瀬戸弘幸氏のコメントについての疑問 1
瀬戸氏のコメント
http://ameblo.jp/tg016450/entry-10243715903.html#cbox
しかしながら、瀬戸氏の発言のなかにはやや理解するに戸惑う部分が見受けられるので、以下に同コメントを引用し、その確認を試みるものである。
>>>>>>>>
貴殿が書いている通りです。是非宇留嶋さんに確かめて頂きたいものです。自分の原稿を載せている出版社の社長の言葉ですから、重みが違いますよね。
(瀬戸弘幸氏からのコメント 抜粋)
>>>>>>>>
まず最初の疑問を感ずるのは、なぜ瀬戸氏はしばしば「確かめてみよ」「調べてみなさい」と命じるのであろうか。
筆者は別に、他者から指図されるのが嫌いなわけではない。むしろ、多くの方々のご指導は必要かつ価値があると認められるのであれば、喜んでお受けしている次第である。
しかし、瀬戸氏は自ら「ジャーナリスト」を名乗っている方である。そして、ジャーナリストの仕事のひとつは「調査報道」であることは言うまでもない。筆者も仲間のジャーナリスト諸氏から「この件について取材してみてくれ」と頼まれることが少なくない。だが、その場合の多くは、頼んできたジャーナリストたちも、自分達なりの取材を行い、記事として報じている。すなわち、「こちらも記事にするが、お前なりの取材をして、お前の視点からの記事にして欲しい」ということである。
ところが、瀬戸氏は特にご自身の取材については報じることなく、なぜか当方に「調べてみよ」「宇留嶋氏に確かめてみよ」とご命じになるばかりである。
次に、なぜ瀬戸氏は、「宇留嶋さんに確かめて頂きたい」などという表現をするのであろうか。
この事例における重要なテーマは、「宇留嶋瑞郎は『創価御用ライター』と呼ぶことは妥当か」であることは異論を待たないところであろう。だとすれば、瀬戸氏は筆者に対して、「事実を確認せよ」とだけ命ずればよいはずである。
しかし、「宇留嶋氏に確かめよ」などとは、調査や取材の基本を心得ているものならば、まずそうした表現が発せられることに強烈な違和感を覚えずにはいられないはずである。
なぜなら、すでに宇留嶋氏は「自分は創価学会とは関係が無い」との発言をしていることは、本ブログにおいて取材済みであることはすでにご報告した通りだからである。
かりに、本ブログにおいて過去の「検証」が行われていなかったとしても、宇留嶋氏への聞き取り取材だけでは不十分であることは明白である。なぜなら、宇留嶋氏が自らに不利と判断するような題材に対して、回答を拒否する、または虚偽の証言をする可能性も考えられるからである。
(つづく)