万能主義はこれ害あるのみ | 断片的な日々 

万能主義はこれ害あるのみ

著作権侵害の可能性が極めて高いと指摘される『最後のパレード』(サンクチュアリ・パブリッシング発行)に関連して、著者としてクレジットされている中村克氏だが、ことあるごとに「ホスピタリティ」だの「友愛」だのを持ち出して、「これによってあらゆる問題は解決できる」という持論を展開している。


中村克氏の論法にはさまざまな問題点が散見するが、感情的な不快感ならびに倫理的な観点を排除して考えた場合、2つの注目すべきポイントが明らかとなる。


まず、中村氏克が「具体的な事実を把握していない」という点である。事件や出来事など、あらゆる現象は似ているようでも個々の事例は細かく異なっており、それぞれの状況に何らかの特徴がある。そうした状況を正確かつ具体的に把握することによって、その結果に至った原因を確認もしくは把握、あるい推測することができる。


しかし、中村氏はほとんどのケースで、具体的、現実的な状況を把握しているとは考えられない。福知山線事故も、事後の詳細について理解していると考えられる記述は同氏の発言の中にはほとんど見られないし、日航機墜落事故に関しても同様である。また、かの「大津小学校プール事件」に関しても、「児童をTDLに招待した」という、現実とは違ったことを公言して訂正もしていない。こうした例はほかにもいくつもあり、中村克氏が事実ではない情報を鵜呑みにしているか、よく調べもしないままに自らの憶測や思い込みで発言している可能性を否定できない。


そして第2に、これがより重要なのだが、すべてを「ホスピタリティ」や「友愛」によって説明と解決が可能だとしている万能主義である。こうした万能主義によって、さらに現象の分析と事実の解明を阻み、真実を明らかにするためには「百害あって一利なし」であることは明確である。なぜなら、「ホスピタリティ」や「友愛」という文言によって説明や解決が可能であるという価値観を多いかぶせてしまえば、それ以上の追求は「無駄だ」という論理に発展させることが可能だからである。


実際、中村克氏によって、現象や状況に関する具体的かつ論理的な分析や検証が実施された形跡は、その片鱗すら見当たらない。すべてが情緒的、あるいは感覚的なイメージでしかない。


このような万能主義は、事実の隠ぺいや握りつぶしに、たいへんに有効に機能することを、歴史を学んだ人間であれは誰でも理解している。その意味で、万能主義は権力者志向、強者の論理と呼んでも過言ではなかろう。少なくとも、配慮とか思いやりとは、まったくかけ離れた発想であることは、まず間違いなかろう。