実に半年振りくらいの投稿です。本当は携挙についての記事の続きを書かないといけないのですが、この主題について学べば学ぶほど、「患難前vs患難後」といったトピックは無論、考慮しなければならない聖書箇所が多すぎてまとめることができずにいるうちに時間ばかりが過ぎてしまいました。
しかしここへきて、どうしてもスルーできない事件がありましたので、ぜひそれについての分析を書いておきたいと思います。
教会附属学校を襲った惨劇
先月27日、米国テネシー州ナッシュビルに所在するコベナント長老派教会に付属した学校に銃で武装した人物が押し入り、児童3名と教職員3名を射殺したのち、駆けつけた警官たちとの銃撃戦のすえ死亡しました。
犯人はオードリー・ヘイルという28歳の女で、女性から男性への移行を行ったトランスジェンダーと報じられています。
この事件、たいへん惨たらしく胸の痛むものですが、
その一方で米国ではこれまでたびたび乱射事件が発生してきたので、一見すると他の乱射事件とそれほど変わらないもののように見受けられるかも知れません。
しかし、トランスジェンダリズムのこれまでの軌跡という文脈を考慮にいれると、
この事件はひとつの「転換点」であり、また同時にトランスジェンダリズムというものが向かっている(さほど遠くはない)終着点、のようなものを指し示していると筆者は考えてます。
それをこれから説明していきたいと思います。
「被虐殺自認」が火をつける暴力運動
この日本では、トランスジェンダリズム、つまり「生まれつきの身体が男性/女性であっても、本人が自認さえすれば女性/男性に移行することができる、また社会全体もその移行を認めるべきだ」、という特異な思想の存在は、
政権与党によるLGBT理解推進法の検討といったこともあり、だいぶ認知されるようになってきたと思います。
しかしながら、多くの場合私たちが目にするのは、
トランスジェンダー活動家が「トランスジェンダーは自殺率が高い」といった(根拠のいささか曖昧ではあるものの)、比較的穏健な言説をもって、
性自認をベースとした性別移行の法制化を訴えるといった光景です。
しかし、米国においては事情は大幅に異なっているということをまず述べないとなりません。
米国における活動家のトーキングポイントは、「トランスジェンダーは自殺率が高い」という言説をさらに超えて
「トランスジェンダーは虐殺されている」といったものにエスカレートしています。
(上)すでにTransgender genocide,あるいはtransgenocideという言語がネット上に浮遊しはじめている。
これ、要は「トランスジェンダーは殺人事件の被害者になることが多い」という知見を元にしているようです。
その背景には、そもそも報告対象地域に殺人そのものが多いとか、
トランスジェンダーに移行する人たちはもともとメンタルに深刻な問題を抱えていて、トラブルに遭遇する確率が高いとか、
場合によっては路上売春などリスクの高い行動をとることがあるとか、
いろいろな要因が考えられます。
ともあれ、活動家はこれをもって「トランスジェンダーは虐殺されている」「この虐殺を止めなければならない」と唱え、
それを根拠として、トランスジェンダリズムのアジェンダに反対する言説を封じようとするわけです。
いっぽうで、拙ブログで過去に書いてきたとおり、
トランスジェンダリズムの旗印と「(たとえ身体が男性でも)トランス女性は女性だ」というスローガンのもと、
男性がスパやジムの女性スペースに侵入し、
女性のスポーツ競技に参入して上位を奪い去り、
挙げ句の果てには女性に対する性犯罪を犯した男がひとたび女性を自認するだけで女性刑務所への移送を認めるなど、
ほとんど「やりたい放題」のトランスジェンダリズムの現状に対しての反感は昨今とみに強くなってきており、
いくつかのスポーツ競技団体は最近になってトランス女性(身体男性)の女性競技参加を禁じるなど、遅ればせながらも常識的な対応を取り戻そうとしています。
その一方で、憂慮すべきは学校教育と医療の現場です。
以前拙ブログでご紹介したAbigail Shrier女史の 「Irreversible Damage」という著書で明らかにされたとおり、
思春期の青少年、特に10代の女子児童・生徒たちの間で、「トランス」を自認する事例が爆発的に増加しており、
