おはようございます。ここ、吉野梅郷は、雨が、降りしきる、寒さを、感じるほどの、朝と、なっています。今週、月曜日から、今日で、3日、連続の、雨の、日となります。この、時期に、よく、見られる、長雨です。この、雨で、欅の、若葉は、雨滴の、重量に、堪えきれない とでも言うかのように、益々、房状と、なって、雨中に、浮かびます。吉野街道沿いの、欅など、房を、連ならせ、覆い被さるかのように、周囲に、若葉を、広げます。樫の、大木も、ここで、ほとんどの、梢は、衣替えを、済ませ、真新しい、少し、赤味がかった、さ緑色の、衣を、身に、着け始めました。その、柔らかさは、雨の、中でも、伝わって、來るかのようです。その、樫の、葉も、時の、経過と、ともに、緑は、濃さを、増し、柔らかさが、失われていきます。それに、伴うかのように、周囲も、緑を、濃くし、林や、森に、深さを、感じるような、季節に、なります。明るい、梢や、明るい、若葉の、色を、見続けてきた、目には、異趣の、光景として、そして、重々しい、静寂な、光景として、入って、きて、心惹かれも、します。梅雨の、季節に、覚える、光景でも、あります。

 

  鴎外全集18巻、「北條霞亭」の、読書は、現在、中断して、います。同じ、事蹟物でも、「澀江抽斎」や、「伊澤蘭軒」の、両作品に、比べたら、鴎外の、意図した、その恩恵に、十分に、浴して、いるとは、思えるものの、それでも、まだ、作品の、量と、語句の、難解さに、ダウン。無理して、読むよりは、少し、間を、おいて、氣持ちが、向き始めたら、再度、読んで、みようと、いうことに、して、現在は、「奥多摩町誌」、読んでいます。唐突に、なぜ、と思われる、方も、いられるかも、知れませんが、実は、鴎外の、「伊澤蘭軒」や、「北條霞亭」とも、まったく、関連が、無いわけでも、なかったのです。この、2作品の、中には、「入り人、入り嫁」という、言葉が、何回か、見受けられます。私めなどは、「入り婿、入り嫁」、という、言葉を、使って、いたのですが、どうやら、「入り人、入り嫁」と、いった、使い方の、方が、正しいようですね。意味的には、「兩養子」と、いったような、意味合いで、使用されるものと、思われます。嫡子に、子どもが、なく、あるいは、嫡子が、夭逝し、結果、「入り人、入り嫁」を、迎え、家を、存続、させて、いこうとする、時に、使われる、言葉だと、思われます。ただ、その、理由だけでは、なかったような、場合も、以前には、あったように、思われます。今、放送中の、NHKの、大河ドラマ、「光る君へ」などを、見ていると、権力闘争の、一環として、そんな、手立ても、行われたかのようにも、思われます。「家」が、なにより、重きを、置いた、時代の、手立てと、言って、よいのでしょうか。この、ことと、関連が、あるのか、どうか、分かりませんが、現在、読んでいる、「奥多摩町誌」の、中にも、「入り人、入り嫁」の、ことに、ついて、触れられている、箇所が、あったのです。紹介します。「奥多摩町誌」の、「近代 3 村勢の推移 婚姻」の項には、次の様に、記されている、箇所が、あります。明治5年の、小丹波村の、婿、嫁の出生地別表を、載せ、『また、九十五戸のうち兩養子により戸主相続が十四、二大続いて兩養子の家が二、戸主のみ養子が十五、現に隠居であるが養子が十二あり、二代続いて養子が四、三代続いて養子が一、となっている。総戸数九十五戸のうち三分の一は養子相続となっている。この割合は何に起因するものであろうか。』と、記しています。この、「兩養子」のことを、調べるために、「奥多摩町誌」、読み始めたのでは、なかったのですが、たまたま、この、記載に、遭遇しました。この、「兩養子」に、よる、相続については、執筆者も、その、原因は、分からないが、なぜ、これほど、多いのだうかと、疑問を、呈しています。