追悼・西本幸雄監督 | 僕と野球・私と政治

追悼・西本幸雄監督

 11月25日午後8時40分、兵庫県宝塚市の自宅で心不全のため元大毎・阪急・近鉄監督の西本幸雄さんが亡くなられました。


 西本監督(と呼ばせてください)は大正9年生まれ、僕は昭和43年生まれということで、僕にとって西本監督は4回り上の「サル年の大先輩」にあたるんです。

 そんなこともあって、西本幸雄監督のことを勝手にですが親近感を抱きながら応援していたんです。


 僕がプロ野球を本格的に観戦しだしたのが昭和50年代の初めでした。

 

 その頃、パ・リーグは上田利治監督率いる阪急ブレーブスが黄金時代を迎えていましたが、そんな阪急ブレーブスに人一倍闘志を燃やして戦っていたのが前の阪急ブレーブス監督・西本幸雄監督が率いる近鉄バファローズだったのです。


 西本監督は、それまで「パ・リーグのお荷物」とまで言われていた近鉄バファローズを、「18歳の4番打者」として有名な、当時の主力バッターの一人であった土井正博選手を太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)へトレードするなどの大胆なトレードと若手の抜擢で長年染みついていた「負け犬根性」を払拭し、「阪急ブレーブスのライバル球団」にまで育て上げられたんです。


 昭和50年の後期優勝(当時パ・リーグは2シーズン制を採用していました)をきっかけに、昭和54年にはついに1シーズン制では球団創設以来初めての優勝にチームを導かれました。

 その年の日本シリーズは3勝3敗のタイで迎えた第7戦、小雨がそぼ降る大阪球場、9回裏ノーアウト満塁という一打逆転サヨナラという場面で、近鉄は広島・江夏豊投手の前に「江夏の21球」の前に敗れ去りました。


 その頃からでしょうか、「江夏の21球」が山際淳司さんの手によって描かれたりしたことがきっかけとなって、西本幸雄監督が「悲運の名将」と呼ばれることが多くなってきました。


 その後、西本監督は昭和56年、チームが最下位に沈んだのを最後に監督を勇退、監督としての最後の試合は奇しくも「阪急VS近鉄」の教え子同士の対戦になりました。

 その試合が終わった後、西本監督は近鉄阪急両チームの選手全員の手によって胴上げされました。

 僕は今までに選手や監督の「さよなら胴上げ」を見てきましたが、両チームの選手全員から胴上げされた監督は西本幸雄監督をおいて他には知りません。


 その後はスポーツニッポン新聞の野球評論家として、監督時代さながらの「ゲンコツ説法」でご活躍なさいました。


 また、阪急時代の教え子の中からは山田久志さんが中日ドラゴンズの監督を、福本豊さん、加藤英司さん、長池徳士さんが各チームのコーチを歴任され、近鉄時代の教え子の中からは鈴木啓示さん、佐々木恭介さん、梨田昌孝さんが近鉄バファローズの監督をそれぞれ歴任されました。


 西本幸雄監督は「悲運の名将」と呼ばれることが多いですが、多くの「人」という財産をプロ野球界に遺された点においては「日本一の名将」かもしれないと僕は思います。


 謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。