それに伴いそのような少女たちが男性に「移行」するためのホルモン「治療」、さらには外科手術に踏み切り、
その結果病理的にはなんの問題もない乳房などの身体器官を切除し、
最悪の場合「人工ペニス」を形成するために腕の皮膚をゴッソリ剥がれる、といった悲惨な事例までも報告されています。
これに対する憂慮から、いま多くの米国保守州においては「未成年へのトランス医療を禁止する」法律が制定されるに至っています。
そもそも、飲酒も喫煙も運転も許されていないような年少者について「性別の移行」だけは自分の意思でできるとすることは甚だ疑問であり、
また、不安定な思春期のうちに、身体を不可逆的に変えてしまうような決断を子供にさせてしまうのは酷であるといった観点から、
このような立法は未成年の保護を主眼としたきわめて常識的な対応と考えられます。
しかし、これに対して怒り狂っているのがトランス活動家たちです。
上述したとおり、彼らのマントラは「トランスジェンダーは虐殺されている」です。
このマントラによって自らを勢いづけている米国トランス活動家は、
それでも反対派が譲らないとみるや
なんと「反撃せよ」あるいは「武装せよ」と呼び掛けているのです。
Trans activist goes on unhinged rant calling on trans people in Tennessee to fight. “Beat them, hurt them.” @FBI pic.twitter.com/JeEhM68PdT
— Libs of TikTok (@libsoftiktok) March 28, 2023
(上)おりしも、乱射事件の起きたテネシー州では「反トランス的」立法が成立したことを受け「奴らを叩け、痛めつけろ」と扇動するトランス活動家。
(上)元兵士と考えられるトランス活動家が「(我々が直面している『虐殺』解決策にはならないが)、自らを武装せよとトランス仲間に呼びかけている」という動画が波紋を呼んでいる。
日本人にはなかなか信じられないかもしれませんが、
しかし一方でいかにも現在の米国らしいといえば言えるかもしれません。
ともあれ、「虐殺されている」というプロパガンダも100ぺん繰り返せば自分でも真実に聞こえて来るのでしょう。
彼らは、自分達は虐殺されている、という「自認」から、
その「虐殺」への「反撃」として、
武装しての戦いを呼び掛けるに至っている。
冒頭の銃撃事件はまさにそのような背景の中発生したものです。
そういった背景と犯行の関連性の詳細については、現在は公表されていない犯行声明の内容が明らかになるのを待たなければなりませんが、
米国においては多くのトランスジェンダー者が親や周囲への強い憤りを抱いていることが報告されています。
さらにはホルモン摂取によって精神不安定な状態に拍車がかかったり、
(女性から男性に移行しようとする場合、テストステロンといった物質の摂取によって性格の猛々しさが増加することもありえます)
そこへきて活動家による暴力煽動が加わっていることを考えれば、
少なくとも、このような事件を「起こるべくして起こった」と表現することは失当ではないでしょう。
怒りと暴虐の群衆:「いつか見た光景」
繰り返しになりますが、米国におけるトランスジェンダー運動の過激さはその言説においても、暴力性においても、日本のそれとは桁違いですが、
このことは、米国だけでなく他の西欧諸国でも同様に観察されています。
ニュージーランドでは、女性の権利を主張する集会に参加した老女が顔面を激しく殴られ、
一方カナダでは、年少者へのトランス「治療」に反対する活動家がトランス側に暴力を受け負傷したことが知られています。
これらは最近報告された少数の例に過ぎず、トランス活動家の反対派に対する暴力は枚挙に暇がありません。
上で述べた、「反撃」「復讐」といった暴力煽動と、こういった公共の場でのトランス活動家の暴力的な振る舞い、
このふたつの要素の連関については「鶏が先か卵が先か」という議論になってしまいそうですが、
私ブログ主にとっては、
公共の場で反対派を封じようとするこの運動の暴力的なありようと、
そこからさらにエスカレートし武装闘争を呼び掛けるという手法が、過去にみてきた「あるもの」を想起させるのです。
