とある神学教授の警句?

 

先日、クリスチャンプレスである記事を読んで、思わずお茶を吹きこぼしそうになりました。

 

https://www.christianpress.jp/48938/

 

ざっと言いますと、

 

菅政権になってから、「日本学術会議」のメンバーとして推薦された学者のうち数人を、政権が任命拒否したんですが、その拒否されたうちの一人の神学者の先生が、

 

政権の今後について警鐘を鳴らしている内容です。

 

まあ、私自身は日本学術会議のメンバーの任命あるいはその拒否についての法的な是非はよくわかりませんのでそれについてはコメントはしません。

 

興味深いのは、そのあとの記述です。

 

「1949年に創設された日本学術会議は、『戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない』旨の声明を1950年、同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明』を1967年にそれぞれ発表した。その背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。」

 

ふむふむ、そうなんですね。偉い学者さんたちが集まって「軍事研究は絶対やらない」と決めたわけですか。うわ~「赤い」なあ~。。。。

 

「さらに2017年の『軍事的安全保障研究に関する声明』は、2015年の防衛装備庁による『安全保障技術研究推進制度』に対し、『将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い』と指摘し、過去の声明を継承するとの姿勢を改めて確認している。」

 

ううん?ここで私はさっそく躓いてしまいました。

 

この「安全保障技術研究推進制度」って、公募による研究助成の枠組みですから、やりたい人が手を挙げればいいし、やりたくなければやらなければいいのではないでしょうか。

 

だから、「政府による研究への介入」がどうとか言っても、好きに研究したい人はそもそも最初からやらない、助成金が欲しい人は金をもらうかわりに口出しされてもしかたないと腹積もりする、私は世間とはそんなものだと思っていましたが、偉い学者さんはちょっと考え方が違うようです。

 

(もしかすると、金は出してほしい、でも口は出されたくない、とか?うらやましい~っ、もしそんな生活できたらこの世の春ですね、私にはハナから関係ないですが.....)

 

(冗談はさておき、この制度についてはもっと面白い展開があるのですが、後述します)

 

「自民党政務調査会による『日本学術会議の改革に向けた提言』(2020年12月)は、独立した新たな法人格を有する組織とすべきと提起しているが、すでに国立大学が独立行政法人化のもとで財政と人事に関する権限を大幅に失ったことからも明らかなように、日本学術会議が会員の選出方法として第三者機関による推薦などを導入すれば、軍事研究の拒否は困難になると芦名氏。」

 

ここまで読むとますますわけわからなくなってしまいました。「軍事研究の拒否は困難になる」って、いったい何の話?

 

上で見たように、軍事にかかわる研究は「公募」でやるのだとしたら、そもそも拒否もなにもありません。自分が自発的に手を挙げる制度で、政府から「オマイやれ」と指名される制度ではないのです。だとすれば、「拒否」もへったくれもないはずです。

 

しかし、どうやら菅政権が学術会議の制度をイジろうとしているというので、この神学者の先生はもしかすると、「きっと将来、政府の陰険な裏工作によって『学術会議のポストが欲しかったら軍事研究に協力しろ』と迫られる~!どうしよ~!ど~しよ~!」てな想念を抱いておられるのかも知れませんね。

 

うう~ん。私にはそれでも疑問です。学術会議のポストってそんなに特権があるのでしょうか?そのポストをちらつかせるだけで「軍事研究」の要求に屈してしまう?くらい魅力的なのでしょうか?

 

でもやはり、得心が行きません。現在の公募制度をとっている限り、政府が学術会議の人事についてどんな工作をしようが、軍事研究をやりたくないと思っている学者がやらされるなどということが起こるとは到底思えません。

 

(まあ、軍事研究に積極的な人が登用されることはあるかもしれませんが。でもそういった形での出世を諦めるのが嫌さに本来やりたくない軍事研究に手を挙げる人がいるとしたら、それもなんだかみみっちいですな.........)