ただ、言えることは、事実として、かっては、「兩養子」に、よる、相続が、鴎外の、「伊澤蘭軒」や、「北條霞亭」の、両作品の、中だけに、見られる、制度では、なく、私めの、身近な、1地域でも、かなり、あったと、いう、ことです。言葉を、代えて、言えば、当時  (明治5年)、あるいは、それ、以前には、何らかの、理由を、もって、ごく、当たり前な、制度として、存在していた、と思われることなのです。実は、我が家でも、高祖が、慶応元年(1865年)に、27才で、亡くなり、高祖の、父親が、後に、「入り人、入り嫁」を、迎え入れ、その、兩養子に、よって、家を、相続させて、いるのです。さらに、言えば、その、「入り人」、私めの、三代前の、祖先は、なんと、先ほど、紹介した、小丹波村から、迎えられていた、「入り人」なのです。さらに、面白いのは、小丹波の、「入り人、入り嫁」の、出生地別の、表が、掲載されていて、それを、見ると、なんと、私めの、居住する地区、かっての、日影和田村から、「入り人」が、1人、「入り嫁」が、1人いたことが、分かったことです。これを、見ると、我が家の、先祖と、関係が、あったのでは、ないかと、いろいろな、想像が、駆け巡って、くるのです。例えば、交換条件が、あったのでは、ないか、などと‥。実は、以前に、我が家は、一端、相続が、途絶えている、ということを、聞いたことが、あり、結果、兩養子を、迎え入れ、現在に、至っている、ということを、聞いたことは、ありました。その、兩養子に、ついて、調べていく、中で、「入り婿」は、奥多摩町の、小丹波から、「入り嫁」は、青梅市の、黒澤から、迎えられている、ということが、分かりました。その、「入り嫁」の、実家の、御子孫とは、父親の代までは、行き来が、ありましたが、「入り人」の、方については、その、実家に、ついても、子孫についても、父親の、口から、聞かされたことが、なく、少しでも、手かがりが、得られたならば、という、思いから、「奥多摩町誌」を、読み、始めたのです。先祖の、出に、ついては、分からなかったものの、実際に、「入り人、入り嫁」の、兩養子に、よる、相続は、かなり、当たり前の、ように、行われていた、という事実が、分かった、こと、しかも、私めの、祖先の、出生地である、奥多摩町・小丹波では、かなり、多く、行われていたこと、さらに、私めの、居住している地区、かっての、日影和田村から、小丹波に、「入り人、入り嫁」として、入った、人が、居たことなど、今後、私めの、先祖を、調べて、いく、うえで、参考に、なる、ことが、ありました。さらに、言えば、鴎外の、事蹟物の、内容を、実証するかの、ような、事実を、知ることとも、なり、なんとも、得を、したような、気分に、なった、読書だったと、言えるのです。一つの、本から、いろいろな、知識を、得ながら、その、知識が、また、いろいろな、知識と、結びつき、広がりを、みせていく。読書することから、得られる、たまらない、喜びですね。この、「奥多摩町誌」の、読書は、何か、祖先との、因縁を、感じた、読書でも、ありました。

 我が家は、既述した、兩養子に、よる、相続以前にも、「入り人」に、よる、相続が、ありました。その、祖先に、ついても、因縁を、感じる、出来事や、物が、あります。今後、それらに、

ついても、まとめて、いけたらばと、思っています。

 

もったいない読書 金言抄 鴎外全集 (岩波書店 刊)から 4

  1.  今日生きてゐる おれがまだ明日生きて居るかどうだか知れたものぢゃない
  2.  行中の文よりして外に 更に行間の文を読み候へば 熟く御身の文を解し 又御身をして此文を作らしむる情を解し候
  3.  私はこれまで人の意志に服從したることあらず候
  4.  服從とは何といふ愚かなる御辞にて候
  5.  怯れて回避し、憚りて退縮するは 世に処する所以の道にあらず候