中村氏には倫理や良識の片鱗も存在しないのか | 断片的な日々 

中村氏には倫理や良識の片鱗も存在しないのか

著作権侵害の可能性が極めて高いと指摘される『最後のパレード』(サンクチュアリ・パブリッシング発行)に関連して、著者としてクレジットされている中村克氏が、自らのサイト「外部の専門家」において、新たな記事を公開した。


「最後のパレード」とみのもんた
http://gpscompany.blogdehp.ne.jp/article/13493641.html


筆者は過去に、自らの保身と優越感の維持にしか関心を持っていない人間に、幾度か会ったことがある。しかし、中村克氏ほどその傾向が顕著なケースは初めてである。


上記引用で、「柿」の逸話を引き合いに出しているが、毎度のことで中村氏による完全な意味の曲解でしかない。


柿の所有者が自らの意思で、自分の所有物である柿を不特定多数に配布することと、所有者に無断で財産権が明確になっているものをかき集め、それを有償で販売して私腹を肥やすことは、まったく別の行為である。行動においても倫理的に見ても、直角にずれているとしか考えられないことは明白である。


つまり、中村氏のやったこととは、他人の庭や果樹園から断りなしに柿を盗み歩き、それを「素晴らしい柿ですよ」と『中村印』の刻印を押してカネを取って売りさばいただけのことである。この行為を、どう弁護すればいいのか、筆者は考え付かない。


人間の価値を定める大きな要素は、その行為と行動ではなかろうか。ただ空疎な言葉で「思いやり」だの「ホスピタリティ」だのと連発しても、行為と行動においてそのまったく逆であるのなら、どんな発言をしようが毛ほどの価値も無い。たとえば、殺人を趣味とする異常性格者が、「人の命は地球よりも重い」などと発言しても、そこに何の意味があろうか。あたかも、グロンギ族が人命尊重を口にするかの如きである。


もはや中村克氏の内部には、良識や倫理や人としての良心といった、言葉も要素も存在しないとしか考えられない。そのひとつの証拠として、2009年6月29日付けの同サイトの記事「自殺志願…」は、現在も削除も訂正もなされていない。