 

そもそも、政府が研究者をして強制的にあるテーマの研究をさせるなんてことは、日本の国のありかたを中国とか北朝鮮並みの強権全体主義国家にしなきゃできないんじゃないでしょうか。(例えば、政府に協力しなければどこへ行っても就職断られるとか、子供が学校に入れないとか、年金いきなり止められるとか)

 

でも、読み進めていくとこんな信念のご開陳が。

 

「その上で、東アジアで現実的に国家をどう守るかという来たるべき論戦に向けて、軍事力に依拠する国のあり方から発想の転換が必要と提起し、内村鑑三のデンマルク国の話(1911年)を紹介した。

 

『国の興亡は戦争の勝敗に因りません、其の平素の修養に因ります、善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません、否な、其の正反対が事実であります』

 

『国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません、将た又金ではありません、銀ではありません、信仰であります』」

 

私は内村鑑三さんを日本人キリスト者の先輩として尊敬しないわけではありませんが、こればかりはちょっと手放しでは受け入れられません。

 

この時代って日露戦争に勝ったばかりのころですよね。内村先生も、周囲がイケイケの状態であえてこのように逆張りを主張したことの動機そのものは私も理解できなくはありませんよ。
 

でも、このころの日本人は、敗戦というものを全く知らないばかりか、


今と違って、中国がチベットやモンゴル族あるいはウイグル族に対して言語・文化を改変したり家族を引き裂くなどして集団的に弱体化させるような、非道な方法による侵略がありうるなんて想像もできなかったんでしょうね。

 

この思想そのものは、いろいろな論考に値すると思います。でも、今の時代、(例えば中国との、正規戦非正規戦を含め)戦いに負けるということが、自分たちが地上から完全に消滅するくらいの帰結を伴うかもしれない、ということを知っている私たちのどれだけがそんな議論をそのままのみこめるでしょうか。

 

ましてや、これを「未信者」を対象とする政治的論戦に持ち込んでもなんら意味はありません。


信仰は個人と教会についての話として、政治とごっちゃにせず、分けて考えるべきでしょう。

 

ともあれ記事はこう結ばれています。

 

「『ナチスが最初共産主義者を攻撃した時』で始まるドイツの神学者マルティン・ニーメラーの詩にも言及し、『日本の近代史において国家が学問を統制するという動向は、次に国民全体に向けられることを示している。一つの自由が脅かされれば、他の自由も脅かされる。もし、日本のキリスト教がこの問題に対して無関心であるならば、いずれ、国家の統制は『信教の自由』に及ぶ』と警鐘を鳴らした。」

 

どうなんですかねえ~。少なくとも、日本(の一部)が中国に侵略されたら、そこから「全ての教会は共産党と習近平を賛美せよ!」てなことになって、私にはそっちの危険のほうがはるかに現実味があると思うのですが。

 

「最後に、日本学術会議の問題を他人事と捉えず、軍事研究に賛同しない、少なくとも侵略を肯定しない『平和』という共通の目的で対話する他宗教や非宗教者、さらには日本在住で外国籍を持つ人々との『ネットワークを広げること』、日本会議をはじめ改憲を志向する勢力との論争に備えて『平和運動の足腰を強くすること』の2点を提言して講演を結んだ。」

 

はいはい、わかりました。あれですね、キリスト者から仏教徒まで幅広く連帯して「憲法改悪を許すな~!」のシュプレヒコール、そいでもって「日本在住で〇〇国籍」の人たちもたくさん加わって「日本がまた戦前に戻る!」「今の政府は戦時中の暴虐を反省してない!」とマイクを持って....

 

ま、もうお腹いっぱいなのでいいですわ。

 

意味の全くの逆転

 

実は、この記事ってある「事実」を前提して読むと全く違った風に見えてきます。

 

この「安全保障技術研究推進制度」って、上で挙げたような公募の枠組みなのですが、

 

ある報道によると、以前北大が「微細な気泡を使って船の速度を上げる」云々のテーマでもってこの制度を使って研究をしていたのですが、なんとなんと学術会議のお偉方が「圧力」をかけて、この研究の継続を断念させた、というのです。

 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76267?page=2

 

「北大は2016年度、防衛省の安全保障技術研究推進制度に応募し、微細な泡で船底を覆い船の航行の抵抗を減らすM教授(流体力学)の研究が採択された。この研究は自衛隊の艦艇のみならず、民間のタンカーや船舶の燃費が10%低減される画期的なものである。このような優れた研究を学術会議が『軍事研究』と決めつけ、2017年3月24日付の『軍事的安全保障研究に関する声明』で批判した。学術会議幹部は北大総長室に押しかけ、ついに2018年に研究を辞退させた。」

 

なんのことはない、「学問の自由」を阻害し、全体主義政治をしいているのは菅政権ではなく「学術会議」そのものだったのです!

 

そうすると、冒頭引用したクリスチャンプレスの記事は、まるでものごとの是非が100%逆転した、奇妙な世界の出来事を報じているかのように見えてきます。そう、まるで高熱でうなされているときに見た夢とか、昔のアングラ映画みたいに......

