「創価認定」という行為の意義 | 断片的な日々 

「創価認定」という行為の意義

ブログ「3羽の雀の日記」において、本ブログの過去のエントリーを紹介いただいている。同ブログの3羽の雀氏に深く感謝申し上げるとともに、筆者の駄文拙筆をご容赦いただきたい。


3羽の雀の日記〈一挙掲載!「御用ライター」裁判関連記事〉

http://d.hatena.ne.jp/three_sparrows/20090808


さて、同ブログは社会運動家の瀬戸弘幸氏によって「創価学会の犬」と認定されているようだが、筆者にはその意味がよくわからない。とくに急ぐ要件でもないので、いずれ暇を見つけて検証するとしたい。


「せと弘幸Blog『日本よ何処へ』」〈アンチブログを「創価学会の犬」と認定〉

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52272120.html


さて、サイト版『東村山市民新聞』や瀬戸弘幸氏は、ジャーナリスト宇留嶋瑞郎氏やブロガー3羽の雀氏に対して「創価御用ライター」とか「創価学会の犬」などと呼び、しばしば非難や攻撃的発言を行っている。


その発言に対して、筆者はとくに強く非難するつもりはない。ただ、そうした発言行為が何を意味するのか理解できないため、疑問を呈するだけである。


はたして、ある特定の個人を、「創価御用ライター」とか「創価学会の犬」とか呼んで非難することで、どのような成果が期待できるのか。


例を挙げて説明してみよう。筆者は、「共謀罪の導入」や「現在一部で議論されているような形での児童ポルノ禁止法の改定」には反対の意思を示している。


だが、そうした法的な動向に対して賛成の意を示している人々もいる。そして、筆者などはそうした賛成意見に、異論を唱えることもある。だが、異論を唱える対象はあくまで「意見」に対してである。たとえば、「共謀罪導入に賛成する」という、発言なり記事なりその他の文章なりを具体的に取り上げ、「橋本玉泉めといたしましては、僭越ながら異論申し上げます」と、あくまで「意見」を述べさせていただくことであろう。


まして、そうした「賛成派」に対し、「共謀罪擁護派」とか「児ポ法改正の犬」などと呼んで個人攻撃などしたことはないし、今後もそんな気はまったくない。なぜなら、何の意味もないからである。


では、どのようなものに「意味」があるのかと問われたら、ライターとしてはやはりそれらの導入や改定に対して、いかなる弊害または市民生活への悪影響について、その可能性を自らの取材と意見によって述べることであろう。また、もし社会活動家であるならば、国会その他の機関へのアピールを働きかけることも必要と考えるであろう。少なくとも、「賛成派」「擁護派」を攻撃して、何らかの「意味」があるなどとは考えられない。


ところが、『東村山市民新聞』や瀬戸弘幸氏は、これまで宇留嶋瑞郎氏や3羽の雀氏に対して、「意見」や「発言」に対して「創価認定」を行ったこともなく、その直接的かつ具体的根拠を示したこともない。


そして、そうした個人を特定した「創価認定」が、彼らのいう「反創価学会活動」に関して、どのような効果があるのかについても、何一つ説明も提示もしていない。つまり、「彼らはこのような行為によって、創価学会や公明党に対して利益を与えた」という明確な発言や意思の提示もないまま、ただこじつけめいた理屈をつけて、「創価御用ライター」とか「創価学会の犬」と呼んでいるだけである。


はたして、宇留嶋瑞郎氏や3羽の雀氏に対し、『東村山市民新聞』や瀬戸弘幸氏が個人攻撃的な非難を繰り返す理由はどこにあるのか。筆者には、まったく理解できないのである。