2009年3月17日、火曜日。
まだ、太陽の昇らない街。
眠気覚ましに、僕は、何度も、仕事場のヴェランダに出て、タバコを吸った。
3月の冷たい空気を吸い、胸の真ん中をまっすぐに空洞ができ、そこを風が通る。
部屋に戻ると、また睡魔が襲い、そこは、黒い迷路の始まり。
この時間を、なにして過ぎればいいのか。
何度か、チャマの絆創膏を確認する。
いつもはどこかに隠してある懐中電灯を持ち、チャマの顔を照らさないように、手で半分を塞ぎ、見てみる。
この時、僕は、ドキドキが止まらない。
なぜなら、白ければいいのだが、もしも、黒くなっていたら、それは出血しているのだ。
それも、そこから漏れていて、知らない間に時間が過ぎていたりしたら、もしかしたら、大量出血している可能性だってある。
だから、眠れない。
だから、寝れない。
人は、どれだけ、眠らなくても平気なのだろう。
そんな事を思っている事自体、僕は、きっと、寝たいのかも。
嗚呼、寝たい。
嗚呼、寝たい。
でも、寝れない。
怖くて、寝れない。
そんな後悔だけは、絶対にしたくない。
自分の愚かさの中で、チャマを知らない間に失う事は、絶対にしたくない。
でも、どうしたらいいの。
いつまでも、こんな風に、寝ない訳にもいかない。
やっぱり、僕ひとりでは無理なのか。
かと言って、誰も、いない。
頼る人が、いない。
こんな時ほど、あと何人もの僕がいてくれたら。
5時。
何度目かに僕が布団へ座り、チャマの首を確認しようとした時。
「オチッコ」
チャマが、僕を感じて目が覚めたのか。
寝ぼけているのもあるけれど、フラフラしながら、僕につかまり歩く。
コンタクトレンズや眼鏡をしないと、チャマは、足元も見えないし、首も曲げれないから、ずっと、僕の顔を見ている。
「ポッポ」と、僕が言うと、歩きながら、チャマは唇を尖らせて、そこへ僕は、ポッポした。
チャマは、目をまん丸にして、「どうして、この子はいつも、ポッポするんだろう」と、言う目で、僕を見つめている。
僕は、ニコっとしたら、「ふっ」って、チャマは笑った。
長いトイレを済ませ、チャマはうがいをした。
首を曲げれないから、顔は上を向けない。
だから、口に含んだ水は、完全に喉を塞げずに、乾いた音がする。
それでも、一生懸命、うがいする。
放射線治療を終えてから、唾液が出なくなり、舌が乾くのだ。
そのせいもあって、喉の中の出っ張っている腫瘍も、乾く。
そして、それは、カピカピになり、痛いほど乾いて、ただでさえ唾液が出ず、飲み込む動作が裂けるほど苦痛なのだ。
例えるなら、口を開けて寝ていて、起きた際に、ゴクンと乾燥した喉を鳴らした時、少し痛いのと、同じ。
チャマの場合は、唾が無い分、それを、何十倍にもした痛み。
だから、うがいは大切。
唾液の代わりに、喉を潤ってくれるんだから。
キチンに行き、お茶を飲ませた。
「ミコ、寝なかったんでしょ」
「寝てたよ」
「さっき、腕伸ばして、ミコがいるか確認したら、いなかったよ」
「オチッコして、一服もしてたの」
また、僕は、嘘を、言った。
きっと、チャマにはお見通しだろうけど、何も言わなかった。
一緒に布団に入って、チャマの寝息を待っていたら、僕も、寝てしまった。
そんな時の目覚めは、急に起こされてパニくっているハムスターのように、布団の中で、体を何回転もして、起きる。
上空に散らばった浅い記憶が、一瞬にして頭に戻ったように、時間を確認した。
「やばいっ、寝ちまった」と、思いながら、チャマの首元を確認する。
「血、出てない」と、安心しながらも、今度は、チャマの呼吸を確認する。
「はぁ」、ここでやっと、一気に息を吐き、睡魔の余韻に戻る。
朝だ。
無事に、朝だ。
でも、ここでも、僕は、不安を煽る。
「寝ている間に、チャマは起きなかっただろうか」
「トイレに起きなかっただろうか」
「もしかしたら、声を掛けても、僕は目覚めず、ひとりで行ったのではないか」
考えたら、限が無い。
もう過ぎてしまった時間。
こうして、チャマは、無事なのだし。
でも、心は、寝てしまった後悔で、溢れて、垂れた後悔は、ドロドロに固まる。
チャマが起きたのは、9時30分を過ぎた頃だった。
今朝も、声から、元気は消えていた。
また、薬のために、ヨーグルトを二口。
そして、大量の薬。
オプソは、まだいいと言って、飲まなかった。
「今日も、調子悪いなぁ・・・」
何度も、ため息をする。
絆創膏を張替え、ソファに座ったかと思ったら、「また、横になってるね。ごめんね」と言い、布団へ寝かせた。
開けていたカーテンを掴み、窓から、外を見た。
「今日も、天気いいんだね」
「うん」
「今日は、暖かいみたい・・・」
「うん」
「少し、窓、開けたまんまにしとこぉ~かな」
やっと、僕らは、会話らしき言葉を交わした。
チャマは起きてから、喋りたくないオーラを発していて、僕は、煩わしくなりそうな余計な事を話さないでいた。
一緒に、いるのに、話しをしないと言うのは、本当に、悲しい。
まして、目を合わせないのも、本当に、淋しい。
病気でもなんでもない時は、全くもって、そんな事など、感じないだろう。
他の人はどうなのかな。
遮光性のカーテンを閉めると、明るい部屋は、一気に暗くなり、カーテンの上部から漏れる、照り返した陽が、天井を少しだけ明るくしていた。
「何かあったら、すぐに呼んでね」
「うん・・・」
「寒くないかなぁ」
「大丈夫。気落ちいいよ」
「・・・」
「ミコ、今日は、バイト休まなくてもいいからね」
「・・・大丈夫なの?」
「うん。休んでばっかりだと、バイト代少なくなっちゃうし」
「うん」
「来月も、病院代とか、薬代とかで、大変だからさ」
「そうだね」
「ごめんね、ミコばっかり」
「えっ、平気だよ。気にしなくていいんだから」
「ごめんねぇ」
「チャマちゃん、謝んなくていいんだから。ミコが具合い悪くても、チャマは同じ事してくれたでしょ?」
「・・・」
「ね」
「・・・うん」
僕は、チャマが謝ると、いつも同じ事を言う。
でも、これが、一番の説得力を持つ言葉だから。
チャマだって、絶対に、僕の為にしてくれるはずだし、いつか、僕が足の靭帯を痛めて歩けなかった時、いっぱいしてくれたんだから。
あの時、どんなに嬉しくて、こんな感情もあるんだと、初めて知ったんだから。
だから、自然の如く、こうして、僕は、チャマの為なら、なんでもできるんだから。
そして、また、僕はひとり、歩いても、歩いても、進まない、黒く渦を巻いた、迷路に吸い込まれてゆく。
早く老人に、なりたい
...
