十分に、推察できます。この、彌兵衛、という名前、日影和田村の、寛延4(1751)年の、造営札にも、「願主  和田彌兵衛」 として、記されて、いたようです。こんな、点からも、名主、彌兵衛の、村に、おける、存在の、大きさを、知ることが、できます。そんな、大きな、存在の、後ろ姿を、常日頃、見ていたのが、名主、彌兵衛の、息子、日影和田村の、初代目医者、東雲であったのです。 (続く)

 

参照

青梅市史史料集 第二十三号「 宝暦箱訴事件 ー多摩人の抵抗のひこころをさぐってー」