勘の良い読者の皆さんならお気付きかもしれませんが。
そう、それは「イスラム過激主義」です。
もはや一昔前になってしまいましたが、かつて2015年に「難民危機」が欧州を中心とした西欧諸国に大きな影響を与えました。
中東、南アジアおよびアフリカから、多くの人々が地中海を渡りあるいは陸路で欧州に向かい、
ドイツやスウェーデン、英国といった国々に押し寄せたのです。
その人々の多くは紛争難民というより、より良い暮らしを求める「経済移民」であっただけではなく、
その多くが「イスラム教徒」であったため、
ヨーロッパが「イスラム化」してしまう、という深刻な危惧が持ち上がってきたのです。
この「イスラム化」というものを少し説明します。
イスラム教の戒律というものは、日本人が理解するところの信者個人個人を拘束するに留まる宗教戒律とは大きく異なっており、
ざっくりと表現すると「イスラム教徒だけでなく、周囲の非イスラム教徒も順守しなければならない」ものを含んでいます。
たとえば、「預言者ムハンマド、アラー、コーランを冒涜してはならない」とう戒律は、非イスラム教徒にも適用され、これへの違反は基本的に死罪です。
ここまで極端な例でなくとも「アルコール・豚肉の禁止」といった戒律についても、
ただ単にイスラム教徒個人が気を付けて避けていれば良い、といった議論は適用されず、
周囲の異教徒の側もそれに協力することが要請されます。
本筋から外れるので、これについては軽い説明にとどめますが、
イスラム教はその成立当初から武力を前提とした政治支配が付随していたため、
近代西洋や日本では当然のこととされている政治と宗教の分離はまったく想定されていないわけです。
そうすると、西欧諸国におけるイスラム教徒の人口が増加すれば、
「非イスラム教徒にも戒律を順守させようとする圧力」が高まるのは必至であり、
ましてやイスラムを風刺や批判の対象にしようとした場合、
その戒律に基づいて「死刑(私刑)」を執行しようとする人物が現れるのも必然な訳です。
さて、トランスジェンダリズムに話を戻します。
筆者の視点から見ると、トランスジェンダリズムの要求事項の発展とその究極形といえる暴力煽動は、
イスラム過激主義と相似形をなしていると表現できます。
イスラム過激主義が、非イスラム教社会に戒律の順守を要求したように、
トランスジェンダリズムもまた社会に数々の「戒律」を突き付けています。
たとえば、ただ単に性別の移行を認めることにとどまらず、
トランスジェンダー個人が指定する「代名詞」の使用を要求する、などです。
また、女性を自称する男性による女性スペースへの侵入、女性スポーツへの参入、
性的に混乱を抱えた未成年へのホルモン投与や外科手術、
こういった事象に公に反対を唱える人物は、
「トランスフォビック」と断罪され、言論プラットフォーム上で袋叩きにされるだけではなく、
ときには本格的な脅迫、殺害予告に晒されます。
そして、それでも反対派が譲らなければ、武装しての暴力煽動。
思えば、日本と米国はじめ諸外国の違いを差し引いても、
「トランス法制」が(性同一性障害特例法を除いて)ほとんど無いも同然の日本ではここまでの過激化は見られません。
なのに、日本よりはるかに「ススん」でいるはずの西欧でトランス運動の暴力性の高まりが顕著である、ということを考慮すると、
トランスジェンダリズムというのはイスラム過激主義と同じで、
「譲歩すればするほど、受容すればするほど過激化する」
という危惧を持たざるを得ません。
自縄自縛に陥った本邦クリスチャン「アライ」たち
ところで、この日本におけるナッシュビル乱射事件の報道を見ると、
いくつかの放送局がとおりいっぺんの報道を行った以降は、他の乱射事件同様忘却の彼方に追いやられたようです。
しかし、もっと奇妙なのは、日本に少数ながら存在する「クリスチャンメディア」の大部分が、この事件を報道さえしていない、ということです。
私が調べた限りでは、冒頭に引用した「クリスチャントゥデイ」一社を除き、「キリスト新聞」も、「クリスチャン新聞」も、「クリスチャンプレス」もこの事件に触れてさえもいません。
犠牲になったのはクリスチャン学校に通う子供たちと教職員なのに、これはいったいどうしたことでしょうか?
