おはようございます。ここ、吉野梅郷は、小雨が、降りしきる、朝と、なっています。ここの、ところ、菜種梅雨と、云う言葉に、相応しい、お天気模様が、続きます。満開に、なった、櫻の花を、見て、陽光が、あったら、どんなに、輝くのかなと、思う、反面、これは、これで、また、一つの、櫻の花が、引き出す、観桜光景の、一つかなと、思えるように、なりました。「菜種梅雨」という、綺麗な、言葉の、響きが、櫻に、降りしきる、雨を、カバーします。
鴎外は、大正2年(1913年)に、近代劇協会の、委嘱により、「ノラ」を、訳出しています。翌年、大正3年(1914年)1月1日には、雑誌、中央公論に、鴎外の署名で、「大盬平八郎」を、掲載しています。中村星湖に、「森鴎外氏の大盬平八郎は、歴史物とは云ひながら、作者が最近の、幸徳秋水事件を、頭に置いて書いたらしい所に私一個の興味があった。」と、言わしめている、作品です。この、作品の、中には、「大盬平八郎」や、「社会主義」に、対する、強烈な、批判とも、思えるような、記述が、見られます。読み出してみます。「平八郎は当時の秩序を破壊して望を達せようとした.。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。」、「未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。」、「(天明・天保の)米屋こはしの此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があったのである。」、「富家と米商とか其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸らして自ら肥えるのを見てゐる彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼らは未だ醒覚してゐない。」、「平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐ろしい社会主義も出なかったのである。」などの、記述です。明らかに、鴎外の、「社会主義」への、批判的な、目が、読み取れる、表現だと、思われます。中村星湖の云う、「作者が最近の、幸徳秋水事件を、頭に置いてかいたらしい」と、云っている、その、内容こそ、この、鴎外の、「社会主義」に、対する、批判だと、思われます。乃木将軍殉死事件以後、歴史物の、創作に、向かっていったと、云われる、鴎外の、やっと、得た、「幸徳秋水事件」への、自身の、思いとも、云える、ものでは、ないのでしょうか。そんな、鴎外では、ありますが、1年前の、大正2年(1913年)には、「女性解放運動」に、大きな、影響を、与えたという、イプセンの、「人形の家」を、訳出しています。なぜ、鴎外は、社会主義の、理念の、一つとでも、云える、「女性解放運動」に、大きな、影響を、与えたと、云われる、イプセンの、「人形の家」を、訳出したのだろうか、あるいは、することが、できたのであろうか、という、素朴な、疑問が、この、爺めには、湧いて、くるのです。方や、批判的な、目を、もってみているものを、一方で、是認する、かのように、扱っている‥。爺めなどは、世の中を、生きていく、中で、後ろめたいなどと、いう、氣持ちは、湧いて、くるものの、その、ような、言動をして、しまうことが、多数あるのですが、あの、鴎外先生が、と思うと、なんとも、不思議な、思いに、なって、くるのです。良く、云えば、生田敏郎が、「夏目漱石さんはいこじだし、趣味も先生のやうに広くはなさそうだし新しい気運にも乗って行けぬ人のやうだ」(鴎外全集第15巻 月報 「森鴎外先生に奉る書」から)と、夏目漱石と、比較して、記している、中から、推測できる、豊かな、幅の、広い、考え方を、もった、大人、鴎外先生だから、と思えば、それなりに、納得は、できそうなのですが、このような、態度を、臼井吉見をして、「偉大なる折衷主義者」などと、言わしめて、いるのでは、ないのでしょうか。このような、鴎外は、あの、女性解放運動活動家、「平塚らいてふ」と、交流が、見られます。明治44年(1911年)9月に、「平塚らいてふ」は、「らいてふ」、25才の時に、雑誌「靑踏」を、創刊します。