こんにちは。ここ、吉野梅郷は、青梅ブルーとまでも、いかないまでも、青空の、広がる、緑の日と、なりました。和田町が、自慢できる、景勝地、「赤ボッコ」 への、向かう、道は、我が家の、前を、通ります。外で、作業を、していると、赤ボッコへ、向かう、人達の、姿を、はっきりと、目に、することが、できます。ここ、10年くらい、明らかに、その、人数が、増えて、きていることに、気づきます。今日は、「緑の日」と、云うことも、あるのでしょうか。目に、しただけでも、50人以上の、人達が、「赤ボッコ」へ、向かったものと、思われます。以前に、比べると、木々が、伐採された、場所が、広がったり、人の、手の、入ったものが、設置されたりとかで、かなり、景観は、変わりつつ、あるかと、思われますが、それでも、尾根筋の、コナラを、中心とした、雑木の、新緑からは、赤ボッコ尾根や、天狗岩尾根 ー 和田町愛宕山から、東南へ、走る、尾根筋を、私めは、勝手に、そう、呼んでいるのですが ー の、魅力を、堪能できるものと、信じています。「赤ぼっこ」からの、景観が、評判を、呼び、多くの、ハイカーが、訪れるように、なる、以前は、森は、もっと、深く、この、時期と、云えども、人と、すれ違うことなど、ほとんど、無かった、尾根道だったと、記憶しています。四季を、とおして、尾根道から、聞こえて、くるのは、木々を、渡る、風の、ささやき。木々の、精霊の、歌声‥。そう、およそ、現實世界から、ほど遠い、不思議な、世界‥。そんな、世界が、広がって、いたかと、思います。しばらく、尾根道を、歩いて、いないのですが、今は、どう、なって、いるのでしょうか。

 話は、変わります。現在、「もったいない読書」と、称して、以前に、購入したものの、未読の、本を、そのままに、しておくくのは、「もったいない」と、思って、それらを、読み進めて、います。

現在は、鷗外全集(岩波書店)を、読み進め、18巻本の、「北條霞亭」まで、たどり着いたのですが、鷗外自身が、前作の、「伊澤蘭軒」より、分かり易く、まとめたと、云っている、この、作品では、ありますが、私めには、レベルが、高すぎ、「伊澤蘭軒」に、引き続き、途中で、ダウンして、しまいました。太宰治の、「難しい本を、苦労して読む」という、言葉に、勇気づけられ、鷗外の、他の、作品は、私めなりには、読み通しては、きたのですが、この、二つの、事蹟物、如何せん、漢文に、圧倒され、逃げ出して、しまったと、いう、訳なのです。なんとも、厭な、氣持ちなのですが、いかんせん、どうしようもない、状態なのです。「苦労の程」が、足りないことは、間違い、ないと、思われるのですが、いかんとも、どうしようも、ありません。こんな、なんとも、情けない、私めでは、ありますが、恐れ、多くも、「鷗外先生」の、事蹟物に、刺激を、受けて、なんと、私めも、事蹟物を、まとめて、みようかと、云う、氣持ちに、なって、きたのです。恐れ、多いことです。そこで、鷗外全集を、離れて、手にした、本が、奥多摩町誌、日の出町史だったのです。どういうことか、云えば、これらの、町誌(町史)の、中に、私めが、事蹟物を、まとめようと、している、事の、参考に、なることが、ないか、どうかを、調べるためでした。そして、この、読書は、新編武蔵風土記稿、武蔵名所図会まで、広がって、いきました。そして、それらも、必要部分を、読み終えたのですが、一昨日からは、これまた、「もったいない読書」の、対象本である、「新日本古典文学大系 明治編」の、中の、一冊、「泉鏡花」に、入っています。この、作品集に、ついても、書きたいことが、あるのですが、その、ことに、ついては、後日、記すことに、します。町誌(町史)に、しても、「泉鏡花」作品集に、しても、「鷗外全集」を、読み進めて、なければ、かなり、「苦労」を、強いられる、著作物だと、思われます。私めなりの、「苦労」を、して、読み進めて、きた、「鷗外作品」、特に、事蹟物が、あったからこそ、町誌(町史)にしても、「泉鏡花」作品に、しても、「楽しみ」を、もって、読み、読み終えたり、読み、進めていたり、できて、いると、思われます。こんな、点にも、鷗外作品の、凄さを、感じると、云ったら、なんだ、それはと、笑われる、ことでしょうか。鷗外の、事蹟物に、ダウンされ、その、痛手から、まだ、立ち直れず、その、結果、鷗外作品から、逃げ出し、また、違った、作品の、楽しさを、知るに、至った、と云う、お粗末、きわまりない、一席でした。

 

もったいない読書 金言抄 鷗外 全集 (岩波書店 刊)から 9

  1.  何でも人間は感情に支配せられては可けない
  2.  感情を弄(もてあそぶ)事ができないといけない
  3.  大抵の世間の人は 眞の戀愛なんかを待っている耐忍がないのです
  4.  力づくで眞の戀愛を求める事は不可能ですわ
  5.  僕はこれでも少しは深い處を、奥底を観察する積です