おはようございます。ここ吉野梅郷は、午前5時頃の室外温度は、4度弱。マイナス温度にはなりませんでしたが、空は、雲で覆われ、陽光の届かぬ、外の光景は、寒々とした、真冬の光景そのものです。冬枯れの野が、冬を演出します。

 

  和田町紀行 その44  「字」考 ②  和田8軒

  ,年齢を重ねてくると、自分の生まれ故郷に懐かしさや、愛着を感じることが、多くなってくるようです。自分が生まれた故郷は、どんなところなのだろうか、どんな歴史を刻んできた場所なのだろうかなど、そんな思いが募ったのでしょうか。一時、「和田8軒」という言葉が、話題に上がったことがありました。日影和田村時代、中心になって、村営に関わっていた家8軒とか、日影和田村の開村当時、存在していた家、8軒とか、いろいろ、推測できそうです。さらに、8軒という数に、限定されていることを考えれば、何らかの理由によって、限定された、8軒であることが推測されます。他にも、いろいろ、考えることが、できそうですが、現在、残されている資料を用いて、考えていくなら、この「和田8軒」は、江戸時代の「字」との関係から説明できそうです。

 「字」というのは、もともとは、同一時期に、開発された田畑などの、一まとまりを指す、呼び名であったようです。後に、そこに集落が生まれ、その地名として、用いられるようになりました。それは、村内の江戸時代の検地帳によって登録され、固定されていったようです。

  和田町の例に戻ります。新編武蔵風土記稿によれば、文化文政期(1804年~1829年)には、日影和田村には、8つの字があったと記されています。馬牽、大月、明王澤、こほき、君ヶ窪、赤土入、並木、下和田の8つの字です。このことから、当時の日影和田村には、8つの集落があったと考えられます。村勢要覧ともいうべき、天明2(1782)年の村差出し帳の家数の欄を見てみると、家数は、寺を含めて、54軒とあるので、ほぼ、同時期の文化文政期には、単純に考えれば、一字(一集落あたり)、6軒から7軒あたりの集落が、8集落あったと考えてもよさそうです。それらの、集落の中には、必ず、リーダー的な存在の人物や、家が、居たり、あったりしたはずです。その、それぞれの集落で、中心になって、集落をまとめていた家、それぞれが、「和田8軒」という呼び名で、現在も、伝えられているのでは、ないかということなのです。君ヶ窪という字を除けば、他の7字は、その場所を、ほぼ、知ることができます。そして、現在も、君ヶ窪を除けば、和田8軒と呼ばれていたうちの、7軒にあたる、と思われるお宅が、江戸時代の字区に、それぞれ存在して居ると考えられるのです。現に、「和田8軒」と呼ばれる家の一軒だと、言い伝えている、お宅もあります。江戸時代の字名が、江戸時代の、日影和田村を語ります。 (続く)

 

和田町遠景

右下 赤い橋                和田橋

和田橋の左、木立に囲まれた地域  和田町

 

和田町遠景

正面の山    愛宕山

愛宕山の下  上原、下和田、赤土入 方面

 

和田町遠景

正面の山   愛宕山

右下      下和田、  左  明王澤

 

和田町遠景

写真  左端 中ほど   こほき

写真  正面の山     愛宕山

写真  左 中ほどの山  要害山