しかし、筆者にはその理由が想像できるような気がします。
とくに「キリスト新聞」などは、いままで「性の多様性」に肯定的な姿勢をとっており、かえってNBUSといった「保守派」団体を牽制するかのような偏った報道さえしてきました。
彼らのナラティブでは、「性的少数者」であるトランスジェンダーは、彼らが敵視している保守派に「迫害」されている「被害者」でなければならない、ということのようです。
ところが、あろうことかそのトランスジェンダーがクリスチャン、それも子供たちを虐殺した、となれば、
トランスジェンダリズムの甚だしい暴力性が読者の知れるところとなり、
このナラティブはひっくり返ってしまう可能性があります。
それでなくとも、今現在、女性を「自認」する男性スポーツ選手が女性スポーツを引っ掻き回している実態や、
遅まきながらそれへの対策を打ち出し始めたスポーツ団体の動きなどが報じられ、
かつては破竹の勢いだったトランス、ひいてはLGBT運動の進撃にも陰りが見えはじめています。
すると、今まで松岡某といった急進LGBT活動家の言説をそのまま引用するような記事を書いてきたキリスト新聞などは、
従来の自分達のLGBT親和的な報道姿勢と、この乱射事件とのあまりの「食い合わせ」の悪さに戸惑っているのでは、とも想像できます。
ともあれ、クリスチャンメディアの内情を詮索するよりももっと重大なことがあります。
それは、トランスジェンダリズムの無法性とそれへの反発の広がりが公衆の間で知られるにつれ、
呑気にLGBTアライを標榜してきたクリスチャン団体や教会、牧師や教職者は、これから一般信徒たちや未信者さんたちからの厳しい視線に晒されるだろう、ということです。
ましてや、このナッシュビル乱射事件は、もともと(西欧諸国では)極めて暴力的要素の強かったトランスジェンダー運動の「終着点」である暴力テロリズムである可能性が高いです。
この事件のあと、どれくらい類似の事件が発生するかは分かりません。(発生しないことを願います。)
しかし、ひとたびトランスジェンダリズム運動の究極の形である暴力の発露が公衆に知られれば、
いままで日本キリスト教界隈においてトランスジェンダリズムを支持・推進してきた論者たちは、
この暴力を非難しつつ、より中庸・穏健な運動理論を改めて提唱するか、
理論のアクロバットを駆使し自らを正当化するしかありません。
今のところ彼らの多くはそのどちらもできず、様子見に徹しているようですが。
今後来るべきもの
ここからは私の個人的予想になりますが、
私はトランスジェンダリズムにはこれ以上の発展はない、と考えます。
暴力テロにまで行き着いてしまっては、彼らがいままでノンLGBT層からもらっていた「同情票」は一気に失われるでしょう。
トランスジェンダリズムに声高に反対していない人たちのなかでも、疑問や疑念はますます高まるでしょう。
むろん、学校教育で強烈なLGBT洗脳を受けた米国を筆頭とする西欧Z世代の多くは、それでもトランスジェンダリズムを支持するかもしれませんが。
そのようにして、トランスジェンダリズムは今後長きに渡って争いの種でありつづけ、社会に深い禍根を残すでしょう。
しかし、総体的に見れば、トランスジェンダリズムがこれ以上の勢力拡大をみることはない、と私は考えます。
もともと、男が女になれる、女が男になれる、そんな馬鹿馬鹿しい話があるはずはないのです。
しかし、それでも活動家たちが「自殺率が」などといって掻き口説くので、共感性の高いひとたちは思わず同意してあげていたのですが、