 

他人の学問の自由を圧力をかけて、根拠不明の申し合わせ的な「ムラの決まり」を、津々浦々まで守らせるべくどこにでも出かけていく。

 

そんな学術会議サイドの一人である神学者の先生が、

 

「このままでは学問の自由が!」

 

「無関心でいては自由が失われる!」

 

「軍事研究が拒否できなくなる!」

 

.....って、学問の自由を奪い(そもそも軍事になるかどうかもわからない)研究を無理やり辞めさせていたのはどっちでしたっけ?(爆)

 

本当に不条理です。不条理このうえないです。

 

共通の「反射的思考」

 

なんだか、この記事を読んでいると、過去の投稿でご紹介した、反戦サヨク本に出ていた「語り部」の皆さんを思い出します。

 

というのも、私の子供が学校から借りてきた縁で昔読んだその本に出てきた「語り部」さんたちは、一人(クリスチャン)の元兵士の方を除いて、

 

「うっかりしていると今に日本も戦争の道を進むようになる!」

 

といった被害妄想?がすごいのです。政府が何か動きを起こすたびに「すわ戦争になる!」「戦前に戻る!」と大騒ぎのメンタリティって、ちょっと私には理解不能です。

 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12520902115.html

 

反戦サヨク洗脳読本が教えてくれた意外な真理 | クリスチャン世相分析 - ameblo.jp

おっと、また久しぶりの更新になってしまいましたね(苦笑)。書きたいことは多々あるのですが、時間が追いつきません・・・しかし細々続けていきたいと思っております。

ameblo.jp

 

また、「即位の礼」をきっかけにサヨクキリスト教界から噴出してきたいろいろな抗議?声明を分析したときも同じことを感じました。

 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12520902205.html

 

このとき、ある教団は、戦前に日本のキリスト教界の大部分が「転んで」しまったことについて、


その過ちをもう一度してしまうような危険が眼前に迫っているかのような切迫感(爆)でもって、


当時の安倍政権に向かって「二度と繰り返してはなりません」と言い放っていました。

 

いや、今別に「天皇陛下を拝め」って誰も言ってこないし、当分言ってくる気配もないのに、即位の礼が行われただけで「すわ、天皇崇拝の強制が!」「信教の自由がなくなる!」て大騒ぎ。

 

これらに通底した要素として、何かスゴく根深い、ヒステリックなまでの「恐怖感」というか、


ある出来事がトリガーになると想像が一挙に飛躍するようなパラノイア的心理状態が垣間見えるのです。

 

「崇り神」信仰

 

ここから書くことは、私のあて推量も入っていますし、かなり出放題を言わせてもらうところもありますので、話半分に読んでいただければと思います。

 

ともあれ、引用記事の神学教授、あるいは戦争の「語り部」の皆さん、そして「即位の礼」に伴って一斉に「抗議声明」を出したサヨクキリスト教団体というのは、

 

ある種の「祟り」を恐れているような精神状態と見受けられるのです。

 

そういうふうに解釈すると、まるで霧が晴れるかのように、ものごとがよく見えてくるのです。

 

私は以前、沖縄の「ユタ」とかそのたぐいの土着宗教にちょっと興味が出た時期があり、調べていたことがあります。(無論、批判対象としてです。)

 

地方によっては、そういった信仰の対象のための祭壇に供え物が毎日切らすことなく捧げられるようなこともあるそうなのですが、

 

ある記事で「しょっちゅう水差しの水を取り替えたり、こまめに供え物をしないと悪いことが起きる(祟りがある)」といったことを、その信仰の(神道でいうところの)神主さんが話していたのを読んだことがあります。

 

なんのことはない、神の子であるイエスが人々の罪による御神の怒りを引き受け十字架で死んでくださったことを信じるキリスト教徒にしてみると、

 

「ご機嫌取らないと祟りがあるって、そんなん悪霊そのものやん」

 

としか思えないんですが、

 

どうも、上述の神学教授、語り部、キリスト教団体、どれをとっても、おなじような性質の「祟り」信仰を持っているように見えるのです。

 

「憲法九条が絶対」であることを前提とし、その状態から少しでも状況が揺らぐと、「すわ、戦前!」「日本は戦争をするようになる!」「あの悲劇を繰り返すな!」。

 