この、明治44年1月には、幸徳秋水等、12名が、処刑されています。翌年、明治45年(1912年)には、森鴎外が、6月発行の、雑誌、中央公論(与謝野晶子特集号)で、「らいてふ」にに、ついて、次のように、記して、います。『樋口一葉さんが亡くなってから女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であろう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)』と、記し、高く評価しています。また、鴎外は、其の、夫人が、「靑踏」の、賛助会員でも、あったことから、「靑踏」と、ともに、見守って、くれる、人物で、あったと、「らいてふ」等に、思われたいたようです。(「らいてふ」の回想記から)。さらに、その、回想記には、「らいてふ」等が、「新婦人協会」を、設立しようと、した時の、エピソートーも、記されて、いるようです。「新婦人協会」という、婦人の組織づくりを、始めた時、「靑踏」の場合と違い、こんどは、男性の賛助会員を、お願いすることに、なったそうなのですが、その、時に、鴎外を、加えることを、忘れなかったそうです。そして、協会の趣意書、綱領、規約の、草案と、先生宛の、「らいてふ」の手紙を、持って、市川房枝さんが、鴎外を、尋ねて、行ったことが、あったそうですが、当時の、市川房枝さんは、まだ、無名の、若い、婦人だったそうですが、鴎外は、すぐに、会い、賛助会員に、なることを、承諾し、励ましの、言葉を、かけてくれた、上に、朱墨を、用意し、趣意書から、規約まで、詳細に、目を、通して、それに、こまかく、朱筆を、加えてくれたと、回想記には、記されて、いるそうです。()爺めには、これらの、回想記からは、あの、大盬平八郎を、書いた、鴎外を、想像することが、できないのです。反面、どうして、鴎外は、委嘱とは、云え、イプセンの、「人形の家」を、訳出したのだろうか、という、点については、理解できそうなのです。「人形の家」の、訳出は、近代劇協会からの、委嘱とは、云え、明らかに、鴎外には、「平塚らいてふ」や、「靑踏」が、目指す、運動を、後押しする、意図が、あったのでは、ないかと、思えるのです。そして、さらに、推測するならば、その、意図の、背景には、やはり、あの、「幸徳秋水事件」が、尾を、引いていたのでは、なかろうか、思われることです。言葉には、できないが、作家、鴎外としての、良心が、発する、ものです。鴎外は、「澀江抽斎」という、作品の、中で、才が、認められれば、欠点は、あれども、その、人物を、大切に、していく、といったような、内容の、ことを、記していたように、思います。鴎外は、「らいてふ」の、才能を、高く、評価しています。その、人物が、中心に、なって、行っている、活動が、例え、鴎外の意に、反するような、活動だったとしても、その、「らいてふ」の、才ゆえに、「らいてふ」の、後見たる、自覚が、あったとしても、不思議は、ないのです。「幸徳秋水事件」に対する、忸怩たる、思いが、一層、「平塚らいてふ」の、活動に、目を、向けさせた、ということも、考えられます。大正2年という、時期に、鴎外が、イプセンの、「人形の家」を、訳出し、発表したことは、「平塚らいてふ」等の、運動を、後押し、する、意味でも、「幸徳秋水事件」との、関連からも、十分、意図するもものが、あったのだろうと、考えられるのです。そして、その、翌年に、「大盬平八郎」を、発表したのも、中村星湖が、云って、いるように、「幸徳秋水事件」を、意識していたものと、考えられるのです。そんな、意図の、下に、「人形の家」を訳出したり、また、「大盬平八郎」を、発表したりする、鴎外‥。大人として、捉えるか、それとも、臼井吉見の、云われるように、「偉大なる折衷主義者」と、して、捉えるかは、読者の、判断に、なるのでしょうか。
もったいない読書 金言抄 夏目漱石 全集(筑摩書房 刊)から 37
- ごんと鳴る 鐘をつきけり 春の暮
- 行く春や 紅さめし 衣の裏
- 花の寺 黒き仏の 尊さよ
- 寺町や 土塀の隙の 木瓜の花
- 溫泉湧く 谷の底より 初嵐
- 山里や 今宵秋立つ 水の音
- 草山に 馬放ちけり 秋の空
- 秋雨や 杉の枯れ葉を くべる音
- 行けど萩 行けど薄の 原広し
- 語り出す 祭文は何 宵の秋