やがて男が女性スペースに侵入し、女性スポーツで無双し、あげく性犯罪者が女性を自認しはじめ、
また未成年へのホルモン投与や外科手術に反対すると怒り狂う活動家のありさまを見たら、
さすがにどれほど呑気な人たちでも目を覚ますでしょう。
しかし、私は将来を楽観してこのように予想しているのではありません。
そうではなく、私がいいたいのは、クリスチャンは今後「更なる悪の到来」に心備えをしておくべき、ということです。
イエスの再臨に向けて、いま世界は「産みの苦しみ」を通っています。(マタイ24:8)
だとすれば、戦乱も、自然災害も、人間社会における悪の広がりも、
まるで妊婦を陣痛が襲うごとく、間隔をあけながら襲来し、またしばらくするとおさまる、そのサイクルを繰り返すことになるでしょう。
そして、時が進むにつれその間隔は狭まって行き、その一方で「陣痛」の強度は高まっていくのです。
私はかつて、イスラム国をはじめとするイスラム過激主義のありさまを見て、この世にこれほどの悪があるのか、と面食らったものですが、
いま私たちが目にしているLGBT運動、とくにトランスジェンダリズムの内包する悪は、ある意味それさえも超越していると言えるかもしれません。
だとすれば、近い将来、LGBT運動をさらに上回るような強烈な悪が出現する、という予想は、(あまり喜ばしいものではありませんが)じゅうぶん聖書的根拠があると私は考えます。
かつてキリ新は、何を思ったのかイスラム教徒の寄稿者に記事を書かせたりしていたこともありましたが(←イスラム新聞か?)、それが最近はLGBT活動の代弁じみた報道も行っていたのは上述のとおり。
リベラル教会の姿勢もこれと大差なく、イスラムは平和の宗教というお題目を信じて、イスラム教徒にメッセージをさせたり、
ひどい場合になるとLGBTを公然と称する教職が講壇に立つことさえもあります。
断言しますが、これらの欺きに今飲み込まれてしまっているようならば、
今後出現するであろうさらなる強烈な悪の数々、
ひいてはその究極の形である「反キリスト」による企てを見破ったり、それに抗うことなど到底無理なことでしょう。
ただでさえ少ない日本のクリスチャンは、こういった誘惑や試みの繰り返しによって、もはや芥子粒というほどの数しか残らなくなるかもしれません。
ただ、私はだからといってそれほど悲観もしていません。
この日本がどこに運ばれていくかは、我々人間ではなく神の御手にあります。
そして、クリスチャンが神の召しを行えるかどうかは、彼らが社会で多数派かどうかに掛かっているのではなく、
むしろ、個々のクリスチャンがどれだけ忠実かという部分に掛かっています。
ですから、私たちは、いままで以上に聖書を学び、また日々祈り、礼拝や奉仕・交わりを通して主の御心を生きる必要があります。
イエス様は父なる神が与えられた人たちを一人も失うことはないとおっしゃっています。(ヨハネ6:39)
苦難はあるでしょう。迫害も起こるかも知れません。
私たちは日本という国を救うことができるかはわかりません。
しかし、自らの信仰を固く守り続けることにより、闇の中で光を発するビーコンとして神の召しを行うことはできるはずです。
クリスチャン読者のみなさん、どうかパウロが勧めたように、霊的な武装をしっかり整えていきましょう。(エペソ6:13-12)
それぞれ置かれた場所で(血と肉による戦いでなく霊による闘いを)闘って参りましょう。(同6:12)
闘いの本番はこれから、そして神様が日本のクリスチャンを用いられるのもきっとこれからです!