これはまるで、「九条様」というご神体とそれに基づく「絶対非武装非軍事平和主義」という祭壇が彼らの信仰対象であるかのようです。

 

それを少しでも汚すような動き(安保法制、軍事研究、なんなら土地調査法もそうかもしれませんが)があると、もう大変です。

 

土着信仰を奉ずるムラの長老よろしく、「九条様」をないがしろにする若者を見つけると飛んで行って𠮟りつけるのです。

 

「こら!貴様、軍事研究をするなんて、九条様になんてご無礼を!いまに祟られるぞ!」

 

「へ?9条様ってただの紙切れに書いてある文でしょ?」

 

「バカモン!お前は何もわかっとらん。九条様をないがしろにすると祟りで戦が起こり、大勢人が死ぬぞ!そればかりではない、お前も兵隊に取られて人殺しをさせられるんじゃぞ!」

 

「ははは、またまたぁ~。たかが気泡で船体の抵抗を減らす研究くらいでそんなん起こるわけないじゃん、まだそんな迷信信じてるの?」

 

「ダメといったらダメじゃあッ~!お前は九条様の恐ろしさをわかっておらんのじゃ!軍事研究なんぞしたら、このムラ全体が軍国主義になり、近くの村に侵略させられ、わしらの自由は全て奪われるんじゃ!」

 

「ちょっと~、じっちゃん興奮しすぎだよ、落ち着きな?」

 

「わしの目の黒いうちは絶対に、絶対にこのムラで軍事研究なぞ許さん、わかったか!(ハアハア)」

 

..........ちょっとバカにしすぎでしょうか?

 

でも、彼らのやっていることはまさにこれだとしか私には思えないのです。

 

彼らを根底から動かしているのは「今に戦前に戻る」「日本は侵略国家になる」という、根拠の乏しい恐怖です。

 

彼らの「信仰」は、厳密にいうと、「平和を達成したい」というポジティブなものでさえなく、

 

「ああっ今に戦争が!侵略が!」という、ネガティブな恐怖に基づく「祟り」信仰だと思うのです。

 

ブログ主の願い

 

ここまで書いてきて、私はなんだか「九条信仰」をもとに「ヘーワ」活動に邁進する人たちの心情を想像して、とても悲しくなってしまいました。

 

政府が何か動くたびに、「すわ軍国主義が!」と震え上がり、そこから転じて怒りに燃えつつ抗議声明、デモ、果ては圧力活動に邁進する。

 

そこに、心の平安なんてひとッかけらもないですよね。それともあるのかな?

 

私自身は、戦争なんて九条を守ろうが蔑ろにしようが、起こるときは起こる、と考えています。

 

なぜなら、他の国が「日本を侵略しよう」と決めたら、もうその時点で戦争は始まってしまうからです。

 

それに、究極的に言ったら、国々とその指導者たちを動かしておられるのは、創造主である神です。たかだか人間の「ヘーワ」活動くらいで、戦争を防げるなんて思い上がりもいいところです。

 

このことを個人の信仰生活のレベルに言い換えても同じです。ヨブのように神の前に正しい人でさえ、子孫を殺され財産を奪われるような悲劇に見舞われることもあるのです。

 

我々クリスチャン自身は、日々神様の導きを祈り求めながら、働き、あるいは家庭を守り、あるいは勉学しつつ礼拝と集いを続けるしかありません。

 

そして、何らかの政治的動きにより宗教の自由が制限されることがあれば、地下に潜って教会を続けるだけです。

 

もし、クリスチャンのうちの誰かが、日本の平和を守るため菅政権に反対することが自分の務めだと心から確信しているなら、それを止めることは私にはできません。

 

しかし、芦名教授の議論を読むにつけ、学術界トップにおられるクリスチャン有識者の開陳する論理展開が、どこをどうとっても突っ込みどころ満載の「ムラの迷信」レベルであるのが、とてもとても侘しい気持ちになります。

 

断言しますが、こんな議論に動かされて信仰の仲間に加わる未信者はほとんどいないでしょう。果たしてクリスチャンであってもどれほど心動かされるかは疑問です。

 

(以前ブログ記事で書きましたが、わたしの体感レベルですが今の若い子たちはサヨク洗脳が通用しにくい「現実主義」的マインドセットを持つ子たちが多いです。)

 

わたしは、かつての自分が若いころサヨクだったのでよけい思うのですが、こういった「九条祟り信仰」に陥っているクリスチャンの方がいれば、そのうちの何人かでもそこから覚めてくれることを切に願います。。。。